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クレセントは驚きながらも指名を受けた。承諾することに理由は要らないが、断ることにはかなりの理由が必要だったし、もとより望んでいたことだ。王女の考えはさておき、式典の翌日には滞在客用に用意された部屋のある建物に引き移っていた。新しい部屋を眺めて、ニンフェが困ったように言う。
「どうするの…」
「どうもこうも、望んでたことじゃないか」
クレセントもアデリルの意図が掴めなかった。たしかに彼女に許しを乞い、彼女の機嫌を取るのには成功したと思う。かといって、百人近い婿候補の招待客の中から選ばれ、滞在を望まれるほど、好意を持たれたとは思えなかった。
だが、彼の気持ちとは裏腹に、宮廷でのクレセントは扱いは変わった。アトレイ王室からではなく、その周りだ。彼は今や、アデリル自身が選んだ婿候補と見られていた。形式的な指名とは言え、ひょっとすると将来的に彼は王女の夫として、この国に君臨するかも知れない。
今から親交を結んでおきたいと考える者が多くいても、なんの不思議もなかった。猟の誘いや食事会、音楽会に舞踏会。私的でささやかなものから、それなりの規模のものまで、一ヶ月間のクレセントの予定は次々に埋まった。
モルドには指名を受けた知らせを持たせ、一足先にラントカルドへ帰した。アデリルが何を考えているのであれ、彼女に無礼を働いたモルドが、これ以上長く宮廷にいない方が良いと思ったからだ。滞在が終わる時にまた、迎えとして呼び寄せるつもりだった。
宮廷に滞在したらアトラントから専属の従者が用意されるので、ニンフェにも同じく帰るように言ったが、彼女は頑なにそれを聞き入れなかった。クレセントが見る限り、自分がどうこうというより、アトレイを気に入ったようだった。
そうして始まったアトラント逗留だが、アデリルは素っ気なかった。
一日目ならまだわかる。だが二日、三日と過ぎても王女の態度は変わらない。
自分にかかりきりになるわけではないことは、もちろん最初からわかっていた。他の招待客もいるし、式典後の王女にはやることが山積みだ。それを差し引いても、彼女の態度は冷淡だった。昼食会やお茶の時間や晩餐会で何度も顔を会わせたが、アデリルはたって自分と近づきになろうとすることもなく、いつも挨拶程度でその場が終わった。
アデリルの真意もわからず、クレセントは不満が募る。周囲からもアデリルにどうやって気にいられたのか、指名を受けると確信したのはいつかと、やたらに尋ねられるのだ。だが今のクレセントでは、それに上手く答えられない。
その彼を動かしたのは、モルドがラントカルドから寄越した知らせだ。
国内では、クレセント王子がアトラント王女の心を射止めたと、大きく報じられていた。これほどまでクレセントに注目が集まったのは、初めてのことだった。
故郷の盛り上がりはクレセントにとって都合が良いが、肝心の王女の気持ちがわからない。痺れを切らしてクレセントは、自分からアデリルに近づくことにした。
最初の週末の昼間は、王女を囲んで招待客との昼食会が開かれた。食事が済んで、客たちが王女に入れ替わり近づく頃、クレセントもそれに加わった。
気分的には久しぶりに、彼はアデリルの前に立つ。ふたりに注目が集まった。
「アデリル様。改めてお礼を言わせてください」
「クレセント様、楽しんでいらっしゃいますか? 滞在をお願いしたのは私の方ですよ。お礼を申し上げるのはむしろ私の方です」
彼女の言葉は丁重だがやはり素っ気ない。クレセントは不穏なものを感じ取った。好意を寄せる相手を迎える口調ではない。周囲の者も何人かはそれに気づき、興味深そうな視線を向ける。けれど、ここで怯むわけにはいかない。クレセントは続けた。
「ふたりきりで、お話ししたいのですが」
「クレセント様、招待客はあなただけではありませんよ」
「アデリル様、彼の気持ちも汲んであげてください。皆、あなた方に注目してますよ」
年嵩の客が笑いながら言った。王女を囲んでいた他の人たちも、同じように頷く。
「では、クレセント様のいらっしゃる庭を案内しますわ。客人用の庭ですの。きっとお気に召してもらえると思います」
フリアナ、とアデリルは声を掛けた。
夕暮れの庭園で、クレセントはアデリルと並んでいた。植え込みと灌木林の中に遊歩道が続いていて、周囲は広く見渡せる。会話が聞こえるところには誰もいない。例外は少し離れたところから付き従うフリアナだが、これ以上彼女を下がらせることはできなかった。
「アデリル様、どういうつもりですか」
さっそくクレセントは切り出した。アデリルは西日の中に立ち、冷たい表情で答えた。
「どういうつもりって、こうなることを望んでいたんでしょう。クレセント様」
彼女が何を言おうとしているのかが掴めず、クレセントは怪訝な顔を向けた。アデリルはそんな彼を見て、少しだけ意地悪そうに笑った。
「あなたは私に気に入られて、婿の立場とまでは行かなくても、なにか友好の証を手に入れて国に戻るつもりだったんでしょう。あなたがダンスと口が上手いのは認めるわ。すっかり騙されたもの」
「なにか誤解されているのでは…?」
王女が自分を快く思っていないことは、すでにクレセントにもわかっていた。なにか彼女の気分を害することをしたのだ。式典の前日のことは二日目の舞踏会で謝った。彼女は許してくれたはずだ。その後に再び彼女の気が変わることがあるとしたら、心当たりはひとつだけ。それは。
