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 三度目の週末はアデリルにとって、久しぶりに心穏やかな日だった。

 レンデムとクレセントを含めた式典絡みの客の大半が、王室に近い有力者の招待を受けて、アトレイ近郊の領有地へ出掛け、一泊するとわかっていたからだ。

 彼らは朝早くに出発したので、アデリルが宮廷内に姿を現す時刻には、もうアトレイを離れている。宮廷のどこを歩いても、ふたりのどちらの姿も目にしなくて済むのは気が楽だった。アデリルは客の対応をすることなく、のんびりと午前中を母の部屋で過ごしていた。それから部屋へ戻ろうとフリアナを従えて、自室に戻るために廊下を歩いていた時だ。

 庭に面した窓のところに、数人の親衛隊士と女官が固まっているのが目に入った。珍しいことでもない。王女の姿を見つけ、軽く頭を下げる彼らの脇を通り過ぎた時、

「あっ、あの、アデリル様」

 上擦った声がアデリルを呼び止めた。振り返るとそこには、見知らぬ女官が立っていた。

「わたし、ニンフェと言います。クレセント…様のことで、お聞かせしたいことがあって。一瞬でも、お時間をいただけないでしょうか」

 この娘がニンフェか、とアデリルは目の前の彼女を眺めた。華奢でほっそりしていて、確かに従僕の服を着せて顔を隠したら、少年で通りそうだ。今は晒している顔は美人というほど迫力はないが、雰囲気が可愛らしい。なんの紹介もなく突然王女に話し掛けた彼女を、周りの女官たちがやや慌てて諫めている。アデリルは彼女に向き直り、笑顔を浮かべると、

「クレセント様のことなら、どんなことでも知りたいわ。ぜひ、話を聞かせて」

 と、わざと周囲を見回して言った。そして手近な部屋へ入り、扉の前にフリアナを待たせる。ふたりきりになると、ニンフェはわずかに上気させた顔を上げ、

「アデリル様に、お願いがあって」と、おずおずと進み出た。

 アデリルはさすがに図々しいと思わないわけにはいかなかった。いくら彼女の主人であるクレセントに弱味を握られているからといって、ニンフェの頼み事に応じてやる必要はない。こっちだって、式典の前日にクレセントにされたことを忘れたわけではないのだ。

 それでも一応アデリルは表情を崩さず、耳を傾けるふりをする。

「クレセントのことを、気に入ってくれましたか?」

「それは…」と、アデリルはどう答えるか迷う。

 取り引きのことを、彼女が知っているのかわからなかったからだ。ニンフェは返事を待たずに続けた。

「式典の前日に、クレセントがアデリル様に無礼を働いたことは知っています。でも、あれは普段の彼じゃないんです。王室に手柄を持って帰らなくちゃっていう圧迫感と、この町の雰囲気と、お酒がそうさせたんです」

 理由がどうあれ無礼は無礼よ、とアデリルは心の中で思ったが、ニンフェの言葉を聞いていると、彼女は自分に対して緊張して喋り続けているのだとわかった。

「彼は悪くないでしょう? アデリル様は、いろんな人をご存じだと思いますが、カルド王室ではいちばん容姿が良いっていわれてるんです。青灰色の髪と目も珍しいし、一緒に並んでも引き立ちますよ」

「確かに、立ち回りは上手そうね」

 アデリルは若干の皮肉を込めてそう言ったが、ニンフェは嬉しそうに顔を輝かせる。

「そうでしょう! アデリル様はやっぱりクレセントの良いところに気づいてくれると思ってました! 失礼を承知で言いますが、アデリル様、他に心に決めた方がいないなら、クレセントを夫に選んでくれませんか」

 期待を込めた目で見つめられながらそう言われ、アデリルは呆気にとられた。

「だって」と、アデリルは口を開く。

「クレセントはあなたの恋人でしょう? 自分の男が、知らない国で結婚してしまっても良いの?」

「そういうわけじゃないけど…、もし、クレセントと結婚してくれるなら、アデリル様のお許しが出るまで、彼は譲ります。政略結婚だから形式的なものですよね。アデリル様にもどなたかいるんでしょう? クレセントもそのうち、返してもらえますよね」

 緊張しているにせよ、この娘ちょっと正直すぎる、と思いながら、アデリルは思わず苦笑する。この正直すぎるところがイオディンの耳に留まり、嫌がらせをしてやろうと思った結果、クレセントに弱味を握られる事態を招いたのだ。

