<7>
数日後の夕方、アデリルの身体が空くわずかな時間に、クレセントは王女の応接間で、彼女とふたりきりで顔を合わせていた。お茶の時間は口実で、滞在の最後に渡される親書の内容を決めていたのだ。クレセントが自分に必要な要点を伝え、アデリルはそれをアトレイ王室と、自分なりの言葉に直していく。
いくらも経たないうちに、フリアナがレンデムの訪れを伝えた。
ふたりは思わず顔を上げ、同時に顰めた顔を見合わせた。それでも今は部屋の中にふたりきり。レンデムとは言え、様子を見に来た従兄を断っては邪推を生みかねない。
アデリルが素早く下書きをかき集め、手近な棚の中へ突っ込んだ。クレセントがテーブルにまっさらな便箋だけを広げていると、待ちかまえる間もなくレンデムが入って来た。
「やあ、クレセント様。ふたりで内緒の話ですか? お邪魔だったかな」
クレセントは立ち上がって一礼する。彼は満足そうにふたりを見ながら、彼らのいるテーブルへ近づいてくる。クレセントはアデリルを見た。動揺した様子はないが、にこやかでもない。ただ目に少しだけ警戒の色を宿して彼を見ると、
「レンデムは本当に、私が誰かといるのを邪魔するのが好きなのね」
そう言って呆れたように溜め息を吐いた。レンデムは気にする様子もなく、椅子を引き寄せるとアデリルの脇に座った。机に広がった便箋とペンを眺めて、レンデムが尋ねる。
「手紙を書いていたの?」
「そうです。クレセント様はどんな言い回しの懸想文がお好きか探るつもりだったのに、レンデムが来たせいで台無し」
クレセントはアデリルに目を向ける。目が合うと彼女は悪戯っぽく笑った。だいぶ余裕が出てきたじゃないか、と、クレセントも笑い返す。
「私の方から差し上げますよ。願ってもない」
「ずいぶんアデリルと親しくなったようで」
「残された日数も、多くはありませんから」
「熱心なことですね。ただ、アデリルはいつでも魅力的な臣下に囲まれていますし、前にも言ったが心に決めた相手がいるから、あなたの思い通りにはいきませんよ」
アデリルの目つきが一瞬険しくなったが、彼女はすぐにクレセントを見た。彼が小さく頷くと、彼女は改めて従兄に微笑んで言った。
「さすがにレンデムには隠し事ができないわね。私にすでに心に決めた人がいると、打ち明けてないのになぜわかったの?」
レンデムの顔から表情が消えた。
「クレセント様の前でふざけるものじゃないよ」
「あなたが言い出したことだし、私はいつ自分の気持ちを知られてもかまわないわ」
「ほら、クレセント様、聞きましたか。王女はあなたに期待するなと言っていますよ」
「私はまだ王女の気持ちを直接伺ってませんから。最後まで諦めるつもりはありません」
「女王の夫になる方は、辛抱強さと諦めの悪さ、どっちも必要ですものね」
アデリルとクレセントはそう言いながら、レンデムの前で微笑みあった。
「この際だから、聞いておきたい」
レンデムは表情こそ変えなかったが、冷たい口調でクレセントに言った。
「アデリルに何を言ったんだ?」
「なにも」アデリルが遮るように言った。
クレセントはわずかに彼女の方へ身を乗り出し、重ねて言った。
「彼女に言う通りなにも。私の正直な気持ちを打ち明けただけです」
「そうか」と、レンデムが鼻で笑った。
「それで殿下は、あんたの気持ちを受け入れてくれたか? 王子様」
「人の気持ちを動かすのには、時間がかかるものですからね。ましてアデリル様のような繊細な心の方なら、なおさら」
「なら今、聞いたらいい。幸い王女はいつ自分の気持ちを知られても良いそうだから」
明らかに苛立った口調で、レンデムが言った。
「そんなのあなたが決めることじゃない。出過ぎたまねは止めて、レンデム」
「いつ言っても良いんだろう? アデリル、今この場ではっきり彼に言ってやるといい」
アデリルが従兄を睨み、クレセントではなく彼に向かって、強い口調で言った。
