<5>
アデリルは自分の言葉を守った。
あの日以来、彼女のクレセントへの態度は目に見えて柔らかくなった。ここ数日、同席する折にクレセントが目配せすれば、自分から近づき、優しい笑顔を浮かべて挨拶をする。さらに二言三言、当たり障りのない雑談にまで付き合うようになった。
注目を集めるふたりのことだ。王女の彼への態度の変化は、当然周囲も気がつく。今までのアデリルの冷淡ぶりと、この数日の変化をそれとなく尋ねられる度に、クレセントは、
「アデリル様に私の正直な気持ちが伝わったようです」
と、意味深に言ってのけた。あとは勝手に想像たくましくしてくれればいい。
それにアデリルの態度が変わったからと言って、彼女にこれ以上要求することができないこともわかっていた。この取り引きはアデリルの気持ちの動揺につけいっただけだ。彼女が自暴自棄になり、すべてを告白してしまえば、その瞬間に終わる。ここはアトラントで、式典の前の晩に彼女にしたことが消えるわけではなかった。
それでも、クレセントにしてみれば、この状況は先週までには思いも寄らない形勢逆転だった。
ただ、彼女が笑顔を浮かべて傍に寄るのを周囲に見せつけるのも悪くないが、今夜のクレセントはアデリルとふたりで話す機会を窺っていた。
他ならぬニンフェのことで、話があったからだ。
ニンフェははクレセントに付き添う時以外は、新しい知り合いと昼夜構わず出歩いている。その行く先のひとつに、アトレイの城下町見物があった。この二週間のうちに二度、彼女は他の滞在客と共に、女官や親衛隊士の付き添いで、城下町見物に出掛けていた。
今日の昼間もそうだった。夕方遅くに戻ってきて顔を合わせた時、彼女はどこか嬉しそうに、それでも無理矢理困った顔を作って、アルセンに告白されたと言ったのだ。しかもその後、町に出掛けた顔ぶれと一緒に食事すると言って、着替えるとまた出掛けて行った。
案内役の中にアルセンがいたとしても、ニンフェとまともに顔を合わせてからまだ日が浅いはずだ。クレセントは疑っていた。取り引きのことで腹積もりのあるアデリルが、自分には何も言えない代わりに、アルセンを使ってニンフェに働きかけたのではないかと。
それと同時に、少し失望した。クレセントの方ではアデリルさえ取り引きの約束を守れば、レンデムのことを誰にも言うつもりはなかった。取り引きの内容だって、アデリルには不本意かも知れないが、大きな損になるわけではない。それ程度のことのはずなのに、彼女はアルセンを使って悪あがきをしようとしたのだ。
ほぼ毎日のことでもある王女の夕食会には、もちろんクレセントも呼ばれている。そして幸いなことに、今夜の集まりには日頃見かけるレンデムの姿はなかった。
食事が済んで部屋を変え、一堂が少し打ち解けた雰囲気になると、クレセントはフリアナに、アデリルを自分のそばに呼んでもらうように囁いた。
彼女の態度を試すつもりもあったが、昼間のニンフェの話も忘れていない。
果たして、取り次ぎを受けたアデリルの行動は、満足のいくものだった。
他の客との会話を早々に切り上げ、彼女はクレセントの方へやってきた。王女と彼女自身が滞在を望んだ指名客。注目が集まるふたりの邪魔をしようと無粋に近づく者は誰もいない。
クレセントは他の人々から少し距離を置いた壁際に立っている。部屋の天井は高く、声を落とせば同じ部屋にいる人々にも、話の中身までは伝わらないだろう。それでクレセントは、アデリルが隣に立って彼を見上げると、すぐに切り出した。
「昼間、ニンフェがアルセンに告白されたと言っていた」
アデリルが意外そうに目を瞠る。
「彼女もアトレイの見物に行ったってこと? 従僕姿は止めたの? アルセンが案内役をするとは聞いていたけど、ニンフェが参加したのは知らなかった」
「滞在のために呼び寄せた侍女ってことになってる。なにも聞いてないのか」
