<3>


 アデリルの言ったことは嘘ではなかった。彼女の腹積もりを知ってからも、クレセントへの態度はなにひとつ変わらない。顔を合わせても素っ気なく、婿候補はおろか、滞在客としてなんの特別扱いもなかった。

 最初はまだ十七歳の王女の恥じらいや奥ゆかしさだと、勝手に解釈していた周りの者たちも、さすがになにかおかしいと感じ始めているようだった。

 だが、最も途方にくれていたのは、他でもないクレセントだ。

 二週目の半ばの午後、彼は宮廷内で開催される御前試合に招待されていた。所属する隊を超えて宮廷に仕える剣士たちが腕を競う、王女とその招待客の目を楽しませるための、堅苦しくない練習試合だ。

 王女の招待客である彼は、当然彼女の近くに席を取る。衆人環視の中、そこでまた無視にも近い扱いを受けるのかと思うと、クレセントは怒りを感じるより憂鬱だった。だが、出席しないわけにはいかない。

 試合場が設えられ、その周りに見物席の天蓋が張り巡らされている。クレセントは王女の天蓋に案内され、すでに最前列の席についているアデリルの隣に案内された。

 扇を持ったアデリルは彼にちらりと視線を向けただけで、なにも言わない。それでもクレセントは短く挨拶してから、彼女の隣に腰を下ろした。

 黙って会場の準備が整うのを眺めていると、天蓋の中に新たな人物が入ってくる。王女がそちらを見て、すぐに顔を反らした。クレセントが見ると、アデリルの従兄だった。式典の二日目の舞踏会の時に自分をアデリルに紹介した、レンデムと言う名の年上の男だ。

「クレセント様、こういう剣の戦いはお好きですか?」

 突然アデリルがそう言ったので、クレセントは驚いて意識を引き戻された。見るとアデリルは自分の方へわずかに身を寄せ、こちらを見上げている。驚きが収まらず、何も答えないうちに、レンデムが彼らの傍にやってきて、笑顔を浮かべて挨拶した。

「ご機嫌いかがかなアデリル、それにクレセント様」

「あなたが来るまで楽しい気分でしたよ」

 アデリルはクレセントの方へ顔を向けたまま答えた。

「邪魔だとしたら済まないな。でも、僕はアデリルの従兄で、君を見守る立場だから。独り占めの邪魔することを、お許しください、クレセント様」

 言葉の最後はクレセントに向けて言って、彼は反対側のアデリルの隣に腰を下ろした。 それから試合が始まるまでの短い間、レンデムはクレセントにはわからない話題でアデリルと話し、彼は会話に入れなかった。ふたりと話さなくて済むのは、むしろ歓迎すべきことで気にもならなかったが、クレセントが注意を惹かれたのはアデリルの返事の仕方だ。

 最初、彼女はレンデムの言葉に、自分への態度に匹敵するような素っ気ない相槌を打っているだけだった。それが次第に棘を含んだ答え方になる。なのにレンデムは気にした様子もなく、愛想良く彼女に話し掛けている。

 もしやこれが王女の普段の姿なのか、とクレセントが訝しんだ時、天蓋の中に試合に参加しない親衛隊士が現れて、王女の後ろに整列した。彼女にいちばん近いところに立ったのがアルセンだ。横目で窺っていたクレセントにもはっきりとわかるほど、安堵の表情を浮かべたアデリルが彼を振り向く。するとアルセンは身を屈め、王女に顔を寄せると、

「アデリル殿下、あなたに見守られあの試合場に立つより、あなたを見つめるためにここに立てることを誇りに思います」

 と、クレセントにも聞こえる声で囁いた。なるほどこれか、と彼は呆れた表情を堪えたが、アデリル越しのレンデムは、すでに呆れた表情になっていた。

「何言ってるのよ、イオディンが出るんで辞退したんでしょ」

「彼に見せ場を譲ったんです」

「練習試合でもイオディンとやりあうのは嫌だって、正直に言いなさいよ」

「女性も見ている中で、無様な姿をさらすことになるのは御免ですからね」

「本気でやったらわからないじゃない」

「今日はあくまで、客人に楽しんでもらうための練習試合ですよ、アデリル殿下」

 言葉を交わしながら、ふたりは笑い合った。間近でそれを眺めてクレセントは思う。白昼堂々これが許されるなんて、確かにアルセンはアデリルのお気に入りの臣下なのだ。

 そしてやはり彼女の冷たい態度は、わざとなのだ。

 練習試合の開始を告げる声が聞こえた。アルセンはレンデムとクレセントに順に会釈をしてから、再び姿勢良くアデリルの背後に立つ。

 待つ間もなく、試合が始まった。試合場に進み出る剣士たちはそれぞれ実力者で、自分も腕に覚えのあるクレセントにはなかなか見応えがあった。だが、隣のアデリルは退屈そうだと思われないように、なんとか目を向けているだけのように見えた。