「私が好きなのは、クレセント様よ。あなたじゃない。何度も言ってるけど、レンデムのことなんか、これっぽっちも好きじゃない」
「下手な芝居は止めろ。アデリルが好きなのは僕だよ」
レンデムが身を乗り出して遮った。アデリルの表情が更に険しくなる。
「嘘は止めて」
「嘘? どうしてそんなことが言える? 僕たちは婚約して、教会で式を挙げたのを忘れたのか?」
彼の言葉に、クレセントは思わずアデリルを見た。彼女は色を失っている。
「子どもの頃の話よ。ただの真似ごとだわ」
「でも、僕は忘れてない」
クレセントはそう言って彼女に顔を寄せ、挑むようにクレセントを見た。
「誓いのキスのことも」
「もう止めて!」
アデリルが悲鳴のように叫んだ。
「レンデム、何が望みなの? 私を好きだなんて、嘘ばっかり! ここへ来てからレンデムは、私に嫌な思いしかさせてない」
「アデリル、僕の気持ちは変わってない。僕はアデリルに相応しくない相手からきみを守ってるんだ」
「婚約者がいるのに、よくそんなことが言えるわね」
「あれは形式的なものだ」
「バカにするのもいい加減にして」
アデリルは激しい口調で言い、立ち上がるとクレセントの脇に立つ。
「あなたと結婚するくらいなら、クレセントと結婚するわ。そうすれば二度とそんな口はきけなくなるでしょう。選ぶのは王女である私で、あなたじゃない。それを忘れないで」
アデリルは顔を赤くしたまま言ったが、俯いてしまった。クレセントは彼女をレンデムから遮るように立ち、レンデムに笑顔を向けて静かに言った。
「だ、そうです。レンデム様、アデリル様が選んだのは私で、あなたじゃない。負け犬には、お引き取り願います」
「おや、僕に命令する気かい?」
「レンデム様、簡単なことなんです」
背後に震える華奢な肩を感じながら、クレセントは静かに言った。
「港町にいるあなたの子どもの母親に、彼は三年前に十四歳の王女をたぶらかしただけでなく、今でも彼女と婚約していると言い張る、不誠実な男だと告げることくらい」
そう言うとアデリルが顔を上げ、彼の言葉を止めるように服の背中をぎゅっと掴んだ。けれどクレセントは振り返らず、じっとレンデムを見据える。
「…彼女は納得してる」
彼はそう言ったが、目が揺れた。クレセントは更に薄く笑って見せる。
「納得してるかどうかは、どうでもいいことです。アデリル様は、一度たりともあなたのことが好きだとは言わなかった。夫には相応しくない。そうですよね、アデリル様」
「その通りよ。クレセント様もご覧になったでしょう。彼がしてるのは、私への嫌がらせだけ」
クレセントの背後から、アデリルがそう言った。声はわずかに上擦っている程度だが、腕が震えているのが、背中越しに伝わっていた。
「聞きましたか、レンデム様。あなたはしていることは、王女への不敬罪です。王女相手でなくても罪ですが」
「弱小国の王子になにが出来る」
「私がすべてを明るみに出すことを、躊躇う理由なんてありませんよ。レンデム様は前に言いましたね。私のアデリル王女への態度は、政略結婚のためのご機嫌取りだと。その通りですよ。アデリル殿下の好意を得て自分の評判を上げるためなら、アトレイ王室の醜聞を公にすることに、私はなんの不都合も感じません」
背中を掴む手に、さらに力が入ったのがわかった。けれどそれは後回しだ。
「醜聞なんて、大袈裟なものじゃない」
「私としても、レンデム様の考える程度の騒ぎで収まることを願います。ウェントワイトには、ラントカルドの貿易船も数多く入港していますから。自国の王子の名を、不名誉な記事の中に見たくないでしょうからね」
「…脅すつもりか?」
「事実を言ってるだけなのに、なぜレンデム様が脅しだと思われるのか、わかりませんね。ただ、ここから出て行けと言っているだけです」
レンデムはクレセントを忌々しそうに見つめた。だが、続く言葉はない。追い打ちをかけるように、クレセントは声を上げていった。
