小さな夜は一睡に空け

夜は一睡の間に明けていた。

レナの囁きとキスと明り取りの窓から差し込む光に起こされて、やはりこの体験が夢や幻覚でないとしみじみ認識した。

立ち上がったレナは裸身を光に晒し、アスリートの無駄のない、モデルのようにしなやかな姿をハッキリと見せていた。

左の臀部に玉に瑕というように、一点のアザが付いていたのは俺が強く指を掴んでしまったからだろうか。


俺は二人の股間で絡み乾いた液が体毛で乾いて突っ張るのを感じ、

ジャケットのポケットから常備していたウェットティッシュを取り出した。

レナは別に構わないということだったが、そうもいかない。

ちゃんと拭いておかないと痒くもなるし。


レナは上機嫌そうに、調子外れの鼻歌を歌いながら、服の構造を俺に見せながら、ゆっくり身支度を整える。

今度、があるのか知らないが、その時は滞りなく脱がせられるように眺めていると、自分の着衣を忘れていたのを思い出した。

慌ててシャツに頭を突っ込む俺をおいて、腰の短刀までしっかり装備を終えたレナは鍵をおいて、部屋を出ていった。

「ボクはちょっと用があって先に出るので、部屋の鍵は出る時に締めて、宿主に渡しておいてもらっていいかい?

鍵を渡すと宿主が軽食を出してくれるから、食べながら待っててくれればいい」

というお使いクエストを受けたらしい。

出掛けにキスをしていく依頼主を見送ると、俺も手早くジャケットのボタンの2番め、3番目を留めた。


今のところ、レナ以外はまるで頼ることができないこの俺だが、流石にコレくらいはできるだろう。

昨日から持ち込みっぱなしのジョッキを持って行く気遣いも加えておけば、宿主もサービス良くしてくれるかもしれない。

そんなことを考えながら部屋を出、ドア横の台にジョッキを置いて、さあドアを閉めて鍵を掛けようというその時、俺達がいたまさにその部屋からトコトコと小さな誰かが後をついて出てきた。

カラーコーンのように赤く大きな三角帽子を目深に被った、真っ赤なローブの何者かが。


そして、その何者かは本を読みながら、一顧だにせず器用に俺を避けて、昨日俺が現れた宿のロビー兼食堂に向かっていった。

俺は声もかけられず、ただその背中を見送っていた。

揺れるドアの軋む音が、妙にクリアに聞こえる。

俺は部屋を見直し、部屋の隅にあった大きな荷物がちょうど半分くらいになっていて、そのなくなったサイズがちょうど今出ていった何者とよく似ているサイズ感だったことに気づいていた。

重い鍵を四苦八苦しながら、ようやく回すと今度は抜くのに手間取りひとしきり騒がしくしてから、食堂に向かった。

耳まで赤くしていたのは、恥ずかしかったからじゃない。恥ずかしかったからじゃあないぞ。いや、恥ずかしかった。


長テーブルの並ぶ食堂に、洒落たバーカウンターは無かったが奥の丸テーブルに、それと思しき赤ら顔の大男がいた。

テーブルと壁にもたれかかって、寝ているのか起きているのか死ぬほど疲れているのか判然としないが、身体を揺らして呼吸しているところを見れば、とりあえず生きているようだ。

古くからの観光地にいるような、代々この施設を継いでいるオーナーなのだろうと俺は思うことにした。

場所が自分を食わせてくれるといわんばかりに営業努力とは無縁な、そして、テーブルの上の酒を手放すことのない姿勢に、少したじろぎつつも羨ましくも思えた。


「おはようございます。鍵渡しておくようにレナに言われました。あと軽食をいただけると聞いています」

俺は棒読みなセリフとともに、鍵をテーブルに置く。

主人は鍵にすら目をやることなく、テーブルのどこか一点を見つめたまま、食堂の中央を指差した。

木皿にのったパンと、木の皮のような見てくれの干し肉がきっとレナの言う軽食なのだろう。

振り返ると、主人がワインを俺のジョッキに注いでいた。


「朝からワインなんですね」

「◎✕△□」

主人が何やら口走りつつ、基本姿勢に戻ってまた動かなくなると初めてのお使いは終了した。

もしかして、ここでは俺の言葉が通じないのでは、と不安がよぎる。

考えてみれば、レナと通じたこと自体が奇跡と言っていいくらいなのだ。

凍りついた笑顔で回れ右して食材を手早く取ると、極力目立たない端を選んで席についた。

職場でも端に追いやられていた俺が、今度は好き好んで端についている。

なぜなら、さきほどの三角帽子から離れて座りたかったからだ。


赤いツバ広の三角帽子からベールが下がり、身体はローブに覆われた出で立ちのそいつは、まるでサーカス小屋のテントに足が付いたようなという例えで説明するとわかりやすいだろう。