「彼があなたを選ばなくても良いの?」

 そう言うとニンフェは少し残念そうな顔をする。

「わたしがクレセントを好きでも、クレセントと結婚することなんてできません。彼はラントカルドの国王の孫で、わたしは身分もないただの乳兄妹にすぎないから。カルド王室に残るには、思いっきり派手で国益になる結婚をしなきゃ」

 当然のように告げたニンフェに、アデリルは思わず訝しげな顔をする。

「クレセントが臣籍に下るって選択も、あるんでしょう?」

「そんなこと、とんでもない! それじゃあ、なんのためにアトラントまでやって来たんだかわからない」

 勢い任せに言った後、ニンフェは「あ」と、手で口を押さえた。さすがに大それたことを言ったと気づいたらしい。

「ごめんなさい、アデリル様。でもわたしたち、王室に残るために必死なんです。小さい頃からずっと、王室に残るため、次の王位継承者になるために競争させられて育って来たんです。クレセントを滞在客に指名してくれたってことは、少しは望みがあるってことでしょう?」

「彼は気を悪くしないの? 恋人のあなたにそう言われて」

「だから私たち別に、恋人ってわけじゃないんです。そういう言葉が要らないくらい、近い関係だから」

「なら、彼を信じてあげれば」

「信じるより、力になりたい」

 そう言ったニンフェの目つきは真剣だった。アデリルは溜め息の代わりに、微笑んで見せる。そして静かに言った。

「私に言えることは、私も私とアトラントに相応しい夫を選ぶつもりだってことだけ。それにはもっと時間が必要かも知れない。だからあなたはもう、ご友人のところに戻った方がいいわ。あなたの気持ちはよくわかったし、出来る限りのことをしたんだから」

 ニンフェはまだ何か言いたそうだったが、アデリルが部屋を出ていくそぶりを見せると、落胆したような表情で、それ以上は食い下がらなかった。


 一方、クレセントはアトレイ近郊の領有地に来ていた。町を離れて見えてきたのは、広大な放牧地と点々とある村、そして最後になだらかな丘の連なりを背景に、目指す邸宅が見えてきた。

 エイゼル卿から領有地まで猟に来ないかと誘われた時、乗り気になったわけではない。ただ、卿はアデリルに指名された自分と近づきになりたくて、そしてクレセントははアトレイの有力者の誘いを断る理由がなかった。

 ニンフェに告げると、彼女はアトレイに残ると言った。クレセントの世話をする従僕は別につけてくれるという話だったので、彼はニンフェを残して、自分だけがこの土地にやってきた。

 昼近くについて、待ちかまえていた親族に丁重に迎えられると、先に到着していた客に紹介された。その顔ぶれの中にレンデムを見つける。予め聞いていたので驚かなかったが、御前試合以来、彼と間近に顔を合わせるのはこれが初めてだ。いくぶん気まずい気持ちになりながらも、クレセントは挨拶を交わした。

 昼食を済ませて午後になり、彼らはさっそく猟場へと案内された。クレセントが借りた芦毛を遅れない程度に歩かせていると、ふと脇から近づく影があった。見るとレンデムだ。 クレセントが会釈する間に、レンデムは彼と並んだ。そしていつもの愛想の良い表情で、

「クレセント様、ここは気に入りましたか」と、尋ねる。

 レンデムが何を考えて話し掛けて来たのか、クレセントには計りかねる。それで彼も社交用の笑顔を浮かべて頷いた。

「ここに近づいた時から、素晴らしい景色だと思いました。まだ全てを見たわけじゃないですが」

 それは良かった、とレンデムは言って、二三当たり障りのないことを続けた。それから更にクレセントの馬と間を詰めると唐突に、

「アデリルに何を?」と、尋ねてきた。

「どういう意味です?」

 わざと空とぼけて、クレセントは聞き返した。

「どうやって、こんなに上手く取り入ったのかと」

「アデリル様に、私の真剣な気持ちが伝わっただけです」

「ここではそんな上っ面の会話は止めましょう、クレセント様」

 レンデムが言って、少し意地悪く笑った。

「どうせ政略結婚のための、ご機嫌取りだろう。無駄だよ。アデリルの周りを見ただろう。女好きのする男たちをいつも周りに置いてる。あれに心動かされない王女だ。すでに心に決めた相手がいるんだよ。顔には自信があるらしいが、よく知りもしない君に興味を持つわけない」