「フリアナ。レンデム様がお帰りになる」
フリアナが顔を出した。気まずい空気に気づいたのか、ちょっと妙な顔をしたが、彼女はレンデムに近づいた。彼は聞こえよがしな舌打ちをしたが、これ以上は分が悪いと思ったのだろう、立ち上がるとフリアナの後について部屋を出て行った。
従兄の姿が消えると、アデリルは力無くくずおれるように椅子に座った。顔面が蒼白だ。
「大丈夫か?」
「言わないって…、誰にも言わないって、取り引きしたのに…」
俯いたまま、掠れた声でアデリルが呟く。放心したようなその様子に、クレセントはさすがに慌てた。
「あれは方便だ。レンデムを追い払えただろ。親書も書きかけなんだし、取り引きは続行だ」
「…本当に?」
アデリルが顔を上げた。目にいくらか生気が戻っている。クレセントは深く頷く。最も彼女の青ざめたままの顔色を見ると、今すぐ続きに取りかかれるとは思わなかった。彼はアデリルの隣に腰を下ろし、その顔を覗き込んだ。
「アデリルこそ、式まで挙げてるとは言わなかったじゃないか」
「…思い出したくもないできごとだったのよ」
「子どもの頃のこととは言え、見る目がないな」
冗談ぽくそう言うと、決まり悪そうにアデリルが目を反らした。
「大目にみて。いつから好きだったかなんて覚えてないくらい小さな時から好きだったの。あそこまでろくでなしだって気づいたのは、本当に最近なの」
「誰かに相談したりしなかったのか」
尋ねながらクレセントは、アデリルの周りには、そういうことを打ち明けられそうな年の近い女官が見あたらないことに気がついた。彼女も首を振る。
「跡継ぎには大抵、年齢の近い侍女や従者がつくもんだと思っていたけど、アトレイ王室は違うんだな」
「私にも、もちろんいたのよ。世話係が入れ替わり三人も。でも、みんな私の周りの男の人に夢中になっちゃうの。それで私のことがおろそかになって、さらに恋した相手からも振られちゃって、宮廷にいられなくなっちゃうの」
少し調子を取り戻したようなアデリルの口調に、クレセントは怪訝な視線を向ける。
「それ、本当の話か?」
「本当よ。最初は幼なじみのチャコール、次は神学校でチャコールの兄役だったイオディン、それからイオディンの同級生だったアルセン。私が彼らと親しくなったのは、そのことがあったから。私の世話係が彼らに会わないわけにはいかないから、もう同年代の世話係はいらないって、私から言ったの。おかげでフリアナが来てくれて、今はよかったと思ってる」
「だとしても、チャコールは? ずっと仲が良くて、レンデムのことも知ってるんだろ。彼にくらい、言えばよかったのに」
アデリルに自覚がなかったとしても、レンデムが彼女に何をしてきたか知っている者がせめてもう少しいれば、彼が自分の前でここまでアデリルを傷つけるような振る舞いに出ることはなかったのではないだろうか。そして他の誰を置いても、チャコールならそれを打ち明けられていてもおかしくないはずだ。
アデリルは返事に困ったように、再び顔を曇らせて俯いた。
「クレセント、あなたはこんなこと、子どもの頃のくだらない話だと思うだろうけど…」 と、前置きして、重たい口を開いた。
「黙っていろって、言われたの」
彼女はそう言って、さらにクレセントから顔を背けた。
「レンデムに好きだと言ったのは、確か十二歳くらいの時。その時、彼も私のことが好きだと言ってくれた。子どもの頃だし、すごく嬉しかったのを覚えてる。レンデムはその時私に、ふたりのこの気持ちを守るためには、誰にも言っちゃいけないって、お互いの立場を考えて、黙っていた方がいいって言ったの。だから私、それをずっと守ってた」
「アデリルは子どもの時の話でも、レンデムはそうじゃないだろ」
当時すでに今の自分より年上のはずだ。それを考えてクレセントは眉を顰める。
