<9>
広間では華やかな舞踏会が続く中、イオディンは角灯を提げて宮廷の庭の見回りをしていた。この三日間は王女のお披露目式。来客と共に出入りする人の数も多く、いつもより夜間の警備を厳重にしている。そこにイオディンも加わっていた。
庭ではそこかしこににかがり火が焚かれ、辺りを照らしている。若い隊士と共に順路に沿って見回りをしているが、とりたてて問題はなかった。夜の庭で見かける客人もいたし、なかには怪しげな動きの者もいたが、危険に繋がるようなことはなにもなかった。
剪定された木立が揃う植え込みの傍まで来ると、薄暗がりの中、その奥から話し声が聞こえた。イオディンは相棒に目配せすると、気配を消してそっと近づく。やはり誰かがひそひそ声で話している。イオディンは思わず耳をそばだてた。片方が女の声のように聞こえたからだ。相手は男なのか、聞き取りづらくてよくわからない。近づく間にも、女の声が少し大きくなった。口調も強い。イオディンは思わず顔を顰めた。
夜中の庭の薄暗がりで、痴話喧嘩に遭遇するのは珍しいことじゃない。特に今夜のような集まりの晩、宮廷の雰囲気がどことなく浮き足立っている時は。そしてイオディンはそこに割って入るのが苦手だった。
けれど続きは式典の庭ではなく、部屋でやってもらわなくてはならない。すぐに済む話だ。相棒に植え込みの前で待つように言い、イオディンは声の方へ近づいた。
「もう今夜しかないのよ。早く戻らないと」
かなりはっきりと、そう言った知らない女の声が耳に届き、イオディンは思わず足を止めた。立ち聞きは彼の趣味ではないが、ついそのまま、会話の続きを待ってしまう。
「王女は信じてくれた」
男の声は小さく低く聞き取りにくいが、イオディンにはそう聞こえた。
「信じてくれたって、許されたってことが? それがなに? 許されただけじゃない。あとはなんにもない。このままのこのこ手ぶらで帰るの? それじゃあ、なにしに来たのかわからない」
「一度失敗してるんだ。挽回の仕方は上出来なほうだろ」
「そんなのだめ! 王女と話したんでしょう。今すぐ戻って、なんとかして明日は王女に名前を呼んでもらうの!」
「そんなに簡単なことじゃない」
「だったら余計に戻ってよ。ここにいてもなんにもならない」
会話の内容は計り知れなかったが、王女について、イオディンの推測が間違っていなければ、それはアデリルのことだろう。放っておくわけにも行かないし、顔を見てやろう、とイオディンはわざと足音を立て、角灯で辺りを照らすようにしながら、
「誰かいるのか」と、声を上げて、人影に近づいた。
向かい合った影が固まり、イオディンに視線が向く。弱い明かりの中に、ふたりの姿が浮かびあがる。
そこにいたのはクレセント王子と、従僕の服装をした年若い少女だった。最も、彼が目にした時、すでに少女は素早く頭にフードをかぶってしまっていた。声を聞いていなければ、外見どおり、ただの少年だと思ったかも知れない。
「失礼」と、内心の驚きを少しも顔に出さず、イオディンは慇懃に言った。
「話し声が聞こえたので、お声を掛けました。式典のお客人でしょうか」
「ああ…」
どこか不機嫌な表情で、クレセントが頷いた。この場を見られたことが気まずいのかも知れない。傍らの従僕は、胸元を押さえるように両手を握っている。
「今夜は王女の舞踏会です。お部屋にお戻りいただけませんか。もし、迷っているならお送りします」
「いや、見事な庭を歩いてみたくて、従僕を連れて出てきたんだ」
「そうですね、宮廷の中でも、この庭がもっとも華やかです。ただもう夜も遅い。散歩は明日の明るいうちにして、部屋にお戻りください。私がお送りします」
「いや、その必要はない」
「では、せめて建物の傍まで」
クレセントが神妙な顔で頷く。従僕が彼の傍に寄り添った。イオディンを先頭に建物に近づくと、間もなくクレセントがここでいいと、言った。
「名前は?」
「黒騎士隊のイオディン・クレイギルです」
「王女のお気に入りのひとりか。こんなところにいていいのか?」
クレセントは薄く笑って手を差し出す。イオディンには意外な行動だった。彼はクレセントと素っ気ない握手をしてから、彼を見て言った。
「気に入られているかはわかりませんが、目をかけて頂いているのは確かです。では、私はこれで失礼を」
ふたりと別れて相棒のもとに戻りながら、イオディンは考える。
彼らも自分に話を聞かれたことはわかっているはずだ。
純粋な好意だけでアデリルに好かれようとする招待客などいない。多かれ少なかれ腹づもりのある連中ばかりだ。彼らだって例に漏れない。
けれどクレセントは二日前に、アデリルとは知らずに無礼を働いた人間だ。気に掛かる。
それに、自分の見立てが間違っていなければ、彼はまだ年若い少女に従僕の格好をさせて、このお披露目式に同行しているのだ。
