後半戦 クレセント
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クレセントはラントカルド王国の現国王の、次男の二番目の妻の第二子として生まれた。二番目と言っても正室だ。ラントカルドは王が複数の妻を持つことを許していない。つまり、クレセントの父親は最初の妻を若くして病気で亡くした後に再婚し、そしてクレセントが十歳の時に離婚した。彼が十九歳になった今では両親とも、それぞれまた別の相手と結婚している。
彼らが離婚した時、クレセントは王室に残り、父のもとで育った。実際に彼を育てたのは乳母だ。そして、その時から競争の中での生活が始まった。
先の大戦で大敗した後の、ラントカルドの民主化によって王族は権力を失った。国を滅ぼしかけた王族の血筋は軽んじられ、一時は解体の危機に瀕した。今では国民に仕える下僕という立場に変わって、何とか存続している。
王族はひとりの例外もなく、成人する時に議会と国民投票にかけられる。支持されなければ身分を剥奪され臣籍に、つまり一般人になるのだ。それからも数年おきに審査が続く。復籍もできるが、それにも議会の承認が必要で、前例はごくわずかにしかない。
クレセントは物心ついた時から、それでも王族であること、カルド家の血筋を守り抜くことが誇りだと教育されてきた。
同時に、身分を剥奪された親族も、嫌というほど目の当たりにしてきた。
最初は父の兄、つまり現国王の長男。そして彼の息子。次は父の姉の息子。
親族の集まりでそれまで顔を会わせていた従兄たちが、ある日を境に卓から姿を消す。そしてクレセントが王族でいる限り、もはや二度と公的な場所では同じ卓につくことはない。そこに漂う気詰まりで息苦しい空気の中に、クレセントは育っていた。
父からの期待は薄かった。彼は自分の息子より甥、先に成人して公務についている兄の次男を可愛がっていた。国民投票で支持を得られず臣籍に下った兄と違い、この従兄は品行方正かつ優秀だった。そして今のところ国民の支持が厚く、順当に行けばクレセントの父や叔母を通り越して、彼が王位を継承する可能性が濃厚だった。
解体の危機を経験したラントカルドの王族にとって、王室の存在感を示すのは重要なことだった。クレセントの父が、将来支持されるかわからない自分の息子より、すでに公務に就き実績もある甥に、王室への注目を集める期待をかけるのも、当然だった。
それ以外にも、従兄は容姿にカルド王家の特徴と言われるものを色濃く備えていた。母親似のクレセントとは、そこも違った。そのせいばかりではないが、彼の存在はいまひとつぱっとしなかった。先に成人している従兄弟たちと比べて、なにか評判になるわけでもない。注目度という点では例の従兄を筆頭に、最近では自分の弟妹、父と現在の妻との間に生まれた今年八歳になる男女の双子たちの方が、話題に上ることが多かった。
父の気持ちは甥と弟妹に分割され、自分に向けられている分があると感じたことは、ここ数年絶えてない。ならばいっそと、クレセント自身は王族から離れ臣籍に下っても良い、と思っていた。
でも同時に、どこかで王室に残りたいと、父の傍でなにか彼の役に立つような、もっと率直に言えば彼に認められるような、自分の存在を見せつけてから臣籍に下りたいと思っていた。かといって自覚している取り柄と言えば、容姿くらいのものだ。
全体に的に色が薄く、灰色がかった淡い青灰色の髪は父方の祖父譲り、それより濃く澄んだ青灰色の眼は母親ゆずりだった。成長するにつれ伸びた背丈に対して、手足のバランスも良くなった。両親の良いところだけど受け継いだと、幼い頃からクレセントは周りの者に誉められて育った。でも、それだけだ。他のことを誉められたことはほとんどない。