 この発言にはクレセントは微笑まずにいられなかった。それからふと思いついて、自分から尋ねる。

「アデリル様の心に決めた方は、誰なのかご存じなんですか」

「知ってるよ」

「彼女はその男性と婚約すると?」

「ほぼ、間違いないなくね」

「じゃあ、私はなんのために滞在を許されたのだとお考えですか?」

「体面のためさ」

 レンデムが言った。

「誰も選ばないわけにはいかない」

「婚約が本当なら、式典の三日目に発表すれば良かったのでは?」

「そうできない事情がある」

「それはどんな? お聞かせ願えますか?」

「複雑なんだ。そんなに簡単に、婚約を発表できない相手なんだ」

「なら」と、クレセントはわざと自信に満ちた表情を向ける。

「やはり私にもまだ、まったく可能性がないわけではなさそうですね。正式な婚約まで、アデリル様の気持ちをこちらに向けることに」

「大した自信だな」

「母国では、取り柄は容姿くらいだと言われているので」

「滞在が終わるまで、せいぜいアデリルに気に入られることだな。無駄足だろうけど」

「そのつもりです」

 吐き捨てるように言ったレンデムは、馬を蹴ってクレセントから離れた。クレセントは急がずに、そのまま悠々と猟場へ到着する。それぞれが持ち場についた。日が暮れるまでの数時間で最も鳥を撃ち落としたのは領主のエイゼル卿その人で、あとは似たりよったりだった。身を入れていなかったクレセントの獲物も数羽だ。ただ、数で彼に勝ったレンデムは、彼の方を見て鼻で笑った。

 日が暮れて邸宅に戻ると、更に客が増えていた。クレセントはその中にチャコールと、そしてハイドロの姿を見つける。チャコールの招待は聞いていたが、ハイドロも来るとは知らなかった。エイゼル卿にとってもハイドロの訪れは意外だったようで、少し慌てた様子で彼を迎えていた。夕食の席でも他の誰より、ハイドロが気を使われている。

 エンシェン族への応対ぶりはラントカルドと大差ないな、とクレセントは思ったが、ハイドロの隣で行儀良く食事しているチャコールを見ると、なぜ彼がキリエール家と懇意にしているのか、ちょっと不思議だった。

 その後に賭札の卓が出された時、クレセントはハイドロと同じ卓になった。

 ハイドロはいかさまでもやっているのかと思うほど勝負強く、クレセントと同じ卓のふたりは最初、かなりの小銭を巻き上げられた。そこでクレセントも本腰を入れ、後半はかなりの金額を巻き返した。最初ほど簡単に勝てなくなったハイドロがわずかに顔を顰めた時、クレセントは気分が良くなり、うっかり薄笑いを浮かべてしまった。

 翌日は晴天で、再び猟に出掛ける予定だった。けれどチャコールが、

「昨日すでに鳥はたくさん撃ち殺したんでしょう? 今日はもう残ってないのでは」

 と、あまり面白くなさそうな顔で良い、ハイドロも猟なら遠慮すると言ったので、エイゼル卿が慌てて予定を変更し、散歩がてらの釣りに行くことになった。

 出遅れたクレセントが他の人々を追って、屋敷の裏手に流れる川まで歩いていると、チャコールとハイドロが前を歩いていた。ハイドロの方がクレセントに気づき、まもなく歩調を落として彼に並んだ。

「ラントカルドの王子様は、容姿しか取り柄がないと聞いていたが、賭札の勝負はそこそこ強いな。釣りも同じくらい楽しめるのか?」

 彼は悪戯っぽい目つきで話し掛けてきた。ただ、それはクレセントを見下すようではなく、遊びを共有する時のような表情だった。口調だけでは、からかわれているのかどうかわからない。クレセントは用心深く、