 本当に試合に関心がないのか、それとも他に気を取られていることがあるのか、クレセントにはわからない。彼女を挟んで座るレンデムも、当たり前だが今は試合の感想を言うだけで、特に彼女の返事を期待しているようでもなかった。

 試合が進むうちに、イオディンが試合場に姿を現した。気のないアデリルの眼差しが、急に熱を帯びた。彼の相手は、今まで四人抜きしている国王の親衛隊士だ。五人を勝ち抜くと勝者として認められ、試合場から下がるのが規則だ。彼に打ち倒されたひとりは黒騎士隊で、イオディンの部下だった。

 彼らは審判の号令と共に、模擬刀を打ち合わせる。はじめは互角と見えた剣戟は、間もなく勝負がついた。イオディンが一瞬の隙を突き、相手の喉元に切っ先を突き付ける。

 無駄がなく流れるような、見事な剣捌きだった。アデリルが膝の上で両手の拳を握る。

「勝負あり、イオディン!」

 審判の号令が響くと、見物席はちょっとした歓声に包まれる。レンデムが言った。

「お気に入りの騎士様が、大活躍だね」

「彼はとても努力家なんです。どんな時も私の期待を裏切ったりしませんの」

 横目でふたりの様子を窺っていると、レンデムはアデリルに頷いてから、わずかに身を乗り出し、苦笑しながらクレセントに向かって言った。

「今のは王女なりのおふざけで、親しい間柄の軽口です。殿下は特定の臣下を贔屓したりしませんから、どうか誤解なきよう、クレセント様」

 アデリルの顔がわずかに曇る。クレセントはその表情を眺めて、彼女に対していつにない優越感を感じた。それで、彼もレンデムに笑いかけながら答えた。

「噂のことなら、私も聞き及んでいます。何しろ芝居になるくらい有名な話ですからね。まったく根も葉もない噂とも思えません」

 アデリルは一瞬、呆気にとられたように彼を見つめ、それから抑えきれないように、彼を睨んだ。クレセントはそれにますます気を良くする。

「だとしても、アデリル様に許された滞在を無駄にする気はありませんが」

 そう告げると、レンデムの顔から笑みが消えた。

「勝負あり、イオディン!」

 審判の声がした。彼らは一斉に試合場に目を向ける。見るのがおろそかになっている間に、イオディンが二勝を上げていた。今は向かいあった相手と礼を交わしている。それを見たアデリルが、立ち上がって近くの者になにか言った。そして戻ってくると、クレセントに向かってにっこりと笑う。これはなにか企みがあるな、と彼が考えていると、

「クレセント様、よろしければ腕前を披露しませんか」と、彼女が言った。

「私が?」と、彼は思わず聞き返す。

「クレセント様も、腕に多少の覚えがおありでしょう? せっかくですから、宮廷の客人の目を楽しませるお手伝いをしていただきたいの」

「アデリル殿下、彼も客人です。少しでも怪我の危険があるようなことは…」

 窘めるように背後からアルセンが言った。だが、彼の言葉を遮ったのは、レンデムだった。

「いいじゃないか、アルセン。アデリルの望みだ。むしろ王女に良いところ見せる機会ですよ、クレセント様」

 アデリルの顔から笑みが消え、レンデムに一瞬だけ険しい視線を向ける。けれどその眼差しはすぐにクレセントに移り、彼女は挑むような目つきで彼を見た。クレセントはアデリルを真正面から見据え、

「それは光栄です。賑やかし程度ですが、お相手を務めます」

 と、丁重に頷いてから立ち上がった。アルセンが視線を向けたが、気づかないふりをする。アデリルは余裕を取り戻した表情で頷いて、

「では、あちらへ。ご案内しますわ」と言って、クレセントを案内役に引き渡した。

 クレセントの背後でアルセンが、

「なんだか今日のアデリル殿下は、僕の敬愛するいつもの麗しい王女じゃないな」

 と、言っているのが聞こえたが、振り返る暇はなかった。

 上着を預け、刃のない模擬刀を受け取り、大した時間もかからずに、クレセントは試合場の上に立っていた。手にした模擬刀はアトラントでの訓練仕様で、母国で使っている自分の剣とは握り心地が違う。だが、選ぶ余地はなかった。