ベールの正面は本で塞がれているのだから、全く見当が付かない。付くはずがない。

弱みを握っている気がする何者かとともにする食事はごく静かで、事実俺たち3人しかおらず、祈るような気持ちでレナを待つ。

堅いパンの木の皮のような表面をじっくり時間をかけて唾液で柔らかくしてやっと一口嚥下し、おなじく木の皮のように堅く塩辛い干し肉をじっくり時間をかけて唾液で柔らかくしてようやく嚥下する。

「俺は木喰上人か。悟りの道を目指したつもりはないぞ」

と、ひとりごちてワインを口に含んで、その味に全力で顔をしかめた。

昨日のビールが残っていたジョッキにそのままワインが注がれていたのだ。

うまいわけがない。


ゲームっぽく言えば、緊急自主クエスト「ワインを交換してもらう」が発生しました。

俺のドリンクを交換してもらうべく主人の前に立ち、数年前の海外旅行でそうしたように、まずは日本語で語りかける。

「このワイン交換してもらえますか? 残ってたビールと混ざってしまって、エグい味になってるんで」

と、ジョッキの中をワインの主に見せながら指差して、ノブを捻るように"交換の意"を示そうと努めた。

「△□…」

主人のアルコールで内臓が傷んでいる匂いに笑顔で耐え続けていると、主人は俺のジョッキに意を得たりと継ぎ足した。

なるほどこうすれば、ビールとワインの比率は後者が高くなり、いつかはワインが限りなく100%に近づき、ワインを飲んでいる気持ちになる、てそういうことじゃない。

「いや、このジョッキごと交換して欲しいのですが」

「△□…」

主人は再度注ぎ足し、溢れんばかりに注がれたその一杯を俺は見つめ続けた。

捨てるわけにも行かないだろうし、かと言ってコレを朝一番から空ける胆力は俺にあるのだろうか。

マズイ、もう一杯とイケるほど俺の中でアルコールの順位は高くない。


主人の丸テーブルに置かれた俺のジョッキが不意に横取りされたのに気づいたのは、その盗み手が先程の歩くサーカステント野郎だったと理解してようやくのことだった。

ローブのスリットから覗いた拳がジョッキを握り、首だけ前に倒れるようにそれへ覆いかぶさっていく。

俺の肩ほどの身長しかないソイツがゆっくりと、ちょうどクレーンゲームのアームのように仰向けになっていく。

ジョッキに開かれたベールが大きく動く喉元を隠すことを忘れ、俺は日焼けとは程遠い乳白色の肌を服装と見比べて納得していた。

ソイツがデフォルトの姿勢に戻るのを見守ると、空っぽになったジョッキが俺の手元に戻された。

一瞬、ベールの奥に浮かぶ2つの光点と目が合った気がする。


「△□…」

主人は、みたび俺のジョッキにワインを注ぎ、また動かなくなった。

「主人は言葉が苦手」

歩くサーカステントが短くそう言い残すと、また隅っこに戻っては本を構えた。

なお、そいつの鈴を振るような声からサーカステント野郎ではなく、サーカステント女の子だったことが察せられた。

そして、緊急自主クエスト「ワインを交換してもらう」は無事終了したことにしておこう。


俺は心を決めてサーカステントの対面に腰を下ろすと、ベールの奥に話しかけた。

「ワイン、ありがとう。お陰でワインが飲めるようになった」

変な表現になったのを誤魔化しながら、俺は混ざりっけなしのワインに口に含む。

なるほど、サーカステントには悪いが元からマズかったみたいだ。

飲めたものでない生水しかない地域で、ぶどうの樹に吸わせて濾したものを飲んでいるだけというパターンの飲み物だと俺は身をもって理解した。

舌にかぶさる苦味を打ち消すべく、塩辛い干し肉を口に入れると、打ち消すどころか両方のキツイ部分が協力する悪夢のコラボが展開された。

慌てて放り込んだパンが緩衝材となり、そのありがたさを痛感した。


そんな俺の体たらくを前に、あえてかそうでないかは不明だが、サーカスは自身のワインに手をのばすと一息に飲み干した。

古めかしい新書サイズの本を持つ手はテーブルに置かれたまま、やはり機械のような動きで。

俺はソイツの本の表紙を見つめては、あいにく俺には理解出来ないように書かれていることを理解し、ため息をついた。

大きな蕾のようなイラストに見えるが、輪郭はともかく花びらを描く目的ではない線の集合が絵ではなく、文字だと気付いたのだ。

これが日常的に使われている書体となると相当厄介だ。

ただ一列にならんだ文字を追うだけでなく、単語がどこにあるかを探したり、単語の格変化から文に再翻訳する謂わばパズルの性質があると、語学と教養が求められることになる。