「得意というほどでもありませんが」と、答える。

「その話し方は止せよ。アデリルに絡んで来た時の態度の悪さはどうした。今さら遠慮することないだろ」

「あれは…」

 クレセントは思わず言葉に詰まった。視線を反らす。

「あの時は、慣れない場所で酔って失礼を。反省しています」

「謝るなら俺じゃなくアデリルに。とは言ってもアデリルはもう許したのか? 最近は仲良くしてるそうじゃないか」

「王女にも私の真意が伝わったと思います。ただ、あなたはもっとお怒りかと」

「アデリルがもう怒ってないなら、俺が怒る筋合いはないな。そうでない奴もいるみたいだけど」

 そう言って彼は顎で前を歩くチャコールを示した。彼は振り向かないが、背中で聞き耳を立てているのがクレセントにもわかった。

「式典の前日に、なぜあんなところに?」

「たぶん、あんたと同じ理由かな。クレセント王子」

 領主の言ったせせらぎは、木立の中に静かに流れていた。そこに掛かる小さな橋は絵の中の風景のようで、チャコールが小さく感嘆の声を上げている。彼は木漏れ日が落ちる橋の上に釣り道具を広げ始めた。クレセントが自分はどこで竿を下ろすか迷っていると、ハイドロが同じ場所に来るように指先で誘った。思い切ってクレセントが近づいても、チャコールはちらりと一瞥しただけで、何も言わなかった。

 橋の上に立つと、上流に彼らを招いた領主と二、三の客が、川縁に立って釣り糸を垂れているのが小さく見えた。

 チャコールが慣れた手つきで、橋の上から釣り糸を垂らす。クレセントもそれに倣った。ハイドロは欄干にもたれて座り込み、川面を眺めながら煙草を取り出した。火を点ける前に気づいたようにクレセントの方へ煙草の箱を差し出す。彼は手振りでそれを断ったが、成り行きでチャコールの隣で釣り竿を掲げ、ハイドロに煙草を勧められているこの状況がなんだかおかしくて、ひとりで小さく笑った。

 賞罰はないが、釣りの結果を競うことになっていた。数で競うのはチャコールが難色を示して却下になり、釣り上げた魚の大きい方が勝ちだ。

 ハイドロは煙草を吸いながら、チャコールに軽口を叩いている。彼は竿を携えてはいたが、真剣に釣りをする様子はなかった。

 竿が糸を引いた。クレセントは素早く引き上げる。水音がして、針だけが上がって来る。

 チャコールが意地悪そうな視線を向けた。

「嬉しそうだな」

 思わず言うと、チャコールは挑発するような目つきで頷き、それから川面に浮いた自分の浮きに視線を移した。

「クレセント様、アデリルには許されたようですが、おれはあの晩のことを、あなたに詫びるつもりはありませんよ」

「別に良い。あの晩のことは言い訳もできない。店にとっても厄介な客だったろうし」

「クレセント様、その話し方は俺にはいいが、チャコールは怒らせるだけだ」

 下からハイドロが可笑しそうに言った。別に気にしません、とチャコールは少しだけ拗ねたように言う。クレセントは再び川面に向かって竿を放った。隣で自分の浮きをしばらく見つめてから、チャコールが口を開く。

「…どうやってアデリルに取り入ったんです? アデリルもあなたを嫌っていたはずなのに」

「どいつもこいつも、そればかりだな。そんなに俺が王女に許されるのが気に入らないか。だったらせめて、もう少しましな詮索したらいい」

 王女ととりわけ親しいチャコールのことだ。イオディンと同じく、自分が滞在客に選ばれたのは報復のためだと知っていて、今の状況が意外であり、気に入らないのだろう。そう考えて、クレセントはかすかに笑った。チャコールが不思議そうな顔をする。

「他にも誰かに?」

「王女の従兄だと名乗る男に」

 クレセントは若干の悪戯心を起こしてそう言った。チャコールは振り返ったが、表情に変化はない。アデリルの話だと、彼女がレンデムを好きだったことを知っているはずだ。だが目の前のチャコールの表情からは、なにも伺い知れない。

「彼はアデリルの従兄ですからね、彼女に近づく男の素性を心配するのも、仕方ない」

「素性ならはっきりしてるだろ。身上書と肖像画まで送ってる」

「だったら言葉を変えます。どんな下心があるのかってね」

「王女の式典に参加して、下心のない奴の方が少ないだろ」

「それであなたはどんな下心を?」

「それを正直にチャコールに言うと思うか?」

「その通りですね」

 チャコールが不服そうに頷いた。するとハイドロが彼らを見上げ、

「カルド王室は権威が薄い。成人したら、王族に残れるかどうか議会と国民投票で諮られる。クレセント王子の初の審査は年末で、容姿以外ぱっとしたところない彼は、アデリルの気を惹いて、自国民の好意的な注目を集めるようって魂胆ってとこだな。アトラントの次期女王のお披露目式に参加できるなんて、それこそ何十年に一度の機会だし」

