<8>
クレセントがアトラントで過ごす最後の週末は、国王夫妻の主催する昼食会に出席していた。アデリルも同席していて、彼女が主催するものよりずっと、客の人数が多い。
一通りの食事が済んだ後、その大勢の客の居並ぶ中で、アデリルはまっすぐクレセントに近づいてきた。そして、
「クレセント様」と、盛装姿で姿勢良く、両手を重ねて彼の前に立つ。
「よろしければ、これから私の散歩にお付き合いいただけませんか。以前お約束して、まだ案内していない私の庭園をお目にかけたいのです」
「よろこんでお供します」
クレセントはそう答えて、アデリルの手を取った。国王夫妻を含めて大勢の客に見守られる中、彼らは連れ立って宮廷の中庭へ出た。
「人払いをしてあるから大丈夫なんだけど、奥の庭園まで行きましょう」
クレセントと腕を組んで歩きながら、アデリルが耳打ちした。フリアナだけが少し離れたところからついてくる。
目的の場所につくまで、ほとんど言葉を交わすこともなく歩く。クレセントはアデリルの歩みに合わせていた。今日も天気が良い。少し雲があり眩しすぎず、気温も暑すぎず温かい。ふたりが庭園へと続く散歩道を歩く間も、景色は初夏の緑の色に満ちていた。
式典の日も、その後に続く滞在期間も、アトレイでもっとも良い時期が選ばれたのだと、今さらながらクレセントは気がついた。
建物がだいぶ小さく見える頃、植え込みに囲まれた庭園についた。
そこは王女のための美しい庭園だった。薔薇の咲き乱れる花壇の中、小さな煉瓦が敷き詰められた舗道を歩き、水盤と日時計の脇を抜けたところに、小ぎれいな半球型の四阿がある。アデリルが促して、ふたりはその中でテーブルを挟んで向かい合わせに座った。通り過ぎるかすかなそよ風が心地良い。
「必要ならお茶の支度をさせるけど」
「いや、いい」
クレセントは断って四阿からあたりを見回した。フリアナが離れているが見えるところに立っていて、それより遠くにぽつぽつと人が立っているのがわかった。どの隊士なのかは判らないが、騎士団や衛兵の制服は着ていなかった。クレセントはわざと顔をそらし、
「どれだけ色っぽい話を想像されているんだか」と、茶化すように言った。
「そうね、滞在期間の終わりに、ふたりだけで話すことなんて、ひとつよね。まあ、私たちも別の意味でひとつだけど」
と、アデリルは悪戯っぽく肩を竦め、それからすぐに真剣な眼差しでクレセントを見た。
「最後の打ち合わせをしておこうと思って。こんな風に話が出来る機会も、もうないだろうから」
間もなく終わる滞在期間の大詰めに、宮廷内では催しが目白押しだ。ふたりとも勿論それに出席するが、今みたいな打ち明け話をする機会はないだろう。クレセントにもそれがわかっていたので、彼は居住まいを正してアデリルと向き合う。
「まずは、これ。約束のもの」
アデリルはそう言って、懐から封筒を取り出すとクレセントの方へ滑らせた。
「中を見て。ほとんど言われた通りに書いたけど」
クレセントは取り上げると、中から便箋を取りだした。アトレイ王室の透かしの入った紙に、濃い藍色のインクで書面が綴られている。すぐに素早く目を通した。書かれた内容には過不足ない。決めた通りだ。つまりクレセントの目的に適うものだった。
文章の終わりには、はっきりとアデリル・アトラントーレの署名。式典最終日の署名式でされたのと同じ書体、つまり紛れもなくアデリルの直筆だった。
「前にも言ったけど、これは単なる親書よ。法的な拘束力はないから、今後ラントカルドでアトレイ王室に用がある時は、まず私宛てに文書を送ってね」
「送り主を見ただけで、握り潰されそうだ」
「私に直接届くんだったら、ぜひそうしたいところだけど、生憎手紙の仕分けをするのは臣下の役目よ。まさかカルド王室の紋章入りの手紙を、勝手に捨てたりできないわ」
冗談めかしたやり取りにも、少し馴染んできた頃だった。そう考えながらクレセントは封筒の中に元通り便箋を戻し、自分の命運がかかった大切な手紙を懐にしまった。
「アトラント王女の封蝋は、あとでフリアナに持っていかせるから」