アラビア書道がその最たる例であろうか。


それはさておき、俺が一連の動作を見送り、それでも喋りだせないでいたのはひとえに口の中の厄介者たちが今だにのさばっていたからだ。

軽く探りを入れたいのは山々なのだが、一方サーカスはまるで興味無いとばかりに定期的にページを繰り続ける。

頑丈な食べ物との戦いで唾液腺と顎に食べ疲れの症状を覚えて、ようやく嚥下すると咳払いをした。

「なあ」

俺は昨日の何かを知っているのか問いただしたい、だが、ストレートに聞くと藪蛇なのでチラッと見ながら何気なく声をかける。

返事は意に介する様子もないサーカスがページを進める音だけ。

「何読んで……」

と言いかけたところで、騒がしい音を立ててドアが開き、逆光の中で誰かが立っていた。


レナが戻ってきたと期待したが、残念。

だらしない足音で近づいて来たのは、まるで似つかないシルエットの男二人。

縦に長いのと横に長いのがそれぞれ。

逆光から外れ、くたびれたチュニックに身を包んだ男が姿を表した。


「おめぇ見ねえ顔だな。俺らはこの辺りを締めているヴァレリーとウッズだ。名前は?」

そう言って、差し出された手が握手を求めているものだと気づくと、俺は慌てて手を出した。

一見友好的な仕草とは裏腹にヴァレリーは握り返すことなく、冷たい手のひらを開かれたままだった。

「ああ、スミスだ」

「スミス。何かあったら相談してくんな。ヴァレリーと言えば、この辺りでは名の知れた男だ」

ようやく俺はこの男が初めから友誼を結ぼうとしてるのではなく、新参者に目を光らせに来ただけと気付いた。

ヤのつく自営業のようなものだろう。

俺は俺で自然に偽名を名乗れるくらいにはこの世界に慣れてきているのかもしれない。

視界の端でサーカスが小さく頷いたような気がした。


「おめぇさん、どこから来んさった?」

「新宿区北新宿」

「ああ、あそこか。随分前に近くは通ったな。先を急いでいて寄れなかったが、悪かねぇトコだ」

テーブルに寄りかかって、息をするように嘘をつくヴァレリーに俺は少し楽しくなった。

本当か、どうしたらそこにたどり着くのか、なんて真に受けなくていい信用の出来なさは却って救いのように思えるのだった。

「それは残念だ。名物の濡れ甘納豆はオススメしたい」

「そうか、アレは美味いらしいな。ところで、北新宿ってぇと遠すぎはしねぇが、近くもねぇ。何しに来たんだこの街まで。女か?」

「恋以外にこの街ですることはあるのか?」

「かぁ~、やっぱり女か。まぁよろしくやろうぜ兄弟」

ニヤついたまま、俺の肩を叩く。

兄弟の前に"穴"が付くんだろうが、勘弁願いたいものだ。

まったく信用と実のない会話ではあるものの、意思疎通ができること自体には随分とホッとした。


「そうだ。最近の若い奴らはだらしねぇから、兄弟も気に入らなかったら気合い入れてやれ。なぁに先に手を出したモン勝ちだ喧嘩はざまぁみろ」

シャドウボクシング入りの武勇伝の披瀝による脅しにきりかわる。

一方的にまくしたてられる俺を黙って見ている、いや見ているのか? このサーカスは。

あと、後ろのウッズとかいう巨漢も慣れたように沈黙を保ち続けていて、なんだお前ら同類か。


「まぁなんだ。強く生きろよ。そして、信念を持って生きろ」

自分の優位を確立したと勘違いして満足そうにヴァレリーが去り際に振り返り、指差して言った。

「ああ、俺達のマダムに滅多なことしたら殺す。誰であってもだ」

俺達のマダムって、マダムがそもそも俺達のって意味を含んでいるが固有名詞だろうか。

そもそもマダムって誰だ。


意気揚々とした後ろ姿を見送りながら、俺はこの街で生きていくのなら上下関係やら力関係やらの生々しい部分に、慣れていかなければならないのだろうことを悟りはじめていた。

パッと行って、金を落として、サッと帰る観光客気分でやれたらどれだけ楽だろうとは思うが、さて。


出ていく二人の姿がドアの向こうで一礼するのが見え、隙間から花嫁姿のようなドレス。

「では次へ行きましょうか」

「はい、マダム」

マダムという言葉が聞き取れた瞬間、ドアが閉じ、部屋の暗さに目がなれるまで今しばらくかかった。

確かにマダムという呼び方がふさわしい、穏やかな笑顔を湛えた貴婦人という言葉が似合う妙齢の美人が瞼に残っていた。

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