ただクレセント自身、自分の取り柄をどう活かせばいいのかよくわかっていなかった。だが父親の方はわかっていたようだ。アトラント王国の式典に参加する二ヶ月前に、クレセントは彼の執務室に呼ばれた。父親と直接顔を合わせるのも同じく二ヶ月ぶりだった。
「面白いものを手に入れた。クレセント、おまえ、これに行って来ないか」
息子の最近の様子を聞くでもなく、またクレセントから尋ねる間もなく、彼は言った。そして息子に向かって封書を差し出す。
クレセントは受け取って中を開いた。アトレイ王家の紋章の透かしが入った分厚い紙に書かれていたのは、次期女王であるアデリル王女のお披露目式への招待状だった。
彼がアトレイについて知っているのは、近隣国のひとつで女王の国だというおぼろげな印象だけだ。歴史も学んだことがあるはずだが、すぐには思い出せなかった。ラントカルドとは縁が薄く、敵対国ではないものの、カルド王室と正式な交流はないはずだ。
「国王の代行ですか?」
「まさか。だったらおまえには行かせない。次期女王の婿候補として行くんだ」
笑いながら言った父親に、クレセントは思わず眉を顰める。
「どういうことです?」
「年寄り連中に聞いたら、アトラントの女王のお披露目式と言うのは、婿選びの場でもあるというのが暗黙の了解なんだそうだ。まあ、昔と違って今では形式的なものだろうが、それでも若い男が王女のために大勢招待される。おまえ、そこに行って王女とよしみを結んで来い」
「また、急な大役ですね」
「おまえは間もなく二十歳になる。そうしたら最初の総議会にかけられる。そして同じ頃に、私の今後も七回目の議会に諮ることになるな」
「アトレイの王女と親しくなるのが、実績作りということですか?」
「もっと言えば、アトラントとの繋がりを得たいんだ。あそこは五国同盟の話も順調だ。来年には締結するだろうな。そうなればラントカルド自体、近隣国の中で今より存在感が薄くなる。王女と親しくなって、アトラントとこれから太い繋がりを作ろうとする姿勢は、国の繁栄にも繋がる」
ラントカルドの国自体は、そこそこ豊かだ。アトラントとも商業的な交流は盛んだ。けれどその交流が盛んであればあるほど、王室の影は薄くなり、存続は危うくなる。
「父上は、俺にその大役が果たせると?」
「王女と言っても十七歳の小娘だ。若い女の気を引くなら、親族の中ではおまえが一番可能性がある。温室育ちの娘だ。おまえが誑かすなどわけないさ」
父親は、息子の容姿のことはよく心得ていた。そして王室のためである以上、クレセントには断る理由もない。彼はその場で承諾し、同行者として気心の知れた乳兄弟のモルド、そして自分もアトレイを見るのだと言って聞かない彼の妹のニンフェ、後はわずかな信頼のおける供の者だけを連れて、アトレイに乗り込んだのだ。
アトレイは王女のお披露目式の祝賀ムードで湧いていた。式典の数日前に到着し、町をそぞろ歩いたクレセントも肌でそれを感じた。
お披露目式が婿選びの場であるというのは嘘ではなかった。町に並ぶ新聞の一面は、すべてその話題で持ちきりだった。そこにクレセントは発見した。アデリル王女は男好きとの噂が絶えず、最もお気に入りの家臣だけで三人いる。民衆はそんな王女にまつわる不謹慎なロマンスを、不品行と考えるより歓迎しているようだ。
アトラントは女王の国で、彼女はこの半世紀待ち望まれた次期女王。女王は国に繁栄をもたらす存在で、彼女の夫選びは民衆の注目の的だった。それを示すかのように、王女のロマンスの相手が誰なのか、記事の中でははっきりと書かれていない。むしろ面白おかしくねじ曲げられている。それがクレセントの印象だった。
アデリル王女とは式典まで顔を合わせることはないが、宮廷に出入りする彼にとって、その噂の三人の家臣が誰なのか特定するのは難しくなかった。