クレセントは頷く。そして沈黙が訪れる。すぐそばで鳥の囀りが聞こえた。彼はアデリルが何か言うのを待っていたが、伏し目がちなまま、口を開く気配はない。
こんな風に話ができる機会も、もうないだろうから。
アデリルの言葉を思いだし、クレセントはわずかの間迷ってから、結局気になっていたことを尋ねた。
「レンデムはどうする?」
アデリルが顔を上げた。クレセントはその顔を覗き込む。自分はここを去るが、レンデムは違う。これからもアトレイに居続けるかも知れないし、ウェントワイトに戻ったとしても同じ国の中、しかも従兄だ。いくらでも行き来することが出来る。
「クレセントが言った、あの時思ったの。今まで表沙汰にすることをずっと恐れてたけど、いっそ言っちゃえば良いんだって。彼の婚約者を傷つけることになっても、私も彼に傷つけられたと、彼は卑怯者だと、なにもかも公にしちゃえば良いって」
「腹を括ったのか。なら、一件落着だな」
「でも、やっぱりそれは最後の最後の手段にしたい。それで、もうひとつお願いがあるんだけど」
頷いたクレセントを、テーブル越しにアデリルが上目遣いで見上げる。
「あなたがいなくなって、まだ何かレンデムが言ってきたら、私はクレセントを好きになって、あなたことが忘れられないってことにしても良い?」
「本気で言ってるのか?」
意外な申し出に、クレセントは驚くよりも笑ってしまった。アデリルは何度か頷く。
「だって、レンデムは自分が私に何をしたかもわかってるし、クレセントが私をかばってくれたことも知ってる。だけど都合のいいことに夢舞台亭でのことは知らないし、私がクレセントを好きだと言っても、疑う理由はないと思うの。その上、あなたはもういないから真実を確かめようもない」
「どうだかな。でも、好きにすれば良いんじゃないか。その時には俺はもうアトレイにいないし、アデリルが俺をどう言おうと、俺には何もできない。わざわざ許可を求めるなんて、間抜けだな」
「あなたの意見を尊重しようと思ったのよ」
アデリルがそう言って唇を尖らせる。そのまましばらく見つめ合って、堪えきれなくなりふたりは同時に吹き出した。
「クレセントを送り出す時には、みんなになんて言う? 私は夢中になったけど、あなたはラントカルド王室のことを最優先に考えて、アトラントに婿入りすることはできないって結論になったと言えばいい?」
「アデリル殿下とは思えない殊勝な言葉だな。それが事実だったとしても、いつもどおりに振る舞えばいいんじゃないか。クレセントは見込み違いだったと。ちょっと見た目が良くて、ダンスと口の上手さに乗せられたけど、滞在中に近づきになってみたら、王女が思っていたような、アトラントに婿として迎えるような人物じゃなかったと。だからさっさとお帰り願ったってな」
「それは魅力的な言い分ね、でも私」
アデリルは笑いながらそう言って、クレセントから目を反らすと、庭園に目を向ける。
「…これ以上、取り引きに使える材料を持ってない」
彼女は外へ視線を向けたまま呟いた。クレセントはその横顔を眺め、自分でも無意識に、左手で胸を押さえた。そこには先ほどアデリルから受け取った封筒がある。
これは彼女との取り引きの末に手にいれたものだ。自分がラントカルド王室に残れるか、ゆくゆくはその王位を継ぐことができるか、その足がかりとなる重要な手紙だった。
クレセントにはわかっていた。取り引きに釣り合うように天秤にかけたのは、自分の野心と、そしてもう片方には。
「もう止めろよ、アデリル」
思った時には口にしていた。アデリルが振り向く。クレセントは自分でも気づかず、彼女の方へ身を乗り出していた。
「自分の気持ちを取り引きに使うなんて、止めろ。アデリル、それは誇り高い王女のすることじゃない」
「クレセント…?」
アデリルがテーブル越しに彼を見上げる。それを眺めて、クレセントは衝動の赴くままに、懐からアデリルの手紙を取り出した。それを軽く指で弾く。