 クレセントは軽く彼を睨んだが、ハイドロは笑って煙を吐き出した。

「そう怖い顔をするな。ラントカルドでは有名な話だろ」

「なぜ、それを」

「知り合いがいるし、一度だけ行ったこともある。ラントカルドのエンシェンに会ったことないのか。賭札が得意なことも触れ回れよ。国民に支持されるかは知らないけどな」

 ハイドロがそう言って笑った時、チャコールの竿が糸を引いた。会話が途切れ、チャコールは何度が糸を引かせてから、竿を上げる。川面に魚が現れたが、彼の手元に引き上げられる前に、からだを震わせ逃げてしまった。ぱしゃん、と水音とともに飛沫が上がる。

「引くのがちょっと早かったな。次はもっと大きいのがかかる」

「川釣り、久々だし」

「今度また渓流釣りに行くか。ここは流れが緩やかすぎる」

 顔を曇らせたチャコールに、欄干の間から眺めていたハイドロが穏やかに言った。餌をつけ直して、チャコールがまた釣り糸を垂れる。クレセントが黙っていると、彼が自分の竿の先を見たまま言った。 

「王室同士の繋がりよりも、クレセント様は手柄を自分だけのものにするために、アデリル本人を狙ってるんですね。でも容姿には自信があるくらいじゃ、アデリルの心は動きませんよ。アデリルはちゃんと人の中身を見る目があるから」

「そうか? その割には見た目が良いと言われる男ばかり侍らせてるじゃないか。チャコールも含めて」

 クレセントはチャコールと、それから彼の足下に座るハイドロに順に視線を向ける。横目でチャコールがそれに気づき、わずかに険しい顔つきになった。ただ、ハイドロは笑っている。それを見たクレセントは、さらに悪戯心を起こして続けた。

「さっきの話だけど、王女に上手く取り入ったんじゃなく、アデリルがすでに俺に惚れていると考えれば、すべて辻褄が合うんじゃないか」

「あなたに? 悪いけど考えられない」

 チャコールが驚いたように顔を上げ、それから強く首を振る。クレセントはハイドロを一瞥してから視線を戻して続けた。

「彼が言ったこと、だいたい合ってる。俺はアトラントに王女のご機嫌取りに来た。式典前日の失敗くらいで諦められない。まして、王女は俺を指名した。まるで望みがないとは思えない。最後まで、できる限りのことをするつもりだ」

「うぬぼれは一流ですよ。滞在が終わる日まで、ぜひそのままでいてください」

 つんと済ましてチャコールが言った。これがふたりきりで話していたら、とても腹が立っただろう。だが、彼の足下でハイドロが困ったように苦笑したので、クレセントも怒るより笑ってしまった。軽い口調で彼に尋ねる。

「キリエール家の子息にしては、少し態度が悪すぎないか。礼儀正しさはどこいった」

「アデリルのことになると、冷静になれないみたいだな」

「チャコールはアデリルが好きなのか」

「好きは好きだが、家族も同然って意味だな。小さい頃から一緒に育ってるし、仲の良い姉妹を取られるみたいな気がして、不満なんだろ」

「ハイドロ、勝手なこと言うな」

 強い口調でチャコールが口を挟む。咄嗟に振り向いたので、彼の持つ竿が揺れた。けれどハイドロは気にする様子もなく、チャコールを見上げた。

「アデリルの付き合う相手が、いつもおまえの気に入る相手だとは限らないだろ」

「そんなのわかってるよ。ハイドロに説教される筋合いない」

 チャコールは顰め面で、少々乱暴に川面に針を投げ直した。ハイドロは目を細めてそれを眺めてから、再びクレセントに顔を向ける。

「アデリルに気に入られたかったら、チャコールに気に入られるのが近道だ」

「その近道は険しそうだな。かえって遠回りになりそうだ」

「そうでもない。チャコールに気に入られるには、アデリルに気に入られるのが近道だから、まだ見込みがある」

 気に入られているわけじゃない、とクレセントは思わず言いそうになった。だが、口を開きかけた時、手にした竿に当たりがあった。クレセントは川面に目を向ける。釣り糸の先が動いていた。手応えは、さきほどより重い。

「まだ引くな」

 ハイドロがそう言いながら立ち上がり、クレセントの隣へ立った。

「少し動かせ、そう…」

 彼は川面と糸の動きを追いながら言った。クレセントは言われるがままに、手を動かす。

「今だ、強めに引け」

 クレセントは竿を高く引いた。川面から魚影が現れる。ハイドロがそれを見てから振り返って行った。

「そのまま、ゆっくりだ」

 言われた通り、焦らずゆっくり竿を引く。少しずつ、魚が橋に近づいてきた。引き上げる時はなんとチャコールも、自分の竿を置いて手伝ってくれた。逃げられることなく、クレセントは自分の手元に川魚を一匹釣り上げる。