まずはチャコール・キリエール。古くからアトレイ王室に仕える名家のひとつで、キリエール家の名前はクレセントも聞いたことがある。彼の父は国の法務長官で、王女の後ろ盾などなくとも申し分のない家柄の子息だ。
王女と彼の祖母たちはとりわけ仲の良い従姉妹同士で、アデリルと彼は誕生日も一ヶ月程の差しかない。兄妹同然に育っている王女と同じ十七歳。榛色の髪と目の利発そうな表情に、育ちの良さが全身から溢れている。年の割には未だあどけなく、少年特有の繊細さを残している、アデリルと一番仲の良い、一番近しい少年だ。
その次がアルセン・アルジーン。彼が既に除名された貴族の出身だと知り、クレセントは少なからず驚いた。アトレイ王室では本人の資質次第で没落貴族の令息も、王女の直属の親衛隊の一員になれるのだ。ラントカルドではまず考えられないことだった。ただ、本人を眺めて納得した。柔らかそうな金髪に、いかにも女好きのしそうな甘い顔立ち。それだけでなく存在の華やかさは圧倒的だった。彼がその場にいるだけで、暗がりに明かりが灯ったように、自然と人々の注目が彼に集まる。
自分の見た目に自信のあったクレセントが、一番引け目を感じたのは、実は彼を見た時だ。日常的にこれほど魅力的な男を傍に置いている王女なら、自分など歯牙にもかからないかも知れない。クレセントはそう感じた。
ただ、有利に思えるのは彼にまつわる噂で、アルセンは女にだらしないと評判だった。本当のところは判らないが、正式な婿としてその噂は致命的だ。かと言って、それを知った上で王女が彼を傍に置いているなら、この先どうなるかわからない。
三人目がイオディン・クレイギル。クレセントにとっては彼が一番意外だった。
黒い髪、黒い目、姿勢の良さに実直そうな顔立ち。確かに見た目は悪くない。だが彼はいかにも軍人で、常に周囲に向けられている鋭い視線からしても、女が気軽に寄りつくタイプじゃない。それに彼は黒騎士隊の一員だ。王女とそれほど接点があるようには見えなかった。
ひとりひとりを特定し、そして彼らの背景を知るごとに、クレセントの自信は目減りしていった。これほど目立つ家臣を取り巻きにし、しかも誰ひとり特定の相手ではないのだ。男好きというのがどの程度なのかは知らないが、実際にはもっと数多くの男を侍らせているであろうことは、想像に難くなかった。
さらに驚いたのは、都合良く書き換えられた現王女のロマンスが、演劇となって劇場で上演されていることだ。王室は止めるどころか、好評を博して上演期間が伸びたという。
アトラントはラントカルドとは何もかも違った。王室は開放的だし、民衆に愛されているし、アデリルは将来を約束された、競争相手のないたったひとりの王女だった。
式典への出席を間近に控えて、クレセントは既に絶望的な気持ちだった。このままでは王女の目に留まるかどうかも怪しい。決められた時間に挨拶だけ交わし、なんの手土産もなくラントカルドへ戻るしかないのではなかろうか。
沈んだ彼の気持ちを引き立たたせようとしたのがニンフェだった。式典の前に町に出て、少しでもアトレイや王女のことを知っておこう、と彼女は誘った。
それはつまり、アトレイの町で人気の『王女の秘密と婿探し』を観たい、ということだ。ついでにそのあと、給仕が登場人物になりきっている夢舞台亭で食事できれば言うことない、というわけだった。
クレセントはその時すでに、かなりなげやりな気持ちになっていた。首尾を果たすのは難しそうだ。外国旅行に浮かれているニンフェが楽しめるならそれでも良い。彼は頷き、店の手配をした。宮廷づたいに頼んでも、席が取れたのは式典の前日だった。
夕方の町に出ると、号外が飛び交っていた。もちろん、王女の式典を祝福するための新聞記事だ。目の前に舞い降りてきた一枚に目を向けると、そこには式典の進行次第と、主立った出席者の名前が書かれている。もっと重要なのは裏だった。
