<4>


 週末は朝から天気が悪く、厚い雲が空を覆い、午後になると小雨が降り出した。

 それなのにニンフェは、親衛隊士や女官にアトレイの城下町を案内してもらうのだと言って、念入りにめかしこんで出掛けてしまった。

 滞在が始まってから七日を過ぎた頃に、クレセントはニンフェを従僕から侍女の服装に改めさせ、正式な侍女としていた。アトレイ近郊に暮らしている、クレセントの滞在のために急遽呼び寄せた、カルド王室にゆかりのある女性だというふれこみだ。

 アトレイ王室以外からの招待が多いので、出歩くにも女性がいるとなにかと助かる。今まで身の回りの世話をしていた従僕は、モルドと一緒に滞在の知らせを持って国へ帰ったことになっていた。

 王女のように華やかとまで行かないが、女性の装いで堂々と宮廷の中を歩き回れるようになり、ニンフェは嬉しそうだった。彼女はクレセントにくっついて、行く先々で知り合いを作り、彼と一緒にいられない時は新しい知り合いと共に出歩いていた。彼女は望みどおりのアトレイ滞在を、クレセントよりずっと気楽な気持ちで楽しんでいるようだった。

 午後の早い時間、予定もなくぽっかりと時間の空いたクレセントは、この天気も手伝って、ひとりきりの部屋で沈んだ気持ちで過ごしていた。

 せっかく滞在を許されたのに、このままなんの手柄もないまま、のこのこラントカルドに帰るのか。指名を受けたことはラントカルドで話題になった。このまま帰ればアデリル王女に相手にされなかった、国の面汚しだと言われかねない。

 となると、なんのためにアトラントへ赴いたのか、問いつめられるに違いない。

 母国に戻った時、どう答えればその場を切り抜けられるのか、今のクレセントには見当もつかなかった。御前試合で従兄を打ち負かしたことで、彼女の自分への嫌悪感はさらに募っているだろう。

 じっとしているのも辛くなり、クレセントは窓の外を見る。弱い雨が降り続いている。こんな日に宮廷の庭に出る者もいないだろう。少し外を歩いて頭の中を整理しようと、彼は傘を持って庭へ出た。行き先はあの、アデリルに案内され、彼女に笑顔で滞在中の運命を突き付けられた散歩道だ。

 宮廷の建物から遠ざかると、辺りには誰もいない。かすかな雨音だけがする。雨に煙る中でも、腹立たしいアデリルの暮らす場所でも、庭園の眺めは心地良かった。

 この先へ進むと、王女のための庭園だ。さすがにそこまで足を伸ばすのは躊躇われた。ただ、引き返してまた部屋に戻る気にもならない。どうしようかとクレセントがその場でぼんやりしていると、突然、脇の植え込みから人影が、目の前に飛び出してきた。

 見るとそれはアデリルだった。傘も持たず、濡れて色濃くなった赤紫の髪が、額と頬に張り付いている。クレセントの姿を見ると驚いたように、これ以上ないくらい目を瞠った。 それはクレセントも同じだった。思わずその場に足を止め、息を切らした王女と見つめ合う。お互い予想外の相手に出くわして、何も言えずに顔を見合わせているところへ、

「アデリル!」と、声がした。

 アデリルが振り向き、クレセントはその視線を追う。現れたのはレンデムだった。どうやら彼女を追いかけてきたらしい。彼は傘を持っている。

「…と、クレセント様」

 彼はクレセントの姿に気づき、意外そうな表情で言った。

「なぜここに?」

 この状況がまったく掴めないクレセントは、アデリルを見た。彼女は視線を反らしたまま立ちつくし、青ざめた顔をしている。

 クレセントの知るアデリルらしからぬ表情だった。仕方なく彼はもう一度、視線を戻してレンデムを見た。彼は気を取り直したように、いつもの笑顔を浮かべて、

「クレセント様、突然驚かせてすみません。アデリルとふざけて遊んでいたんです。濡れたままだと風邪を引くよ。早くこっちに」

 彼はそう言って自分の傘を差し向けると、アデリルの腕を引こうとする。だが、彼女はその腕をはねのけた。遊んでいたようには見えなかった。その強張った表情を見た時、クレセントは考える前に身体が動いた。彼はアデリルの肩を抱き、自分の傘の中へ引き寄せる。触れた時にアデリルが驚いたのがわかったが、抵抗はなかった。