「彼が口説く女の子の報告をいちいち受けていたら、私は公務どころじゃなくなるわ。女性だったら誰にでも言うの。魅力的だとか心奪われたとか運命だとか。でもニンフェに何を言ったのかは知らないけど、いわゆる真剣な恋心を打ち明けた告白じゃないと思う」
言葉の最後に、アデリルも少し困ったような表情をしてみせる。だが、クレセントの思いは別にあった。
「アデリルが、そう言わせたわけじゃないんだな」
そう言うと、彼女はクレセントの思惑を悟ったように、わずかに顰めた顔を背けた。
「私を疑っていたの? アルセンも知らないことなのに、なにも頼めないわ」
疑っていたことを知られたのがどこか気まずくて、クレセントは無理に口を開く。
「だとしても、親衛隊士にしては軽口が過ぎないか」
「軽口じゃなくて、アルセンはあれでいつも真剣なの。女性を口説かずにいられないのよ」
「止めさせないのか。王女の評判にも関わるだろ」
「宮廷内ではやらないって私の名前で誓いを立てさせてる。ニンフェが口説かれたのは町に出た時でしょう。約束は守ってるから、アルセンは悪くない」
こともなげにそう言われ、クレセントはわずかに苦い顔した。それを見たアデリルは、取り引きや自分たちの関係を、つかの間忘れたように彼の顔を覗き込む。
「心配なら私からも言っておくわ。彼女は特別な女性だから、うかつに口説いたりしないようにって。それくらいなら聞き入れてもらえるし、アルセンが特別目立つだけで、宮廷勤めの誰も彼もが品行方正なわけじゃないのよ。ラントカルドだってそうでしょ。アルセンの行動の全てを制限するなんてできない。気になるならニンフェを近づかせないのが一番よ。アルセンははっきり拒絶する娘には、それ以上しつこくしたりしないから」
「そんな無節操な話があるか。誰にでもって言うなら、王女も口説かれてることになる」
「ニンフェと同じかどうかはわからないけど、私にも運命を感じるとかなんとか言ってたわ。初めて会った時から、アルセンは変わってない。今でも顔を見れば似たようなことを言い続けてるし」
確かに御前試合の時、アルセンが彼女と親しく口を聞くのは見た。だが、世辞を言うのと口説き文句は別だ。
「不敬罪じゃないか」
「そうね。だけど、恩赦を与えたの。あれだけ優秀な人を、女癖のせいで手放すなんて惜しいでしょ。それにあれでも学生時代より、だいぶましになったのよ」
「彼がそばにいて、動揺しないのか」
そう尋ねると、アデリルが不思議そうな顔を向ける。クレセントは言い添えた。
「彼は見た目も女好きしそうだし、口説かれたらニンフェみたいに多少は心動くもんじゃないのか。ニンフェはどう見ても、ちょっと舞い上がってた」
「それでクレセントは面白くないのね」
「別にニンフェはそういうんじゃない」
アデリルは小さく笑ったが、すぐにその表情を引っ込めて、伏し目がちに言った。
「アルセンと初めて会った時、私は夢中な人がいたの。その時もう彼は、アトレイにいなかったけど」
クレセントは意外に思って王女を見る。彼女は俯いたままだ。
「…それを俺に喋っていいのか?」
「今さら何を隠し立てする必要がある? 見られてるし、知られてるのに」
少しなげやりな調子でそう言って、アデリルは肩を竦めると部屋の中央へ視線を反らした。その横顔を眺めて、クレセントはなんとなく、彼女が考えていることを察した。
「俺が言うと思ってるのか?」
そう尋ねると、アデリルが目を上げた。クレセントは重ねる。
「俺が、そのうち話すと?」
彼女はじっとクレセントを見つめ、それから一瞬だけ傷ついたような表情になり、視線を反らした。
「言わない理由がある? 私があなたになんて言ったか覚えてるでしょう。私があなたの立場だったら、意趣返しに最後の日にでもぶちまけるわ」
「一緒にするな。それを言うならまず自分の態度から気をつけろよ。先週の御前試合の時の態度はなんだ? このままじゃ俺がなにしたって、あいつの前でアデリルが変だと気がつかれるのは時間の問題だ。もっと堂々としてろよ」
「それは…」