そこには正確な名前ではないが、アデリルお気に入りの家臣三名と、その他の内外からの招待客七名、計十名ほどの名前が挙がっていた。いずれも婿候補で、下には倍率が書いてある。予想記事を読む限り、この賭けは大盛り上がりのようだった。もちろんそこにクレセントの名前はない。彼は重苦しい気分で号外を丸めて道に捨てた。誰も咎めるものはない。
舞台で王女はアルセンと、と言っても役名は違うが、彼をモデルにした家臣と結ばれる筋書きだった。ニンフェが聞いてきたところ、時間や日にちが変わればそれぞれチャコールやイオディンと結ばれる版も存在するらしい。
ただひとつ抱く王女への気持ちを紛らわせるために、他の多くの女性に甘い言葉を囁くアルセン、そして親衛隊として常に傍にありながら、彼のただひとりの女性になれないことを思い悩むアデリル王女の秘めたる気持ちが、お披露目式の三日間で通じ合うまでの物語はいたって単純だった。だがそれを彩る歌や踊りはなかなか立派で、最初は冷めた目で舞台を観ていたクレセントも、いつのまにか引き込まれてしまった。
クレセントですら思いがけず楽しんでしまったこの舞台を、ニンフェが気に入らないはずなかった。彼女は興奮冷めやらぬ様子で、夢舞台亭での食事を楽しんでいた。
夢舞台亭では、先ほど観たばかりの舞台の演者とほぼ同じ衣装をつけた給仕たちが、客席の間を行き来している。ささやかな礼で彼らを呼び寄せ、ちょっとした寸劇を披露してもらうこともできる。テーブルについたのは女官姿の給仕だったが、ニンフェはアルセンに扮した給仕を気に入り、何度か呼んでは彼に愛の言葉を囁かせたりして喜んでいた。
時間が経つと、アデリルに扮した給仕が客席を間を練り歩く。
派手な衣装を身につけた王女役の給仕は、舞台に立っていた女優よりも若く、どうにか十七歳に見えなくもなかった。ただ、そのぶん王女と言うには表情が垢抜けていない。
彼女がテーブルを回る。クレセントたちのテーブルにも近づいてくる。彼女が間近に立った時、ニンフェの表情がわずかに沈んだ。渡そうと用意しておいた心付けを差し出すと、背後に控えた侍女役の少女がそれを受け取る。
王女役の少女はニンフェに向かってほっそりとした手を差し出した。
楽しみにしていたはずのニンフェはおずおずと、まるで本当の王女を前にしたかのように気後れしながら彼女の手を取る。そして端で見ていてもわかる力のない握手をした。
去っていく王女役の背中を、ニンフェの視線が追っていた。彼女にしてみれば複雑だろう。王女と親しくなることがクレセントにとっての成功で、それは自分と親しいクレセントを奪われるということなのだから。
偽の王女の気取った態度を見ていると、クレセントは苛立ちが湧いてきた。
宮廷を模したこの店にも、だ。来客を楽しませるために扮装を凝らした給仕たちも、彼らが見せるちょっとした楽しげな寸劇も、どれもこれも苛立ちの原因だった。
明日のお披露目式の主役であるアデリル王女は、劇場や酒場でこんな風に自分が扱われているのも意に介さない、おおらかな次期女王なのだ。それは息苦しいラントカルドの王室とはあまりにも違う。
自分はこれからその宮廷に乗り込み、王女の気を惹かなければならない。容姿しか取り柄のない自分に、いったい何ができるだろう。それにアトラントへやってきたことも、王女の式典に出席することも、どれをとっても自分の意志がどこにもないことに、クレセントは今夜初めて気がついた。酒も回っている。
彼は少し頭を冷やそうと、席を立った。手洗いから出てくると、モルドがにやにやしながら近づいて来るところだった。
「今、そっちに王女が入ったぜ」
彼はそう言って、女性用を指した。顔にほとんど出ないが彼もしたたかに酔っている。だとすると今は席にニンフェがひとりだ。戻ろう、と促すと、モルドが首を振ってその場に踏みとどまった。