「確かに、悪くない取り引きだったよ。アトレイの次期女王の式典に招待され、花婿候補として指名されて、滞在を許される。一ヶ月過ごした後に、王女の懇願を振り切って母国に奉仕するために戻る。筋書きとしては十分だ。俺はカルド王室に残れるかも知れない。でも、それで何が変わる? それは俺への評価じゃない。アトラント王国のアデリル王女への注目だ。俺の魅力にも能力にも関係ない。誰も気づかなくても、俺だけはそれを知ってる。俺はそこまで落ちぶれるのか? 国を出る時、あれほど惨めな気持ちだったのに、この先もまだそれが続くのか?」
「だってクレセント、それがあなたの望んでいたことでしょう? 私があなたに嫌な思いをさせるために招いた、この一ヶ月の滞在を耐えてまで手に入れたかったものでしょう?」
「そう思ってた。それが手に入る、今この瞬間になって…」
そう言いながらクレセントは、アデリルの署名の入りの手紙を手に取った。
こんなことをすれば後悔するとわかっていた。けれど今そうしなければ、それよりもっとずっと大きな後悔するだろうことも、クレセントにはわかっていた。
クレセントは手紙を両手で掴み、まっぷたつに引きちぎる。
アデリルが目を瞠った。何か言おうと口を開き、けれど何も言葉にならないままだ。彼女の前で、クレセントはさらに細かく手紙を破く。アデリルは呆然とそれを眺めていた。
細かくなった紙切れを、クレセントはテーブルの上に放り出す。そして片手でこめかみを押さえながら、半ば独り言のように言った。
「弱味につけ込むなんて、これじゃあカルド王室のやり方と同じだ。自分がされてあんなに惨めな気分だったのに、結局俺は、アデリルに同じことを繰り返してる。自分が毛嫌いしたやり方で、こんなものを手に入れたって、意味がない」
彼は言った。そしてカルド王室と同じやり口を用いる人物をもうひとり、クレセントはアトラントに来てから知っていた。彼はアデリルに顔を向け、未だ茫然としたようなアデリルの目をまっすぐに見つめて言った。
「俺はレンデムとは違う」
ラントカルドも、カルド王室のことも、今この瞬間はどうでも良かった。クレセントはただ、アデリルにそれを認めて欲しかった。
クレセントは知ってしまった。誇り高く威厳に満ちた次期女王としてのアデリルではなく、まだたった十七歳の、胸に秘めた淡い恋心を弄ばれて傷つくアデリルを。
式典の最終日にアデリルに滞在客として指名されたことを思い出す。あの後アデリルは不遜に言い放った。償いの機会だと考えろ、と。
ならそれは今だと、クレセントは思ったのだ。
間もなく訪れる別離の前に、それをわかって欲しかった。自分は王女の気持ちにつけ込んで、卑怯な真似をするような人間ではないと。
「クレセント、自分で言ってることがわかってる? 本当に、本気で言ってるの? せっかく我慢してアトラントに来たのに、この一ヶ月ちょっとがぜんぶ無駄になる」
アデリルの必死な様子に、クレセントは首を振って笑う。
「無駄でもない。誰も知らないカルド王室の王子が、アトラントの王女に滞在客として指名されただけでも奇跡的だ。国でも話題になったと聞いてる」
「だからこそ、だめ押しの親書でしょう? これじゃあせっかく指名を受けたのに、その好機を逃した王子になる」
「無駄じゃない。アデリルに許されて、帰ることができる」
前にも一度、クレセントは同じような言葉を口にしたことがある。あの時、それはアデリルの怒りを冷ますための、その場しのぎの嘘だった。
それが今は本心で、それを心から望んでいる自分がいる。
アデリルにそれが伝わったかはわからない。彼女はさらに茫然として、クレセントを見つめた。その表情に笑って、彼は言った。
「式典の前日、あの店でアデリルに絡んだのは、八つ当たりだ。アトラントの王女が妬ましかったんだ。競争相手もないただ一人の跡継ぎで、国民に期待され、お披露目式は注目を浴びてる。苦労知らずな王女だと勝手に決めつけて、俺の立場との差に苛々してた。しかも婿候補として、そんな王女のご機嫌伺いをしなきゃならない。嫌で仕方なかった。話を持ってきたのは父とは言え、ここに来ると決めたのは俺自身なのにな」
「だから、成功したじゃない。理由はどうあれ私はクレセントを指名して、私と結婚しなくても親書があれば、カルド王室での立場が有利になるはずだったのに…」