「驚きましたがちょうど良かった。アデリル様とお会いする約束の時間でしたが、姿が見えないので探していたのです」

 顔を伏せたままのアデリルが、その言葉にわずかに視線を動かした。

「この天気に? 嘘は困る、クレセント様」

 レンデムが苦笑しながら言った。クレセントも怯まずに笑顔を返す。

「嘘かどうかは、ご本人にお聞きになればいいのでは? アデリル様、お気に入りの庭園を案内していただく約束でしたね? あいにくの雨ですが、この程度なら気にしません」

 肩を抱かれたままのアデリルは、その言葉に顔を上げた。まだ青ざめているが、瞳にはいつもの力強さが戻っている。彼女はレンデムに向かって頷いた。

「その通りよ。引き留められて時間に遅れそうだったから、急いだの」

 レンデムが疑り深そうな目でふたりを見た。クレセントはそれに気づいたが、構わずアデリルを覗き込む。

「でも、顔色がお悪いようですね。庭園を見せていただくのはまたにしましょう。お部屋まで送ります」

「なら、僕が送るよ」

 そう言ってレンデムが彼らに近づいた。するとクレセントが驚いたことに、アデリルはクレセントの胸に身を寄せる。そこで彼はアデリルの背中に手を回し、わざと彼女の顔を心配そうに覗き込む。

「アデリル様はひどくお疲れのようですね。申し訳ありませんが、レンデム様、私がここで見ていますから、人を呼んできてもらえますか」

 レンデムは不服そうにクレセントを見たが、アデリルが彼を軽く睨んで、

「もう行って、レンデム。人は呼ばなくていいわ。しばらくしたら、私も戻るから」

「アデリル」

「これ以上、話すことはない」

 きっぱりとそう告げられると、レンデムは一瞬アデリルを見つめた後に、肩の力を抜いて笑った。

「ここは引き下がるよ。クレセント様、アデリルをよろしく」

 レンデムはそう言って軽く会釈すると、ふたりに背を向けた。アデリルはクレセントに触れられているのも忘れたように、レンデムが去るのを息を殺して見つめていた。そして木立の向こうに完全に見えなくなってから、ようやく肩で息を吐いた。

「なんだ、今の」

 怪訝な顔で尋ねると、今さらながらクレセントを見上げたアデリルは、軽く頭を振った。

「なんでもないの。今見たことは忘れて」

 彼女はあっさりそう言って、彼から離れようとする。クレセントはそうはさせるかと、アデリルの腕を掴んだ。

「そのままだとまた濡れる。それになんでもないようには見えなかったな、アデリル様。助けてやったんだから、礼のひとつくらいあってもいいんじゃないか」

「助けられたんだとしても、あなたには前に一度、とても不愉快な思いをさせられたから、これで貸し借りなしってとこね」

「そんなこと言っていいのか?」

 クレセントはアデリルの腕を握る手に力を込める。アデリルは彼を睨み付け、

「無礼者」と、強く言った。

「離してほしけりゃ、ちゃんと聞かせろよ。俺を脅したのはそっちが最初だ」

「脅しじゃなくて償いの機会をあげただけよ。あなたには関係ない」

 すっかりいつもの調子でアデリルは言って、彼の腕を振りほどこうとする。クレセントは手を離し、いつかアデリルにされたような、意地悪い笑みを浮かべた。

「仕方ない、それじゃあ正直に話すしかないな。アデリル様が雨の中、人気のないところで従兄と会って、なにごとか揉めて様子が変だったと」

「揉めてない!」

「そうか? アデリル様は俺にもたれかかるほど具合が悪そうだった。なのに従兄の申し出を断って、俺と一緒に嘘までついた。もっとも、アデリル様が俺を毛嫌いしてることは一部の奴らしか知らないだろうけど」