 目の前にはすでにイオディンが立っている。突然クレセントの相手をするように言われて、無表情の中にどこか戸惑ったような様子が浮かんでいた。審判の声が掛かる。

「お願いします」

 ふたりで向き合い、礼を交わす。それから試合を始める合図に、一度お互いの剣先を打ち鳴らした。二、三度の打ち合いですぐにイオディンが切りこんで来る。クレセントはかわしたが、その無駄のない動きに感心した。身のこなしは素早いが重心がぶれず、かわしきれず受け止めた一打ちは、正確で重い。まさに日頃から、闇雲ではなく正しい鍛錬を怠らない者の動きだ。クレセントにはそれがわかった。

 打ち合いを続けながら一瞬だけアデリルを見ると、彼女は真剣な持ちでふたりの試合を見つめている。それが自分への嫌悪なのか、イオディンへの期待なのか、クレセントにはわからない。

 ただ、アデリルの魂胆は見え透いていた。イオディンに打ち負かされ、大勢の観客の前で自分に恥を掻かせたいのだ。

 イオディンの模擬刀が振り下ろされる一瞬前、クレセントは彼の腕を払う。バランスを崩しそうになったイオディンは、けれどぐっとその場に踏みとどまった。クレセントは攻め込まず、彼が体勢を立て直すのを待った。すべてはほんのわずかな間のことだった。

 クレセントは考える。本気でかかればイオディンに勝てるかも知れないが、相手の方もまだ本気とは言えないようだった。それに相手はアデリルのお気に入りだ。

 イオディンが自分に向かって踏み込んだ時、クレセントはわざと腕を開き、隙を見せた。引き寄せられるようにイオディンが彼の剣を持つ腕に、自分の剣を振り下ろす。

「…ッ!」

 右腕に衝撃、続けてすぐに痺れが走った。刃のない模擬刀とは言え、重量も長さも本物と同じだ。当たれば相当に痛い。クレセントは模擬刀を取り落とした。イオディンがすぐに顔を顰め、彼から離れる。クレセントは右手を押さえて座り込む。それからたっぷり三秒。

「勝負あり、イオディン!」

 会場がわずかにざわついた。クレセントは気にせずに立ち上がると、自分の模擬刀を拾い上げ、それからイオディンと一礼する。彼はわずかに怪訝そうな顔をしていた。

 クレセントは構わずに試合場を降りた。模擬刀を返して上着を受け取り、席に戻ろうとすると、待ちかまえていた者が救護班の待機する天蓋へ案内すると言った。

 腕に打撃を受けたのは皆が見ていた。そしてクレセントはアデリル王女の客だ。断ろうとすると、あなたは国賓なのですから、と有無を言わさず連れて行かれた。言われるがままに天蓋の下に設えられた椅子に座り、右手の打撲の応急処置を受けていると、五人抜きを果たして試合場から降りてきたイオディンが、中を窺うように顔を覗かせた。