「そう、だから余計に大人扱いされた気がして嬉しかったの。今考えればあの頃から、レンデムは私を利用するつもりだったんだと思う。でもそれは今だからわかることで、あの時はふたりの秘密を守り通して、もっともっと彼に相応しい女性になるんだって思ってた」
「それで律儀に、誰にも言わなかったのか…」
クレセントは溜め息を吐いた。アデリルが俯いたまま頷く。
「口約束の婚約したのは三年前。レンデムがウェントワイトに赴任する直前。こんなにわかりやすいことはないのに、バカな私にはわからなかった。そのレンデムにウェントワイトで子どもが生まれて、婚約したのが二年前。レンデムはその話を伝えにアトレイに戻ってきて、ショックを受けた私に言ったの。これは不本意なできごとで、婚約も形式的なものにすぎないし、私のことが一番好きなことに変わりはないって」
「王女相手に大した度胸だな」
思わず口を挟むと、アデリルがわずかに微笑んだのがわかった。
「だけどその時も、私はまだ彼の言葉を信じて浮かれてた。でもレンデムはすぐにウェントワイトに戻って、私の前からはいなくなっちゃった。彼の言葉に惑わされなくなって、さすがに私も、はっきりじゃないけど、なにかおかしいと思い始めたの。ちょうどその頃、タイミング良くアルセンと知り合って、それでわかった。男の人の中には同時に何人もの女性をいっぺんに口説ける人がいるんだって。口先だけの好きって言葉を、心にもないことを平気で言える人がいるんだって。アルセンがそうってわけじゃないんだけど」
アデリルが真剣に話しているのはわかっていたが、最後の一言に、クレセントは思わず吹き出しそうになる。
「あれはあれで役に立っていたんだな」
「そう、だから実はアルセンにはとっても感謝してるの。本人には、言えないんだけど」
アデリルはそう言って、俯いたまま口を噤んだ。膝の上で固く握られたままの拳を見つめて、クレセントは言葉を探す。浮かんできたのは、聞いて良いのか悪いのか、判断できない言葉だった。
でも、とクレセントは考える。アデリルが自分からここまで話したのだ。取り引きを完遂するためにも、知っておいていいはずだ。
「なあ、アデリル。まだ好きなのか?」
窺うように尋ねると、アデリルはクレセントを見上げた。それから弱々しく首を振る。
「もう好きじゃないし、今度のことではっきりわかった。レンデムが望んでるのは、私じゃなくて王位だってこと。だけど…」
と、彼女は自分の頬を両手で覆った。
「好きだった時のこと、まだ忘れてない。レンデムも私のことを好きだと言ってくれた時の嬉しかった気持ちも、裏切られた時の辛かった気持ちも、まだ消えてない」
そう言ってアデリルは、再び深く俯く。
「だから冷たくしちゃだめ、他の人にするように普通にしてなきゃだめ、そうでないといつまで経っても、レンデムに私が彼を好きだと思わせ続けることになる。ずっとそう思ってるんだけど、頭ではわかってるんだけど」
そこで一度言葉が途切れた。次にクレセントの耳に届いた声は、震えていた。
「できないの」
「泣いてるのか」
「泣いてない」
クレセントは思わず言ったが、アデリルが強くかぶり振る。声だけなく、その肩も震えていた。かける言葉が見つからなかった。
普段なら十七歳の少女の、そのさらに十三、四歳の頃の恋愛話なんて、ばかばかしくて聞けたものじゃなかった。けれど目の前のアデリルは真剣で、傷ついていた。それはクレセントにもわかったし、それを笑い飛ばしたい気持ちは起こらなかった。
アデリルが見られたくなさそうに俯いたまま、顔をさらに背けたので、クレセントは溜め息を吐いてから椅子の向きを変え、彼女に背中を向ける。
「今さら気にするなよ。取り引きしてるだろ。泣いたところ見たくらいで、なにも変わらない」
そう言うと、すすり泣く声が聞こえた。クレセントが黙っていると、