「おまえの隠したい気持ちはその程度か? それならいっそ、自分で全てぶちまけろよ。あいつと一緒に恥晒しになればいい。自分が好きになった相手は、あんな男だと」
アデリルがきっと彼を睨み付けた。そして思わず声を荒げて続ける。
「『おまえ』? 言うに事欠いて、私に向かって『おまえ』? 何様のつもり? ここはアトレイで、あなたは私が指名したのよ」
「そうだ。その調子だ」
クレセントは冷たい表情のまま頷いて見せた。アデリルがはっとしたように、顔つきを変え、一歩離れた。
「式典の最後で、俺を指名した時のことを思い出せよ。王女らしく立派に嫌がらせしてくれたじゃないか。あの時みたいな態度でいろよ」
そう言うとアデリルは口を噤んだ。クレセントは彼女が怒って立ち去るかと思ったが、彼女はそうせず、沈んだ声で口を開いた。
「イオディンにわざと負けたの?」
「気づいたのか」
「私にはよくわからなかったけど、アルセンがそう言ってた。私はクレセントに恥を掻かせるつもりだったのよ。それなのに、自分から負けるなんて」
「あの試合に出てたのは、本当に腕の立つ奴ばかりだった。相手が王女のお気に入りじゃなかったとしても、負けは別に恥じゃない。ただ、彼の方も俺に勝たせようとしたみたいだな。誰かと違って、立ち聞きを悪く思ってるらしい。本気でやっても彼に勝てたかは、わからないけど」
「怪我してたのに、よく勝てたわね」
ぽつりとアデリルが続ける。誰に、と言われなくても、よくわかった。
「手当が大袈裟だったんだ。イオディンはかなり手加減してた。あいつは俺の右手の骨でも折れてると思ってたのか?」
「右手に怪我をしたあなたになら、簡単に勝てると思ったみたい。私に言い寄った相手を、自分の手で叩きのめせると」
「言い寄ったつもりはないけど、怪我人に勝って自慢になるのか?」
「滞在を無駄にはしないとかなんとか言ってたでしょう? あれが気に障ったみたい。だから怪我人相手でも、私に近づくなって示せれば、それで良かったんじゃない?」
「返り討ちにして悪かったか」
「いいえ、正直に言うとかなり良い気分だった。一瞬あなたに感謝しそうになったもの」
なるほど、とクレセントはやっと合点がいった。あの試合の後に振り返った時に見たアデリルの表情は、やはり嬉しさを押し隠していたのだ。
「だったら本気で隠し通せよ。お気に入りの取り巻き連中にもな」
「そう簡単にできれば苦労しない…。でも、心がける」
アデリルはそう言って、素直に頷いてからクレセントを見上げた。
「なぜこんな助言を?」
「俺もアデリルの親書が欲しいから」
「私に用意できるのはただの紙切れよ。法的な効力なんてない」
「法的な効力を持たないものの方が、王女の正直な気持ちを感じるだろ。動かす必要があるのは法律じゃない。民衆の気持ちだ。城下町であのうつけた芝居の上演を許してるアデリルには、よくわかってるだろ」
「そんなに王室が大事?」
「アデリルの隠し事くらいにはな」
ふたりは顔を見合わせる。
その時、フリアナが近づき、アデリルが呼ばれていると言いに来た。
彼女はクレセントの顔を見て躊躇ったが、彼は行くように顎で示す。もう十分話はした。アデリルは束の間クレセントを眺めたが、大人しくフリアナについて別の客のところへ行った。その後すぐに、ふたりのことを遠巻きに眺めていた別の客が、クレセントに近づいて話し掛け、その夜はもうアデリルと言葉を交わすことはなかった。
ただ、その日以来彼らは『公認』となった。王女の夕食会、他の招待客や関係者のいる場所で、アデリル王女はクレセント王子の呼び出しに応えたのだ。そして皆が見ている前で、ふたりきりで話す時間を持った。
ここ数日のアデリルの態度の変化と共に、それはクレセントへの好意だと、そしてクレセントの方でもそれを受け入れていると、周りは考え始めていた。
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