「クレセント様、お邪魔してもいいでしょうか」

 クレセントが頷くと、イオディンは彼の傍に近づき、椅子の脇に片膝をついた。

「アデリル様の客に、非礼をお許しください。手の怪我はどうですか」

「大袈裟だな。大したことない」

 仰々しさにクレセントは笑って、立ち上がるように空いた手で示した。イオディンは従いながらかすかに笑い、

「わざと負けましたね」と、少し呆れたように言う。

「俺に上手く恥を掻かせたと、喜ぶべきじゃないのか」

 そう言うと、イオディンはかすかに目を瞠る。クレセントはそれ以上話すつもりはなかった。だがイオディンがなにか言う前に、彼らの天蓋の中にレンデムが姿を現した。

「失礼、クレセント様。手の怪我はどうですか。残念だったとは言え、イオディン相手に見事でしたね。イオディン、さすがだな。アデリルも君の勇姿を喜んでいたよ」

「レンデム様、光栄です」

 イオディンが生真面目に礼をした脇を通り、レンデムはクレセントの前に立って、包帯の巻かれた彼の右手を見下ろした。クレセントも軽く会釈する。

「お気遣いありがとうございます。でも、大したことない。剣の鍛錬中なら良くあることです」

「それは頼もしい。なら、今度は私とお相手願えませんか」

 丁重そうな笑顔を浮かべてそう言って、レンデムは手にした模擬刀を見せた。イオディンが口を挟む。

「レンデム様、クレセント様は怪我をしておいでです」

「軽い怪我なんだろう。ラントカルドのクレセント様と手合わせする機会なんて、これを逃したらないだろうから、ぜひお願いしたい」

「彼はアデリル様の客人ですよ」

 苦い顔つきでレンデムの方へ身を乗り出しかけたイオディンを、クレセントは制した。そして彼が何か言うより先に、

「私でよければ」と、レンデムに頷いて見せる。

 彼は嬉しそうに笑い、

「では、試合場の上で」と、言って天蓋を出て行った。

 周囲の者に準備するよう、声を掛けているのが聞こえてきた。

「クレセント様、なにも受けるには及びません」

 イオディンが周りに聞こえぬよう、声をひそめながらクレセントに近寄る。

 彼は肩を竦めて、包帯を巻かれた右手を掲げて見せた。確かに痛む。が、ただの練習試合だ。剣を振り下ろした時、イオディンもかなり手加減したことに、その剣を受けたクレセントは気づいてた。

「イオディンだって本気を出さなかったじゃないか」

「殿下の客人に花を持たせたかっただけです。あの晩のことを殿下の耳に入れてしまったのは、俺の落ち度なので」

 クレセントは一瞬黙ってイオディンを見つめ、それから苦笑した。

「そうだろうとは思ってた。ただ、落ち度なのか? 進んで耳に入れたのかと思ってた」

 イオディンはわずかに申し訳なさそうな表情で、彼に軽く頭を下げた。

「この状況は不本意です。殿下を止める隙がなくて。貴方が指名された時に気づいたんです」

「イオディンに隙がないと言わせるなんて、手ごわい王女様だな。他の取り巻き連中も、俺の滞在が腹いせだと知ってるのか」

「否めませんが、知ってるのは二、三人のその場に居合わせた奴らだけです。肩を持つようですが、殿下は腹を立てても、こういうことを誰彼かまわず言いふらす方ではないので」

 軽く頭を振ってそう答えたイオディンに、クレセントは軽く笑った。

 確かに、王女がどうして腹を立てたのか、自分に何をされたのかを話したら、式典の前日に、夜遊びに出ていたことまでばれてしまう。

「今の話で充分な罪滅ぼしだ。これ以上気を使われる必要ない」

 イオディンの話に納得して、クレセントはそう言いながら立ち上がった。まだなにか言いたそうなイオディンを尻目に、手近な者に試合場への案内するよう頼む。レンデムはすでに待ちかまえていた。視線を走らせ、アデリルを見ると、彼女はどこか不機嫌そうな表情でこちらを見ている。

 レンデムの前に立った時、彼女の背後のアルセンの脇に、イオディンが並ぶのが見えた。

 クレセントは視線を目の前のレンデムに戻す。お互いに一礼し、そして剣を鳴らす。

 最初は軽い打ち合いから。レンデムは余裕の表情だ。彼の剣を受け流しながら、すぐに気づいた。レンデムも多少腕に覚えはあるのだろうが、イオディンの身捌きとは比べものにならない。イオディンの時は相手が攻めるに任せていたが、今度は遠慮なく、クレセントは自ら打ち掛かる。

 そして彼の速さにレンデムが意外な表情を浮かべた時にはすでに、クレセントは相手の足を払っていた。レンデムが後ろに倒れる。間髪いれず、クレセントは彼の喉元に模擬刀の剣先を突き付けていた。

 レンデムが焦りの色を浮かべて、身じろぎしようとする。クレセントは更に剣を突き出した。彼の動きを封じたまま、たっぷり三秒。

「勝負あり、クレセント様!」

 イオディンと比べて、取るに足らない相手だった。だが、彼はアデリルの従兄だ。これでさらに彼女の反感を買ったかと、クレセントはアデリルの方を見た。

 すると予想外にもアデリルは、どこか嬉しそうな、それを堪えるかのような表情をしていた。けれどすぐに試合場から顔を背け、背後のアルセンとイオディンに話しかける。彼女の顔は、クレセントから見えなくなった。

 レンデムが立ち上がるのを待って、お互いに一礼する。その間もクレセントはアデリルの表情の理由を考えていたが、これといって納得できる理由は思いつかない。ただ、このまま再びアデリルの隣に戻り、天蓋の中でレンデムたちと過ごすのは億劫だった。それで右手が痺れるからと言って、クレセントはもう席には戻らなかった。


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