 アデリルが顔色を変えた。そしてみるみる怒りに満ちた目を、クレセントに向ける。

 クレセントは薄笑いを浮かべながら彼女の言葉を待っていたが、そのうちふと、アデリルは全身から力を抜いて目を伏せた。

「あなたの言うとおりね。助けてくれたことは、お礼を言う。ありがとう、クレセント」

 思いがけず素直な言葉が聞こえて、クレセントも口調を穏やかなものに戻す。

「…従兄とはなにを?」

「見なかったことに、してもらえない?」

「それは虫が良すぎないか」

 クレセントが言うと、アデリルはしばらく黙って考え込んでいた。見逃すつもりはなかったので、その場で彼女が口を開くのを待つ。やがて覚悟を決めたのか、それとも自棄になったのか、顔にかかった濡れた髪を払ってから、なげやりに言った。

「私は昔、レンデムのことが好きだったの」

 クレセントは驚かなかった。そんなことだろうと思っていた。だとしても、アデリルはまだ十七歳だ。昔と言ったって、幼い子どもの頃のことだろう。

「それがなにか問題なのか?」

「それで口約束だけなんだけど、三年前に婚約してるの」

「婚約って…、それを信じてるのか?」

 三年前ならアデリルは十四歳。だが、その時のレンデムは今の自分より年上だ。それを考えると、心底可笑しい気持ちにはならなかったが、それでもクレセントは笑い出しそうになる。不機嫌そうな表情のまま、アデリルは首を振った。

「私にはもうどうでもいい。でも、レンデムは違うみたい。何を考えてるのかわからないけど、今になってあの時の約束を果たしに来たよって言い出したの」

 クレセントは呆れたように溜め息を吐いた。

「結婚すればいいじゃないか。従兄だったら釣り合いも取れる。全部丸く収まる」

「そんなことを発表したら、私が直々に指名した滞在客のあなたは、ひどく恥を掻くことになると思うけど」

「なんの不満が? それがアデリルの望みだろ」

「その通りだとしても、いくら釣り合いの取れる相手でも、婚約者のいる従兄とは結婚できない。しかもふたりの間には子どもがいて、彼女には今、お腹にふたりめがいるのよ」

 さすがに驚いた顔をすると、アデリルは得たりとばかりに深く頷く。

「図々しいでしょう」

「従兄はなにを考えてるんだ」

「レンデムの考えてることなんて、わからないけど。単純に言えば、お祖父様が退位なさる時、順当にいけばレンデムのお父様が長男だから、王位を継ぐはずだったのよ。だけど、そのころ私が生まれて、アトラントに女王を誕生させるために、私のお父様が王位に就いたの。だから私の立場を自分のものだと思ってるのかもしれないわね」

「次期女王の夫の座を狙ってる?」

「それと、私が誰か他の人を選ぶのを、邪魔しようとしてる感じがするわ」

「もし王女と結婚したら、今の婚約者の立場はどうなるんだ」

「正式な妻にはなれないけど、今と大して変わらないと思う。私はたぶんアトレイを離れられないだろうから、レンデムだけ公務とか言ってウェントワイトに居座るんでしょうよ。実際にそこで仕事を持っているんだし、王族が配偶者以外に恋人を持つのは珍しいことじゃないから。下手したらレンデムとの結婚を熱望したのは私の方で、彼は以前の恋人も大切にする国王、と好意的にすら思われるかも知れないわね」