 橋のたもとに簡単な生け簀をつくり、そこに放すと、見下ろしたハイドロが、

「まあまあだな」と、満足げに頷いた。

「ハイドロは釣りをしないのか」

「ここではしない。釣っても食えないしな」

 招待した領主の心遣いが台無しだ。彼は突然現れたハイドロに、できるだけ気分良く過ごしてもらおうと、必死で気を使っていたのに。

「じゃあ、なにしに来たんだ。チャコールのお供か」 

「それもあるけど、前からこの領有地を見てみたかったんだ。景観の良い場所だと聞いていたし、ただ普段誘われると、煩わしい接待がついてくるからな。今日なら客も多くて都合が良かった。天気も良いし。アデリルと仲良くしてるあんたがいるんで、チャコールの気分転換にはならなかったけど」

 ハイドロはそう言いながら、橋の上で竿の先を見つめるチャコールを見て小さく笑った。

 クレセントも戻って、またしばらく竿を垂らした。ハイドロも同じところに座り直し、二本目の煙草に火を点ける。

 ぽつぽつと話をしたが、話題はもうアデリルのことへ戻らなかった。それどころかハイドロがラントカルドに行った時のことを話し出すと、他のふたりは話に引き込まれた。彼はさすがにエンシェン族らしく、訪ねたのは一度きりだと言っていたのに、ラントカルドの地理や地形に詳しかった。クレセントも勢い返事に熱が入り、チャコールも彼への嫌悪感を忘れたように、あれこれラントカルドのことを聞いていた。

 その穏やかな時間が意外にも心地よく、それに気づいたクレセントは、ハイドロとチャコールを交互に眺める。彼らはどう見ても親しい間柄だ。それでいてハイドロは、クレセントの前で一方的にチャコールの肩を持ったり、アデリルに近づく自分を警戒したりしない。何を考えているかわからないと言えばそれまでだが、クレセントにとって彼の態度は決して不愉快ではなかった。いかにもエンシェン族らしい。 

「ラントカルドよりアトラントに暮らす方が魅力的だ。あそこも悪くないが、冬の寒さが俺には辛い」

 話の流れでハイドロが言った。チャコールがわずかに嬉しそうな顔になる。クレセントは肩を竦めた。

「通りすがりの国なら、俺もそう言える」

「ラントカルドが恋しいか、王子様」

「恋しいどころか、戻れば容赦なく議会と投票にかけられる。断頭台に立つ気分だ」

「なら必死だな。首尾良く婿入りを果たせば、首切りを待たなくて済む」

「どうかな」と、クレセントは曖昧に首を傾げる。

「それでもラントカルドは俺の国だ。俺はエンシェン族とは違うから」

 時間になるまでにクレセントがもう一匹、チャコールも二匹の魚を釣り上げた。それでも、最初にクレセントが釣り上げた獲物に及ぶ大きさの魚はなかった。

 他の客と合流し、魚の大きさを測った。結果はクレセントが一番で、その次が領主。レンデムの釣果は数があっても、大きさではクレセントにまったく及ばなかった。クレセントはひとりしき世辞を言われ、釣りはそれで終わりになった。

 チャコールとハイドロを見たが、彼らは勝負の結果には関心がないようで、ふたりだけでなにやら話しこんでいた。遅い昼食の後に、彼らはアトレイへの帰途へついた。

 来る時はアトレイ王室の馬車を使ったが、帰りのクレセントはなぜかキリエール家の馬車の世話になっていた。ただ、ハイドロとチャコールは一緒ではなかった。ひとりで車に揺られながら、クレセントは意外にも、この滞在を楽しいと感じたことに気がついた。


 アトレイへ戻って来た翌日に、クレセントはさっそくアデリルと話す機会を得た。

 王女のお茶の時間に招待されていたのだが、彼女はクレセントの姿を見つけると自分から近寄ってきて、庭を案内させてくれ、と誘った。何か言いたそうな顔つきだったので、クレセントも二つ返事で頷いた。滞在も後半に入り、クレセントが王女と話しがしたいと望めば、邪魔する者はいなかった。