「それ、ほんとの話?」
話を聞き終えたチャコールが顔を曇らせて尋ねる。イオディンは頷いた。
あの後すぐにイオディンは任務を外れると、フリアナに頼んで宮廷内にいるチャコールを呼び出した。彼らがいるのは広間の傍に作られた王女のための控えの間だ。舞踏会用の衣装が揃えられ、着替えたり化粧直しをしたりするための部屋だ。イオディンは移動していたし、チャコールは広間にいた。確実に落ち合えて、かつ内緒話をするには都合が良い。フリアナを追い出してしまえば、他に誰もいない。
「確かにアデリル、一時間くらい前にクレセントと踊ってたよ。始まってから割と早い時間に。気がついたから注意してたんだけど、俺が見た限り険悪になった感じもなかった」
「従僕はたぶん、若い女だったと思う。妙じゃないか。自分の従者なら部屋で話せばいいだろ」
軽くノックする音が聞こえて、ふたりが振り向くと、フリアナに促されてアルセンが入ってくるところだった。彼女は廊下に残って、部屋の前で人払いをしてもらうことになっている。イオディンはつい先ほどのできごとを、アルセンに話した。
「クレセント、いなかったよね?」
チャコールが顔を向ける。アルセンが頷いた。
「確かに広間に見掛けなくなってたけど、食事に出たのかと気にもしてなかった。それにアデリル殿下は彼と踊ったんだよ。その後、僕のところに来て、和解したとけっこう嬉しそうに話してた。きちんと謝られたし、誤解は解けたって。あの件はもう済んだと、イオディンとチャコールにも伝えてくれと言われてたんだ。今になってしまったけど」
アルセンがそう言って肩を竦める。チャコールが顔を曇らせる。
「どうも嫌な感じがするんだよね。夢舞台亭でクレセントの従者が絡んだのは、アデリルを王女役の役者だと間違えたからなんだよ。王女が気に入らなくて、王女の身代わりに因縁をつけたように見えたんだよね」
「それなのに、王女に気に入られようとしているわけか」
「アデリルを嫌ってるなら、式典に出席だけして、これからラントカルドとお付き合いよろしくお願いしますって言えば済む話なんだよ。王室同士の交流を始めるのに、なにもクレセントが個人的にどうしても、アデリルに気に入られる必要なんかないんだから」
「僕はその従僕姿の女の方が気になるなあ」
「宮廷内で口説かないって、アデリルに誓わされたのに?」
「そう言う意味じゃないよ。男の野心の影には、往々にして女ありってこと」
「いくら形式的なものとは言え、王女のお披露目式に女連れで来てるのが明るみにでたら、非礼と扱われ二国間の交流どころの話じゃなくなるな」
「…だとしても僕はこの話、アデリル殿下に言わない方がいいと思う」
「おれも賛成。話を聞いたのがイオディンで良かったよ」
「俺もだ」
「式典は明日で終わりだしね。何事もなければそれで終わりだよ。クレセント王子が帰って、ラントカルドからなにか打診があったら、その時にまた考えよう」
チャコールが話を切り上げるように言い、他のふたりもそれに頷いた時だった。
「それは手遅れじゃないかしらねえ…」
背後からまったく予想もしていない、しかも聞き覚えのある声が聞こえてきて、三人とも同時に叫び出しそうなほど驚いた。だが、彼らは全員とても優秀な宮廷人だったので、口を絶叫のかたちにしただけで、声を上げるのを堪えた。
彼らが同時に声の方を見ると、そこには難しい顔をした盛装姿のアデリルが立っていた。
「アデリル、どうしてここに…」
チャコールがいちはやく、それでもかなり上擦った声で尋ねる。
「ここは私の控えの間よ? あなたたちがこそこそ話をしている方が、よっぽど不自然よ」
アデリルはやれやれ、と言ったように溜め息を吐いた。
「どこにいたんだ」アルセンが尋ねた。
「あそこ」アデリルは背後の浴室の扉を指さす。
「舞踏会は」
今度はイオディンだ。アデリルは溜め息を吐く。
「もちろん続いてるわよ。でも私だって、お手洗いに行きたくなる時はあるでしょ。ここへ戻ってきたら、フリアナがいなかったの。それでこの衣装でしょ。時間がかかちゃって」
アデリルは言った。くびれた腰からふわりと豪華に広がるスカート。張りと形を出すために、中に厚手の下履きを何枚も重ねていることを、チャコールやアルセンはもちろん、イオディンだって知っていた。
だからフリアナがこの場に待機してそれを手伝うのだが、少し前から彼女はいない。
なんのことはない、イオディンの使いでチャコールを呼びに行かせていたからだ。
「出ようと思ったら控えの間にイオディンが急に入って来たじゃない。他のふたりならまだしも、イオディンでしょ。なにも聞いてなかったからさすがに驚いたわ。声を掛けようと思ったら、今度はチャコールが入って来たの。それですぐ話し初めて、出るに出られなかったのよ。だけど浴室の扉、半分開いてたのに、あなたたちも気づかないなんて」
