四話

第4話-1


 短命とはどのような気分なのか……。


 それを考えるたびに、ハルの心臓は止まりそうになった。喉になにかつっかえたように呼吸が苦しく感じた。息をしているのに、空気の中に酸素がないんじゃないかとも考えさせられた。時期にそれが過呼吸という症状だと知った。


 水の中をもがくような、どんなに手を手繰っても何も掴めない。冬の寒い中、汗ばんだ身体は急激に体温を奪っていった。


 その夜、美紀は夢を見た。


 雨の中に傘を差したユキが隣にいる幻を―――


 隣に少女がいるだけで、他を見ることはない。いや、目視する必要はなにもない。もはや、他の風景などどうでもよかった。


 この先の運命が、雨であろうと、土砂降りだろうと、地獄のような日々が待っていようと、隣にスベテを包み込んでくれるハル自身のカタワレであるユキがいてくれるのであれば、なんにも恐れる存在などこの世には存在しないのだ。


 世界が、広がっていくのだ。鳥になって空を駆け上がるような日々を、ずっと夢見ることができたのに………

 


 目が覚める。

 冬は、晴れやかの朝にも、身に沁みるほどの冷徹を連れてくる。この日、ハルにとっては大事の日の―――はずだったのだが、

 事実、生きていくための延長戦でしかなくなっていた。


 遠く昔の今日この日は、唯一受験した高校の受験結果が発表される日だった。いつもより遅くセットされた目覚ましに不安を抱えながらも、夢という幻惑に揺れていた身体からだをゆっくりと起こして、着替えを始める。


 愛想のないカバンに受験番号をいれてから、唯一受験した川越東城高校へと向かったのだ。

 

 ハルには、他の高校への選択肢はなかった。

 ユキの特別支援学校への入学が判っていても、彼女は心に嘘を付くように、この学校を受験するほかなかった。でなければ、自らの身が崩れ落ちそうになった。


 長すぎる人生、幸せや幸福が待ち構えていないと知りながら、立ち向かわなければならない苦痛の毎日。それは、呼吸のできないほどの荒波を超えていく作業に似ている。


 いや、そんな到着地点が見える生ぬるいモノではない。


 その絶望とは、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に出てくる地獄に落とされた罪人が顕著に表現されているのではないだろうか。地獄の血の底、泣くことさえできずに、死にかけたカエルのようにもがいて―――やがて、沈み消えていく人生。


 それと知りながら生きる理由、彼女はいつものように退屈な毎日に、ただ見惚れるように広い空を仰いでいた。電車の中で、たくさんの人に囲まれながら、いつでもハルはひとりぼっちだった。



 だからというか、あの出来事はハルにとって、広い空を掴めたのと同じような願いだったのかも知れない。


 川越駅の幅の広い改札口。

 ざわめきの中、東城高校行きの大型バスが停車する東口へ向かう途中、どうしても川越名所の小さな時計台モニュメントが目についた。だが―――そこには、信じがたい風景が待ち望んでいた。


「ハルちゃん?」


 華奢ながら、パーカーに腕を通した少女がいた。


 短く梳かれたボブカットは男の子にも見える。妖精を思わせる小顔の横顔には、妖艶な笑みが漂う。少女がなぜ、いつものふんわりとした女性ではなく、こんなにも男のような風貌をしていたのかは甚だ疑問ではあった。―――が、ハルはあまりの感動に、思わぬ嗚咽おえつが走る。


 川越駅がふたりだけの世界になる。 

 ざわめきを無視できるほどに、ハルの鼓動は強く、早く確実なモノになっていく。


 ユキはきっと、ハルが改札口から出て来るのをずっと待っていたのだろう。少しだけ、くたびれたような嘆息をした。


 ハルは、裏返る声を抑えながら、ユキへと尋ねた。


「どうしてこんな場所に?」

 

 そう、ここにユキがいる理由―――それは地球が反転するほどありえないことだ。なぜなら、彼女は高校受験を選ばなかった。高校受験のためという特別許可がなければ、中学校を休学する認可は降りないハズなのに。それに、几帳面な少女がサボりや暇つぶしをするために川越駅にいたとも考えられない。