「エイゼル卿の領有地はどうだった」

「いいところだったよ。レンデムとチャコールと、ハイドロもいた」

「ハイドロが? まだアトレイにいたのね」

「一度あの土地を見てみたかったと言っていた。あと、チャコールのお供だと」

「そうだ、そのチャコールには昨日とうとう怒られたわ。あなたと親しくするなんて、なに考えてるんだって」

 アデリルが顔を曇らせる。クレセントは不思議に思って首を傾げた。帰りは別だったとは言え、昨日までチャコールは自分といた。そして王女は予定の詰まった身だ。

「いつ会ったんだ?」

「チャコールは、夜でも私の部屋に出入り自由よ」

「変な噂が立つぞ…って、もう立ってるか」

「それはもう、ご存じの通りにね」

「あいつはアデリルの小姑か? なんでもかんでも口出しするな」

「心配してくれてるのよ。逆の立場だったら、私もそうする」

「で、なんて答えた?」

 アデリルが黙る。

「…親しくはしてないけど招いた以上、礼は尽くすつもりだって」

「それで納得したのか?」

 アデリルは曖昧に頷く。

「チャコールはもともと、私があなたに嫌な思いをさせるために指名したのも、良く思ってなかったから。自分が招いた滞在客に礼儀正しくする方がいいとは言ってるけど、あなたのことは相変わらず不満みたい」

「まあ、そうだろうな。別に好かれたいとも思わない」

 話しながら灌木林の遊歩道まで来ると、

「それで、あのね」と、アデリルはきょろきょろと辺りを見回し、人がいないことを改めて確かめてから続けた。

「クレセントがいない間に、ニンフェが私のところに来て言ったのよ。このままあなたと結婚してくれって。私から許しが出るまで、あなたのことは譲るって。あの娘、いったい何を考えてるの?」

 困り顔のアデリルに、クレセントは笑ってしまった。

「それは悪かった。うちの侍女の非礼を詫びる」

「あと、ニンフェは女官や親衛隊士と仲良くしてるみたい。私の隊士たちだけじゃなくて」

「楽しいんだと思う。ラントカルドにいた時は、こんなふうに年齢の近いと知り合いと、頻繁に町に出掛けることなんてなかったから」

「平気なの? 余計なお世話だけど、少し注意していた方がいいんじゃない。ちょっとした間違いで、クレセントの侍女を解雇になるなんてことも、あるかも知れない」

「ニンフェは乳兄妹だ。解雇になることはないが、ここで悪い噂が立つのは避けたいな」

「アルセンには私の方で注意できるけど、他にも遊び仲間がいるみたいだし、ラントカルドの侍女のやることに、アトレイの臣下が細かく口を出せないわ」

「どうせ滞在も来週で終わりだ。それまで楽しませてやってくれ。ラントカルドに戻ったら、また息苦しい生活に逆戻りだから」

「一応聞いておくけど、彼女がなにをしても、それは取り引きとは関係ないわね」

「もちろん。約束どおりニンフェにもなにも話してない。そうだ、それに俺のほうも報告がある。領有地に行った時、レンデムに言われた。王女は心に決めた相手いるから、俺のご機嫌取りは無駄だと」

「心に決めた相手って?」

 険しい顔でアデリルが尋ねる。

「レンデムは自分だとは言わなかったが。アデリルに心当たりは」

「あるわけないでしょう。そんな人がいたらクレセントなんか指名してない」

 アデリルは苦笑して、それから小さく溜め息を吐いてからクレセントを見上げた。

「レンデムは焦ってるみたい。夢舞台亭でのことを知らないから、自分がふざけ半分にあなたを私に紹介して、そのせいで私があなたを気に入ってしまったんだと思ってるみたいなの。だからあなたが目障りなのよ」

「それで練習試合で俺に恥を掻かせようとしたり、王女には心に決めた相手がいると嘘をついたりしてるのか。たった三週間じゃ、アトレイ流のもてなし方には慣れないな」

「クレセントだってラントカルドの王室にこだわっているでしょう。むしろ彼の気持ちがわかるんじゃない」

「一緒にするな」

「じゃあ教えて、クレセントが王室に残ることにこだわる理由は? それを知れば、レンデムがどうしてここまでするのか、少しくらいはわかるかも」

 今度はクレセントが言葉に詰まる番だった。彼は少し考えて、そして一瞬、はぐらかしてしまおうかと思った。アデリルが自分の顔を見上げている。それが別にからかうでも馬鹿にしようとするでもなかったので、クレセントは考えながら口を開いた。