「アルセン、アデリルは広間だって…」
チャコールが険しい視線を向ける。
「僕のせいにするな」
「アルセンはご婦人方のお相手で忙しそうだったわよ」
アデリルがせせら笑いながら言った。
「向こうから誘って来たんだ。断れないだろ」
慌てたようにアルセンが言った。チャコールが溜め息を吐く。
責めても仕方ないことは、彼にもわかっていた。今夜は王女の親衛隊も踊りに加わる。まして、見栄えも愛想も申し分ないアルセンのことだ。昨日から彼の手を取るのを心待ちにする女性も多かっただろう。それに応えるのも王女の親衛隊として重要な役目だ。
「殿下、それじゃあ、全部聞いていたのか?」
イオディンが珍しく、おそるおそる伺うようにアデリルに尋ねる。彼女はもったいをつけて三人を順に眺めると、疲れの見えない輝くような笑顔を向けて、
「ええ、全部聞いた。そして今ものすごく腹が立ってるわ。あのクレセントって野郎にね」
「アデリル、言葉づかい…」
「相手に相応しい言葉を選んだのよ」
アデリルはつかつかと彼らの方へ歩みよると、笑顔をみるみる険しくさせた。
「アルセンの言ったこと本当よ。私、クレセントと踊ったわ。彼はちゃんと自分の非礼を詫びて謝ってくれて、他のことも少し話して、私は初対面の印象が最悪だっただけで、もしかしたらいい人なのかも、あの時はなにか事情があって、悪い出会い方をしただけなのかも、と思ってたわ」
でも、とアデリルは悔しそうな表情を浮かべ、両の拳を握りしめる。
「それは単なるあざむきで、イオディンの話が本当なら、私は見くびられてたってことよね。ちょっとにこにこして、耳障りの良い言葉を並べれば、このアデリルの機嫌なんてすぐに直るって」
「立ち聞きしたのは、ほんのわずかなことだ。男の返事はほとんど聞こえなかった」
なだめるようにイオディンが言ったが、アデリルは怒りに燃える瞳で彼を見た。
「悔しいのはあいつの目論みが成功しかけてたってことよ。私はまんまと感じのいい人だなんて思ってた。この私の国で、私の国民に非礼を働きながら、私に対しても無礼を重ねて、しかもそれを誤魔化そうとしてたなんて、そして他ならぬ私自身がそれに気づかなかったなんて、許せない!」
滅多に見せないアデリルの激しい口調に、三人の男たちは黙り込んだ。そして誰もが不注意に、広間にいると思いこみ、いるはずのないアデリルの耳にこの話を聞かせてしまったことを後悔していた。
けれど三人よりも、アデリルの方が冷静だった。少なくともその時はそう見えていた。
怒らせた肩を下げ、ふうと一息つくと、
「そうは言っても」と、三人を見渡す。
「あの野郎を呼びつけて今ここで叱責することもできないし、今夜の舞踏会は最後まで踊らなきゃ」
アデリルは苦笑しながらそう言った。すると三人はそれぞれ安堵の表情を浮かべる。
「そうだよ、アデリル。アトレイ王室と付き合いのない、影の薄い王室の王子の相手なんて、アデリルがするべきじゃないよ」
「その通りだよ、アデリル殿下。疲れも見せず美しい殿下が、明日には永遠に目の前から去る男のことなんか、考えるべきじゃない」
アルセンも彼女の前に進み出て、懇願するように言った。
「殿下、俺も慌ててチャコールに相談してしまった。クレセント王子が何か考えていたとしても、勝手な企みで、殿下を煩わせるようなことじゃないかもしれない」
「そうね。みんな私のことを心配してくれていたのよね」
アデリルは彼らの顔を順に見渡してから微笑む。
「あんな奴のことを気にするのは止すわ。少なくとも今夜はね。これからまたイオディンは警備に戻るの? チャコールは署名式の準備?」
イオディンが頷き、チャコールが言った。
「余計な心配させるようなこと言ってごめん。だいぶ疲れてると思うけど、残りの舞踏会楽しんで」
「わかってる。ちょうど良いからアルセン、私をエスコートして連れてってちょうだいな」
王女に言われるままに、アルセンは彼女の腕を取った。化粧直ししたアデリルが親衛隊の彼と一緒に広間に戻るのは、なかなか様になるだろう。
「ふたりとも、また明日ね」
アルセンに連れられたアデリルは、廊下で他のふたりと別れた。
そして彼女は再び舞踏会へ向かう。
別れ別れになった三人は一様に、怒りに燃えていたアデリルが思いのほか素直に自分の立場を思いだし、気を鎮めてくれたことにほっとしていた。つまり、三人とも自分の失態を上手く切り抜けられたと思いこんでいたのだ。
だから、誰も気づかなかった。
アデリルが笑顔の奥の胸の底に、強い強い怒りを燃え上がらせ、その炎が燃え続けていたことに。
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