「本当は世話係の娘たちが、ずっと羨ましかった。たとえ報われなくても、誰にも隠さず素直に好きだと言えるから。だから私は許してた。でもそれが間違いで、彼女たちはみんな宮廷を去らなきゃならなくなった。だから余計に、レンデムとのことは隠さなきゃって思ってたの。でも、それも間違ってた。私のしたこと、結局ぜんぶ間違ってた」
涙声でアデリルがそう言った。その後にはもう言葉はなかった。押し殺したようなすすり泣きに、時折嗚咽の声が混じるだけだ。
クレセントは背中にそれを聞きながら、どうしていいかわからなかった。ただ、アデリルを置いてこの場から立ち去る気にもなれなかった。
それで黙ったまま、彼女が泣きやむまでそこにいた。
その間に気がついた。自分はレンデムとは違う、と彼女に言ったことがある。でも、結果として同じことをしていたことに。
確かにクレセントは彼女の恋心を利用したわけではなかった。けれど王位にしがみつくため、自分の目的を果たすために、アデリルの気持ちを利用した。それはよくある政治的な取り引きで、別に珍しいことでもない。だとしても今、レンデムがアデリルを傷つけたのと同じ仕打ちを、自分も彼女にしていた。
アデリル王女は、競争相手もないアトラント王国のただひとりの跡継ぎ。何不自由なく大切に育てられ、居丈高で傲慢な態度も許される、カルド王室に育った自分とはまったく違う存在だと思っていた。
それがこんな風に人知れず、思い通りにならない気持ちを胸に秘め、それを誰にも打ち明けずに何年も我慢していたことを、クレセントは今知った。そして初めて気がついた。
彼女は確かに王女に相応しい品格を備えているけれど、やはりまだ、たった十七歳の少女に過ぎないのだ。
晩餐の時にアデリルの姿はなかった。王女は体調が優れないと説明があっただけた。居合わせた客は疲れが溜まったのだろう、と短い間だけ彼女への心配を口にして、話題は別のことに移っていった。レンデムもクレセントから離れた席にいたが普段どおりで、アデリルのことをどう考えているのか、クレセントにはなにひとつわからなかった。
献立は申し分ないが退屈な晩餐を終えて、部屋に戻ろうと廊下を歩いていると、
「クレセント様」と、誰かに呼び止められた。
振り返るとチャコールだった。意外に思って立ち止まっている間に、彼はクレセントの前に立つ。
「お呼び止めして、すみません。ひとこと言いたくて」
「俺に?」
「夕方、アデリルが具合が悪くなった時、そばにいて介抱してくれたとフリアナから聞きました。ありがとうございました」
頷いたチャコールは、そう言って丁重に頭を下げた。クレセントはわずかに驚く。
「…チャコールに礼を言われる日が来るとは思わなかった」
「店からあなたをつまみ出しましたからね。だとしても、アデリルへしてくれたことは別です」
「アデリルに会ったのか?」
泣き腫らした顔を思い浮かべて、クレセントは尋ねた。しかしチャコールは彼の予想とは裏腹に、首を振った。
「いいえ、フリアナに話を聞いただけです。アデリルは静かに休みたいって。今になって式典の疲れが出たみたいです。滞在客の相手も公務とは言え気を張ってるだろうし、良い機会だから、気にせずゆっくり休むように言いました」
「アデリルがそう言った?」
「煩わせたくなかったから直接会ってませんけど、フリアナにはそう言ったと聞きました」
なぜそんなことを聞くのかと言うように、わずかにだがチャコールが顔を曇らせる。
クレセントはレンデムが、と言いかけた口を閉じた。
目の前のチャコールはどうやら何も知らないらしい。誰にも言わないし、今となっては誰にも知られたくないというアデリルの決意の固さの一端を、見たような気がした。
それを思った途端に、クレセントは自分でも意外なほど、チャコールに苛立ちが湧いた。
「それでなぜチャコールが俺に礼を? 礼ならもう、アデリルから直接聞いてる」