「そういうものだと思ってた。王室に残ることが誇りで、追放された者には価値がないと言われて育ったんだ。年上の従兄たちが、議会と投票で王族から除籍されるのも見てきたし」

「臣籍に下るのは恥ずかしいことでもないでしょう。むしろ自由が増えることだってあるんじゃない」

「そうだな、アデリルの周りを見てると、臣下の立場もそれほど悪くないと思う。でも、ラントカルドでは違うんだ。古い因習がずっと残ってる。王族は王族、臣下は彼らに仕える立場。そこには一線があって、議会の承認なしに動くことはない。一度王室から追放されたら、よほどの特例がない限り復籍はない。アデリルは違うのか?」

 ふと興味を惹かれて、クレセントは尋ねた。アデリルは首を傾げる。

「なにが?」

「王位継承者でいること。臣籍に下りたいと思ったことがあるのか?」

 彼女はすぐに首を振った。そしてわずかに笑って見せる。

「私は物心ついた時からずっと、女王は国を繁栄させ、国民に奉仕するための存在だと教えられて育ってきたのよ。今でもその責務を全うするつもり」

「逃げ出したいとは思わないのか」

「思わない。逃げ出すことは私ひとりの問題じゃないし、国を治めるのも、私だけですることじゃないから。支えてくれる人たちが、ちゃんといるって知ってるもの」

「だから国のために、婿選びもする?」

「今すぐだと早すぎると思う人もいるから、二十歳くらいになったら、こないだ作ってもらったの名簿の中の誰かと結婚するわ。みんなそれを望んでる。次期女王は国外から夫を迎るのが望ましいって」

「お気に入りの臣下には、望みがないのか」

「チャコールとアルセンとイオディンのこと? 彼らは私の夫になりたいとは思ってないでしょうよ。次期女王の夫がどれほど不自由な存在か、彼らは知ってるもの。だから傍にいてもらいたいの。まあ、チャコールはともかく、アルセンとイオディンは私が勅命で夫になれと言ったら従うでしょうけど。でも、そんなことしたくない」

 アデリルが首を振りながらそう言った。その態度で、クレセントは気づく。

「男好きの噂は、好きで立てたのか」

「そうよ、宮廷内で隠し通すのは無理だもの。従兄に夢中だなんて噂は消えるでしょ」

「結婚に、夢や希望はないんだな」

 そう言うと、ふとアデリルが笑った。

「アトラントに暮らす人はどんな人でも、結婚相手を頭じゃなく気持ちで選んで欲しいわ。心からこの人と、と思える相手とね。でも、王女の私はそれだけじゃ済まないって、他の誰より、ここにいるあなたがいちばんよくわかっているでしょうに」

「その通りだな」

 そう言ってふたりは微笑みあった。微笑みあってから同時に、それがおかしなことだと気づいて表情を固くした。自分たちはお互いに、相手に不愉快な気持ちを抱いている者同士だった。アデリルが目を伏せる。

「クレセントも、自分がただの男だったら、大して知りもしない国の王女の婿選びなんかに参加しないで、ニンフェを奥さんにしたい?」

「何度も言ってるが、ニンフェはそんなんじゃない。アデリルにとってのチャコールみたいなもんだ」

 アデリルが呆れたように笑った。

「チャコールは私のいない間に、あなたに近づいて私と結婚しろなんて、絶対に言わないけど」

「だから行動じゃなくて、関係がって話で…、いや、あれじゃ納得してもらうのは難しいか」

 鼻白んだクレセントは言いかけて、途中で頭を振った。

「従僕の格好までさせて連れてきてて、説得力がないし、別に隠さなくてもいいのに」

「隠してるわけじゃなくて、本当にそうなんだ。確かにずっと、そばにいるけど」

 クレセントは言われて改めて、ニンフェのことを考える。

「ずっとそばにいたから、俺のことを想ってくれているから、俺も彼女の期待に応えなければと思いこんでた」

「それは好きだってことでしょう?」

「そうだけど」と、言いながらも彼は首を傾げる。

「俺の育った場所では、損得抜きで俺のことを考えてくれる奴が、モルドとニンフェと彼らの母親しかいなかったんだ」

「そんなうら寂しい権力者でいるために、王族でいたいの?」

「そう言われると、そこまで深く考えたことないな」

「なのに親書を持ち帰ろうと必死なのね」

「忘れてないよな」

「忘れませんとも」

 そろそろ内容を決めないと、とクレセントが言うと、アデリルは神妙な顔で頷いた。


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