 ましては、ハル自身への冷やかしなんて………いや、それはありえるかも知れないが、


「ヘンに期待させるのは嫌だったから………てヘっ☆」


 ユキは手元に隠していたあるモノを自身の口元に寄せて表情を隠す。それは、ハルが持ってきた受験番号が記載されたハガキとほぼ同じものだった。


 とんでもないサプライズに、思わず心どころか、心臓を強く握られるような強い衝撃を受けた。信じれないほどの喜劇は、痛みと似ている。


 特に、成就をあまり知らない彼にとって、それはあまりに慣れない感情だった。


「ユキ………」


 まだ合格もしていないのに、ふたりは強く手を握っていた。ハルの瞼には涙が溜まり始める。


 本当は、

 ハルにとって、受験合格だとか、同じ学校生活はどうでもよかった。彼の心に満たしてくれた真の感情は、少女が自身の願いを受け止めてくれたことにだった。これから続く未来への第一歩が、急激に蘇る足音に、胸が悶えるほどの幸福が訪れていた。


「ごめんね。最後の最後まで、受験するべきかどうか迷ってたの」

 

 ユキは、イイワケのように笑顔の小顔の眉はハの字になっている。


 そんな言葉に狂うほど、心が感情が支配できない。―――ナニが迷いだ。ハルは、拳を固める。愛情は妬みと似ている。彼の感情はソレが制御できない。


 受験日は何週間も前だったのに、同じ会場にいたはずの少女はそのことを一言ひとことも告げることはなかった。ハルは毎日のように少女のいなくなる苦痛を味わされていた。血抜きをさせられる牛のように、この日々は死へと繋がるカウントダウンにも似ていたのだから。


「それならそうって、俺がソコマデ信じられないのか? どうしていつも、ひとりで決めて、ソレが正しいって………そんなの違う! ユキは………」

 愛情は怒りとなり、怨念を言葉にするように―――ハルの憤りが止まらない。


「ユキは、俺の幸せを勝手に決めるな! そんなの全部間違っている。俺の幸せは、ユキが傍にいることなのに。だから、お願いだ。たのむよ………マジでさ………」


 そのとき、情けないほどの依存関係に、ハルは気がついてしまった。

 いや、知っていても、その感情がなんなのか、彼は理解することができていなかった。


 だから少女が離れていくべきだと考えていることも。恋は盲目―――愛情が人を狂わしてしまい、冷静な判断力が欠如していることも判っていた………のかも知れない。


「うん、そうだったね。だけど………」


「―――だけどじゃねぇ‼」


「だから、ちゃんと聞いてよ‼」

 突如、ユキは耳障りなほどに高い声を吐き出した。


「私だって………ハルちゃんの傍にいたかった。そう、嫌われることが怖かった。だけど今だけは―――恋は盲目になれて、よかったこともある。今は言えないけど、ふたりでずっといられるようになるから。そしたら、お願い。もう一度、私にチャンスをください。そして、今だけは私の嘘に付き合ってもらいたいな?」


 それがおよそ2カ月前の、美紀の胸のうちに刻まれた癒えない傷だった。


 結局、少女の言葉も理由も、彼女の死後は知られることがなかった。だからというか、ユキの穢れを除霊する際にそのことを知ることができるのではないかと期待していたのだ。

 

 だが、人生がうまくいくはずないのと同様、除霊どころか、真実を知ることさえできずにいた。


 

 改めて、昔のことが思い出される。


 受験結果に、ふたりはずっと一緒にいられると信じていた。

 このさきも。そして、高校生活のずっと先も………


 だが、その期待はしばらくして、消え去ることになる。


 卒業式の日の終わりにユキは飛び降りた。

 その気持ちは―――理解できなくもなかった。


 

「そのまま死ねたら私、幸せなのに」 

 否定


「だってね。人は老いてズダボロに動けなくなってから死ぬより、幸せのうちに死ねたら、どんなに幸せか――」

 否定


「いつかはハルちゃんも私を忘れられる」

 否定


「じゃあ一緒に、できるだけいようね」

 うん。


 ハル自身も理解できる感情の一つに、人間は幸せのうちに死ねたらいいのにと、呆然なことを考えてしまうことがある。あのときはユキの希死念慮に否定の念をぶつけたが、それは自身の我儘で、利己的で浅はかな思考だったと言うことができる。


 スベテを捨てて、楽になろうとする愚行を―――それをまさか、少女が実行するとは微塵も思ってなかった。秒針の音をふさぎ込んでいたから気づけなかった。


 それからずっと、ハルには贖罪の日々が続いていた。


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