チャコールがわずかに眉を顰め、それからすぐに取り繕うような笑顔を浮かべる。
「他ならぬアデリルのことですから。彼女はおれの仕えるべき主君で、だけどその前に大切な友人です。友人のための礼を言われるのが不服ですか、クレセント様」
「王女のことで、チャコールまで俺に礼を言う必要はないと言ったんだ。ふたりが親戚だろうが親友だろうが、俺には関係ない。礼ならアデリルからだけで十分だ」
どこか不遜に言い放たれた言葉に、クレセントは軽く頭に血が上ったのがわかった。それで勢い任せに口を開く。
「チャコールこそ、そのアデリルの代理人気取りはなんだ? アデリルのことを何もかも知ってるつもりなのか?」
チャコールの顔が険しくなる。気分を害したことはわかったが、クレセントはここで引き下がる気にはならなかった。
「そりゃ、おれは男でアデリルは女の子ですから。知らないこともあると思いますよ。それでもあなたより、おれはよっぽどアデリルのことを理解してます。クレセント様」
「都合の良い時だけ好き勝手に口出ししてるだけだろ。アデリルが泣いた時に、そばにいてやりもしない」
その言葉に、チャコールはクレセントを小馬鹿にした表情を浮かべて言った。
「アデリルは人前で泣いたりしませんよ」
「そんなことないだろ。王女の立場を離れれば、彼女だって十七歳の女の子だ」
チャコールはさらにクレセントを見下すような視線をむける。それはほんの一瞬だったが、クレセントはそれに気づいた。
「アデリルは小さな頃から時期女王として厳しく育てられてる。中でも国王陛下はなにが気に入らないのか、娘が人前で涙を流すのをお気に召さない。人前で泣くのはみっともない、王女の振る舞いに相応しくないって、アデリルは徹底的にしつけられているんです。俺だってアデリルが泣いたところをほとんど見たことないのに、クレセント様の前で泣くわけない」
クレセントは黙った。チャコールが言うなら、それは紛れもない事実だろう。そしてアデリルが肩を震わせながら、精一杯自分から顔を背けていたことを思い出す。アデリルにとってあれは。しかもお互いの弱味を取り引きに使うような自分に、泣いているところ見られるということは。
クレセントが黙ったことを、チャコールは自分の言い分で黙らせたと考えたらしかった。勝ち誇ったような顔つきで、彼は続けた。
「そんなことに気が回るとは、ずいぶんアデリルと親しくおなりのようで。あなたに仕える日も近いかも知れませんね」
けれどクレセントはアデリルの泣き顔を思いだし、それを右から左に聞き流していた。
「そんなにアデリルを想うなら、夫になって彼女を支えてやれば良い」
「夫にならなくたって、おれはアデリルを支えてる」
「自分の気が向いた時だけな」
チャコールの目つきが再び険しくなる。怒っていることはよくわかるが、彼はそれを感じさせない静かな声で言った。
「あなたはやっぱり最初の印象どおりの人ですね。アデリルからもおれからも、礼を言われるのに値する人じゃない」
「チャコールも最初の印象どおりだ。自分の手の届くところなら、何でも自分の思い通りになると思ってる。実際にはそうじゃないことに気づかない」
「それはおれよりも、アデリルに役に立ちそうな忠告ですね。彼女にも伝えます。では、おれはこれで失礼を」
チャコールはそう言って慇懃に一礼してから、静かに踵を返した。怒り任せに立ち去ることをしないのは、さすがにキリエール家の人間だった。
彼を怒らせたことはわかっていた。けれど考えとは裏腹に、気分は爽快だった。
クレセントは腹の底でチャコールを嗤う。
なんでもかんでも知った気になってるが、おまえの知らないアデリルがいるじゃないか。
それを思うとどうして胸のすくような気持ちになるのか、クレセントは自分でも深く考えたりしなかった。
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