「このまま親書を持ち帰って、それで王室に残っても、また不満だらけで息苦しい生活に逆戻りだ」
「でも、親書がなかったらもっと惨めよ」
「そう思ってた。でも、もういいんだ」
「そう言うなら、手紙」と、散らかった紙切れを指して、アデリルが言った。
「二度は書かないわ。破り捨てたのは自分よ」
「それでいい。親書より、別れる前にアデリルに許される方が、大切なんだ」
「そんなの、なんの役にも立たないのに…」
アデリルが顔を歪めた。そして堪えきれなくなったように、潤んだ目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。それを隠すように、すぐに顔を背けた。
「役に立たなくもない。王女の泣き顔も見られたしな。チャコールが王女は人前で泣かないと言っていた」
「つまらない土産ばかりね」
「アトラントの次期女王にとってはな。カルド王室のしがない王子にはそうでもない」
アデリルは涙を拭くと立ち上がり、クレセントの方へ回りこんだ。そして彼を誘った時と同じように、背筋を伸ばして言った。
「お別れの挨拶は、いましておくわね」
クレセントも頷いて立ち上がる。四阿の脇でふたりは向かい合った。宮廷に戻れば、滞在の終わる日まで、もうこうしてふたりきりで顔を合わせることはないと、わかっていた。
「クレセント、私のほうこそ意地悪してごめんなさい。それから、レンデムのこと、いろいろ助けてくれてありがとう。感謝してる」
「アデリルも、肝心な時には素直になれるんだな」
「私を誰だと思ってるの。次期女王として、高い教育を受けてるのよ」
アデリルが右手を差し出した。クレセントはその手を取る。そして短い握手を交わした。彼女の手を離すのが惜しい気がした。クレセントがそう思ったのが伝わったかのように、手を離す時一瞬だけ、引き留めるようにアデリルの指先が触れた。でも、それきりだった。
それから間もなく、お披露目式の最後に王女から指名を受けた客たちの滞在は、終わりを告げた。
アデリルからクレセントへの別れの挨拶は注目されていた。ひょっとしたら婚約発表になる可能性もあったからだ。そうでないことは、本人たちだけがよくわかっていた。
事前に示し合わせた通り、アデリルは皆の前でクレセントの人柄を保障し、心惹かれたことを認めたが、お互いの立場を慮り、それ以上の関係に発展することはないと告げた。
その言葉の裏に誰もが、それ以上の気持ちにはならなかったことを感じるだろう。
居並ぶ客たちと順に握手し、最後の別れの時が近づく。
「クレセント様」
アデリルは彼の前に立ち、手袋を外した手を差し出した。
「立派な挨拶だった」
クレセントはそう言って、アデリルの手を握った。
「ありがと。あなたがいなくなったら、ほんとは振ってやったって言いふらすわ」
「好きにしてくれ。俺のほうは国に戻ったら、言い寄る王女を振りきってきたと言うつもりだから」
「いっそラントカルドでも芝居をやったらいいのよ。自国の王子が他国の王女から逃げ回る話をね。王室にもさぞかし注目が集まるでしょうよ」
「確かにな。そこはアトラントを見習いたい」
クレセントは頷き、顔を見合わせてふたりは笑いあった。アデリルが手を離そうとすると、クレセントが彼女の指先を掴む。アデリルが不思議に思う間もなく、指先がクレセントの唇に押しつけられた。
周囲にはふたりだけではない。人の目がある。今は握手と、短い別れの挨拶の時間だ。
だが、アデリルは黙ってされるがままに任せ、振りほどいたりしなかった。
「元気で。アデリル殿下」
「あなたも。クレセント王子」
お互いに軽く会釈する。そしてアデリルは次に進み、別の客人との挨拶に移った。
結婚相手には相応しくない。王女はそう宣言したも同然だ。そしてクレセントはアトラントと王室同士の交流のないラントカルドの王子。次に会うことがあったとしても、大勢の中でだろう。もう二度と、ふたりきりで顔を合わせ、言葉を交わすことはないだろう。
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