「明日に先駆けて、王女様にご挨拶しなけりゃ」
自分と同じく、モルドもアトレイの空気に気圧されているのを知っていた。それにアデリル王女は彼の妹から、彼女の想い人を奪っていく相手だ。モルドがこの場にいるのはその手助けをするためで、彼もクレセントと同じく、それは本心からの行動ではなかった。
どうしようかと思っていると、化粧室の扉が開いて、赤紫色の髪をした少女が出てきた。王女役にしては、身なりがずいぶんと質素だった。テーブル席で見た給仕とは違う。ただ、薄暗い店内でも判るほど、肩から背中に落ちる赤紫色の髪は艶やかで美しかった。彼女は向きを変え、こちらに近づいてくる。
そこに、モルドが一歩踏み出した。
彼が給仕の腕を引く。クレセントは溜め息を吐いた。こんなところで店の女に絡むほど、落ちぶれるのか。そう思っていると、給仕の女が咎めるような目つきでクレセント見た。
正面から顔を見ると、酒を出す店で働いているとは思えないほど若く、品のある顔立ちをしていた。気の強そうな目つきで彼を見ている。その輪郭を縁取る、見せつけるように広がった赤紫の髪。間違いなくそれは、アデリル王女によく似た髪の色だ。
薄暗い店内で酔いも手伝ってか、クレセントは本当に本物の、アデリル王女に厳しい視線を向けられているような錯覚に陥る。途端に、苛立ちが湧いた。
アトラントまでのこのこ出向き、相手が身分高く華やかな存在であるという理由だけで、自分より年下の小娘に媚びを売るような真似をしなくてはならない。そしてなにより嫌なのは、結果的に、それを自分が選んでしまったことだ。
「ねえ、お友だちに席に戻るよう言ってくれない」
そう言った声は、予想よりずっと凛と響いた。彼女はモルドに臆してはいないようだ。王女なら人に命令することにも、相手がその命令に従うことにも慣れている。けれど酔ったクレセントは、それが酒場の給仕であっても、いや、だからこそ、王女の姿をした少女に逆らいたい気分だった。
「王女様に憧れてるんだ。目をかけてやってくれ」
我ながら冷たく突き放した表情でそう言うと、少女は顔を顰め「離して」と、モルドから逃れるように腕を振る。彼女の曇った表情を見ると、なんだかクレセントは自分の惨めな気持ちが薄らいだような気分になった。
「飲み屋の女のくせに、気取るなよ」
そうだ、ただの給仕のくせに、一国の王子である自分の前で、赤紫の艶やかな髪と意志の強そうな目つきでいるのが悪い。クレセントがそう思って少女をせせら笑った時だった。
「マデイラ」
そう呼ぶ声が聞こえて、男が彼らの間に割って入った。その姿を見て、クレセントは少なからず驚いた。年の頃は自分と同じくらいだろうが、燃えるような赤い髪に、褐色の肌。エンシェン族の特徴だ。ラントカルドにも出入りしているので、すぐにわかった。
「妹が何か」
エンシェンの青年は、給仕の少女を庇うようにモルドの方へ一歩進み出るとそう言った。
「妹? 扮装好きの女給だろ?」
「店の者じゃない。俺の連れだ」
エンシェンの男がそう言った。妙だ、とクレセントは感じる。質素な身なりの、王女とよく似た色の髪色の少女。エンシェン族の青年。そう思った時には、
「おい、離せ」と、モルドの背を叩いていた。
少女は彼から離れると、ほっとしたように青年の方へ身を寄せる。そのまま立ち去ろうとするので、クレセントは声をかけた。
「似てない妹だな」
「その方が都合が良い」
エンシェンの青年が、肩越しに余裕の笑みを浮かべてそう答えた。
それで終わりになるかと思っていたが、彼らにはさらに連れがいたらしい。入れ替わるように、まだ少年と言うべき年頃の男を先頭に、店のものが足早に近づいてきた。
少年はかなり険しい顔をしている。店の者はクレセントとモルドを取り囲むと、丁重な言葉遣いで、だがきっぱりと店から出て行くように告げた。席にいたニンフェも連れ来られて外へ出る。叩き出されたという屈辱は湧かなかった。ただ、驚いただけだ。