「誤解しているのは私のほうかしら? あなたは私の婿候補に選ばれたのよ。式典の時と同じように、アトラントでもあなたのことが記事になって国中に広まってる。あなたは今、滞在客の中でいちばん注目を集めてる。あなたを使って私に近づこうとする人たちからも、たくさん誘いを受けてるでしょう?」
そう言うとアデリルは悠然と微笑んだ。王女に相応しい、完璧な笑顔だった。
「そのあなたが、滞在中に私にまったく相手にされなかったら、最後にはどんな噂が立つかしら?」
クレセントは後ろから殴られたような衝撃を受けた。平静を装ったが、まったく顔色を変えないわけにはいかなった。鼓動も早くなる。
「…イオディンか?」
「彼って優秀なの」と、アデリルが頷いた。
「立ち聞きが?」
「知らない宮廷に、若い女を従僕の格好をさせて連れ込むのは、品の良いこととは言えないし、まして王女のお披露目式に出席する王子のすることとは思えないわね」
クレセントはとうとう顔を顰めて溜め息を吐いた。
式典の二日目、アデリルと踊った後のことだ。部屋にいるはずの妹がいないと、舞踏会の人混みの中に、モルドが知らせにきたのだ。
ニンフェは前日から、式典に出席するために着飾った女性たちを、扉の影から羨ましそうに眺めていた。何を考えたのか知らないが、どこかふらふらされて、警備の者に見つかっては困る。やましいことは何もなくても、王子付きの従僕が実は若い女だと知れたら、それだけで問題だ。
アデリルと踊り、彼女の怒りを冷ます目的はすでに果たしていた。首尾は上々だ。これ以上舞踏会に用はない。クレセントは目立たぬようにそっと、音楽の鳴り響く広間から抜け出した。ニンフェを見つけるのにはさして時間もかからなかった。舞踏会の広間が見渡せる庭に、ぼんやりとたたずんでいた。
王女の式典に湧くアトレイで、ニンフェは開放的な気分になっていた。なのに自分は自由に部屋から出ることもできず、装いはこれまた味気ない従僕姿。他の女性たちと同じように着飾って、舞踏会にいられない自分が可哀想になったのだ、と彼女は話した。
自分が望んでついてきたくせに、クレセントは思ったが、ニンフェが辛抱強い性格ではないことを、彼はよく知っていた。とりあえず部屋へ戻ってもらおうと、アデリルと踊ったことや、彼女に上手く謝罪したことを話した。
しかしその言葉はニンフェに、別の期待をもたらした。
クレセントが首尾良く王女に指名されれば、式典が終わってもまだアトレイに残って、今度こそ心ゆくまで楽しめるのではないかという期待だ。ただ、そのためにはクレセントの行動はまだ不十分だ。ニンフェにもそれがわかっていて、その結果が、イオディンに聞かれた、あのやりとりだった。
あの晩のことを思い出しながら、クレセントは頭を振った。
「ニンフェはなんでもない」
「それがあなたの従僕の名前なのね。でも、それはどうでも良いことです。ダンスの時に私を欺いたことに比べれば。夢舞台亭でのこと、素直に謝ってくれたら許したのに」
「不満があるくせに、俺を引き留めた? 物好きな王女だな。さっさと追い返せばよかったのに。わざわざ呼びつけてからかう趣味はないと言ったのは、大嘘だったな」
クレセントがやっと言い返すと、そこで初めてアデリルの方も、嫌悪感を露わにした表情を彼に向ける。
「私のあなたに対する気持ちを言わせてもらえば、酔ったアルセンが使うような口汚い言葉で罵りたいくらいよ。酔って店の給仕に絡むような男は、どんな身分だって下劣だわ。だからちょっと恥を掻いてもらおうと思って」
ラントカルドにはすでに滞在の旨を伝えてある。これから一ヶ月の間は、よほどのことがない限り、それこそアデリル本人から叩き出されでもしない限り、途中で去るのは無礼に当たる。もちろん、王女に叩き出されるのはそれよりもっとずっと、大きな不名誉だ。
言葉に詰まったクレセントに満足したのか、彼女は再び王女らしい笑顔を浮かべると、
「さあ、クレセント様、もう十分でしょう。あまり長い間ふたりでいると、お互い根も葉もない噂を立てられるでしょうから、そろそろ戻りましょう」
そう言って彼に並ぶと、離れた場所にいるフリアナに合図を送った。
「アデリル様…」
「敬称は要りませんよ。私もあなたに相応しい言葉づかいをするから」
アデリルが言って歩き出した。クレセントは仕方なくその後を追う。斜め後ろから機嫌の良さそうな王女の表情を眺めて、彼は心の中だけで舌打ちした。
詰めが甘かった。何も本気で夫の立場を望むわけではない。関心を買う程度なら、なにひとつ不自由なく育った十七歳の王女など、口先だけでどうにでもなると思っていた。実際、途中までそれは成功していた。ただ、詰めが甘かったのだ。
十七歳でただひとりの跡継ぎとは言え、王女は王女。目的のためなら、自分と同じくらいには、表と裏の顔を使い分けるなんて当然だった。
宮殿に戻った別れ際、フリアナが近づく前にアデリルはクレセントに向かって、
「それではクレセント様、これからはせいぜい私に敬意を払ってくださいね。償いの機会だと考えてくれればいいのです。そうすれば少しくらいは、なにかいいことがあるかも知れません。ここにいる間は、私のご機嫌取りをお忘れなく」
姿勢を正し、王女に相応しい華やかな笑顔でそう言った。
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