 クレセントは思わず溜め息を吐く。

「…ラントカルドとは、だいぶ違うな」

「そう? これがアトラント流よ。まだ三週間あるわ。慣れてね」

「なんで隠すんだ。ぶちまければ良いだろ。幼い時の恋心を弄ばれてるって」

 呆れたようにそう言うと、しかし俯いたアデリルは、彼が驚くほど暗い表情で、

「言いたくない。誰にも」

 そう言って黙りこむ。彼女の思いがけない表情にクレセントはふと、ある考えが思い浮かぶ。思いついた瞬間、心臓が高鳴るのがわかった。

 これは好機だ。頭に血が上るのを感じながら、クレセントは声を抑えて尋ねる。

「従兄はいつまでアトレイに?」

「さあ?」と、アデリルは首を振る。

「もともと来るとは聞いてなかった。今日までの様子だと諦めてないみたいだし、クレセントが帰るまで居座るかもね」

「この話を知っているのは?」

「チャコールだけ。でも、チャコールにも、口約束の婚約のことは言ってない」

「他にふたり、目立つ取り巻きがいたよな」

「アルセンとイオディンのこと? 彼らは知らないわ。彼らと親しくなる前の話だから」

「エンシェン族は?」

「ハイドロのことを言ってるなら、彼はもっと関係ない。私が誰を好きだろうが、それこそレンデムと結婚しようが、ハイドロにはどうでも良いことよ。チャコール以外ならね」

 王女は次々に打ち明ける。少し気が高ぶっているようだ。けれどそれは、クレセントも同じだった。思いつきがどんどん膨らみ、今は必死で冷静さを保とうと努める。

 その間もアデリルも、ここを動こうとしない。不安げに忙しなく瞳を揺らしている。  好機だ。クレセントの頭の中で、合図が鳴った。そう思った時にはすでに口にしていた。

「取り引きするか?」

 そう言うとアデリルが顔を上げた。クレセントは挑むように告げた。

「まず俺への態度を改めろ。そして俺の滞在が終わる時に、カルド王室宛てに友好を結ぶ親書を書くと約束しろよ。それを約束するなら、滞在中は協力してやる。従兄とのことは誰にも話さないし、俺がアデリルに惚れてるふりをして、従兄が近づくのを邪魔してやっても良い」

 アデリルが驚いたように目を瞠り、そして青ざめ、次に赤くなる。

「…最後のは余計だと思うけど」

「王女直々の指名を受けて滞在しているのに、肝心の王女は俺に素っ気ない。その理由が従兄に夢中だったなんて、俺の不名誉以外のなにものでもないだろ」

「それとこれとは別よ。夢中になんてなってない」

「アデリルがそうでも、噂はそうだとは限らないんじゃないか。特にアトレイは、真実だろうが嘘だろうが、王女にまつわる噂に寛容じゃないか。次は婚約者のいる従兄と恋する芝居を作られたいのか?」

 アデリルがぐっと言葉に詰まった。

「…いやだと言ったら」

「子どもの頃のこととは言え、結婚を誓った相手がいるのに指名したのは、俺への侮辱に等しいよな」

 アデリルが息を飲んだ。そして返事の代わりにわざと大きく溜め息を吐く。

「…あなたを指名したのが最大の間違いよ」

「復讐心からことを起こすとろくなことがないな、王女様。でも、残りたった三週間なら、悪くない取り引きだと思わないか。お互い望んだ平安を手に入れられるし、俺がラントカルドに帰れば、もう二度と会うこともない」

 彼の冷たい視線を受け止めて、アデリルは唇を引き結んだまま、しばらく黙っていた。

 けれどついに、まっすぐに彼を見つめ返して、

「わかった」と、彼女は頷く。

「取り引きに応じるわ。あなたがアトレイを去るまで、あと三週間」

 だから誰にも言わないで、と真剣な表情で言う王女の言葉に、クレセントは満足気な表情で頷き、雨に濡れた彼女が羽織るよう、自分の上着を脱いで渡した。


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