「あの女、エンシェンの男を連れていた」
「確かに珍しいけど、不自然なことじゃないだろ?」
国を持たないエンシェンが、市井に暮らすのは珍しいことではない。ただ、エンシェン族そのものが、とても少ない数なのだ。赤紫の髪の少女に、エンシェンの男、そして自分たちに指図した、あの店に似つかわしくない少年。見覚えがある気がした。宿までの帰り道で必死にそれが誰なのかを思いだし、クレセントはひとり青ざめる。
あれはおそらく、チャコール・キリエールだ。
悪い予感が、というより正しい推測が的中したことが判ったのは翌日になってからだ。
式典の中、中央に進み出たのアデリル王女は紛れもなく、昨晩会った、そしてモルドと自分が不愉快な思いをさせた給仕の少女だった。正確には、給仕と思いこんでいたのだが。
人垣越しの遙か遠くに彼女を眺めて、クレセントは自分の動悸が速くなるのを感じた。早ければ今夜の舞踏会で、遅くても明日の正餐会で、王女と正式に対面する。
夫に選ばれるのは無理だとしても、なんとかアデリルに取り入り、アトレイ王室との繋がりを手土産に本国へ戻るつもりだったのに、早くも大失態だった。それでも式典はつつがなく進み、アデリルの主催する舞踏会が始まった。
本番は明日で、今日は顔見せに過ぎない。ただひとり重要な、王女の最初の相手は誰かという噂はいくつかあったけれど、現れたのはその誰でもなかった。だが、どよめきの中で王女の手を求めた人物に、クレセントは驚かなかった。
あのエンシェン族の青年だ。昨晩、夢舞台亭にアデリルと一緒にいた、彼女を助けに来たあの褐色の肌の青年。確かに彼なら王女と歳も近いし、今夜は昨晩のだらしない格好とは打って変わって、きちんと正装している。王女の隣に並ぶと貫禄は充分だった。
アデリルも意外そうに目を瞠り、すぐに彼へ笑顔を向けると、自分の手を預ける。ふたりが広間に降りた。
またも動悸がする。やはり彼は宮廷に出入りするエンシェン族だったのだ。
しかも彼なら、男好きの噂が絶えず、夫選びが注目されるアデリル王女の最初の相手としてはうってつけだ。エンシェン族は独自の規律の中に暮らしていて、いわゆる普通の結婚はしない。高地竜を扱い、独自の習慣の中で高地と平地を行き来する生活をしている。少なくとも今この場にいる人間で、それを知らない者はいない。
エンシェン族の青年の見栄えがどんなによくても、また彼がどれほどアデリルのお気に入りであろうとも、彼の方が王女との結婚を承諾する見込みは、とても薄かった。
クレセントはなんとか彼女に近づきたかった。けれど彼女への申し込みは後を絶たず、入り込む余地はない。絶望的な気持ちで、一日目が終わった。
二日目の正餐会の時は、顔を合わせずには済まなかった。順番はかなり後のほうだが、自分も王族の端くれだ。きちんと王女に挨拶する時間が取られている。
彼女はあの晩のことを、自分がその場にいたことを覚えているだろうか。それによってしらを切り、まったく初対面として接するかどうかが決まる。
青天井の下、風もなく穏やかな気候の中で、彼は緩やかに列が進むのを待った。視線の先には既に椅子に座ったアデリルが見える。背後に揃いの制服の親衛隊が並び、一番彼女に近いところに、ひときわ目立つアルセンが立っている。
各国から訪れた招待客が順に王女と言葉を交わす。皆、若い青年ばかりだ。既に形骸化している儀式とは言え、ここで王女に気に入られればそれにこしたことはない。出席者は皆、それがわかっている。
クレセントの番が近づいてきた。柄にもなく彼は緊張する。でもそれを表情に出したりはしなかった。天蓋の中に招き入れられ、とうとう彼はアデリルの目の前に立った。
盛装して彼を見上げる王女は美しかった。
昨晩の式典から舞踏会は遠くに眺めただけだ。近くで見た時は薄暗がりの中、町娘のような質素な服だった。そのアデリルは今、輝くような日射しの午後の中庭で、堂々たる王女の貫禄を湛えている。だからにこやかな彼女の口から、
「なんでも、夜遊びがお好きだとか。わたくしの式典が退屈でなければいいんですけど」
との言葉を聞いた時、逃げられない、と悟った。彼はすぐにあの晩のことを謝罪する。 本心ではなく、王女の機嫌をこれ以上損ねないように重ねた言葉だった。だが、彼女の方も心得たもので、舞踏会の相手を申し込んでも、曖昧にかわされてしまった。
その晩の舞踏会では、次々と青年たちと踊るアデリルを遠巻きに眺めているだけだった。踊りの相手に事欠くことはなかったが、今夜この場で、ひとりの招待客として王女と踊れないならなんの意味があるだろう。踊りの列は常に彼女と近かったが、彼女はクレセントに目もくれない。昼間のことを考えれば、当然だった。
無為に今夜を過ごすのか。明日になれば式典は終わり。王女と言葉を交わすこともなく、母国にとんぼ帰りだ。そして、はるばるアトラントを訪れて、なんの手柄も持ち帰れない、無能な王子だと思われるのが積の山だと、クレセントには容易に想像がついた。
王女を遠目に見つめ、焦れた気持ちを持て余し始めた頃、思いがけないことが起きた。
「失礼、クレセント様」
曲が終わり、それまでの相手を壁際に送り届けたところで、彼は背後から話しかけられた。振り向くと見知らぬ相手、しかし式典場で何度か王女の傍に見かけた男が立っている。
「私は王女の従兄、国王の兄の息子のレンデムと申します。僭越ながら、王女からの御伝言をお伝えしたく、声をおかけしました」
そう言って彼は軽く礼をした。そして顔を上げるとにこやかな表情を浮かべて続けた。
「実は王女があなたを見初めて、踊りの相手をお願いしたいと言っているのです」
それを聞いたクレセントの胸の奥が冷えた。眉を顰めそうになるのを、どうにか堪える。
アデリル王女は予想以上に性格が悪い。正餐会で挨拶した時は、目の前のからさっさと消えろと言わんばかりの態度だったのに、今になってこれだ。従兄を使って踊りの相手を務めさせようとしている。今夜の王女は踊る相手も順序もほとんど決まっていて、そこに入り込む隙はほんのわずかにしかないはずだ。そして昼の間に、クレセントはそれを逃している。目の前の男も、きっと一昨日の晩のことを王女から聞いているのだろう。そう思って見ると、彼の人好きしそうな笑顔は、陰険さを隠すだけのように見えた。
一昨日の自分の態度に腹を立てるのはわかるが、その場にいなかった従兄まで仲間に引き入れ、からかいの対象になるいわれはない。
だが、この場でクレセントが彼に返せる答えは、ただひとつしかなかった。
「それが本当なら、大変光栄です。私でよければ、王女の相手を務めます」
従兄の言葉は嘘ではなかった。彼は王女の前に立ち、気づいた時には彼女の手を取り、広間の中央で向かい合っていた。そしてこれが従兄と王女、ふたりの企みではないことを知った。その点だけは、彼女は正直だった。
彼女の言葉を聞いた時、頭の中で合図が鳴った。これは好機だ。クレセントはすぐに実行に移し、そして首尾良くアデリルに許された。
けれどあの場で、クレセントは取り繕うことに必死だった。それ以上の待遇を望んだわけではない。それは本心だ。
だから翌日、式典の最終日の署名式で、彼は一瞬息をするのも忘れるほど驚いた。来賓の重要度で決まる席次のせいで、アデリル王女は遙か遠くの演壇の上に見えるだけだった。 まさかその自分が、たとえ望んだことはあるにせよ、本当に王女の滞在客に指名されるなどとは、夢にも思っていなかった。
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