<8>


 母の言葉どおり、夜の舞踏会でアデリルの最初の相手はレンデムだった。

 事前に聞かされていただけに、昨日のような動揺はない。それどころかクレセントのことが気になって、昼間も憂鬱になるほど思い出したりしなかった。

 けれどいざ彼が目の前に現れると、やはり心の奥がさざ波立つ。にこやかに、礼儀正しく、と自分に言い聞かせる。そうすると、少し気持ちが落ち着く気がした。そのままレンデムに手を引かれ、広間の中央で彼と向き合う。待つ間もなく、高らかに音楽が鳴り響き、ふたりは同時に足を踏み出した。

「昨日はハイドロに、この手を取られて悔しかったな」

 彼はそう言って、自分の手の中のアデリルの手を一瞬だけ強く握った。

「私は大助かりでした。今日もいろんな方に誉められたのよ。あれ以上の相手は望めないって。お世辞もあるだろうけど、私も同じ気持ちだわ」

「そうかな。久しぶりに顔を見たけど、体つきはだいぶ大人になったが、そのぶん雰囲気に品がなくなった気がしたけどな。王女の相手としてどうだろう」

「エンシェンのハイドロに、王族のような気品を求めるつもり? 普段の彼を知ってる私に言わせれば、昨日のハイドロはいつもよりずっと礼儀正しかったわよ」

「彼も婿候補に加えるかい」

「そんな言い方、ハイドロに失礼です。相手を務めてくれたのは、ハイドロのほうで許してくれたから。私が彼を選ぶ立場ではないのを、レンデムも知ってるでしょう」

「そういう物言いをすると、ますます彼がお気に入りのように聞こえるよ」

 ステップを踏みながら、にこやかな従兄の顔を見て、アデリルは溜め息を堪えた。

「お気に入りなら、ハイドロ以外にたくさんいます」

「まったく根も葉もない不名誉な噂だね。本当は違うのに」

「どうしてレンデムが違うって言えるの? 私が部屋に家臣の男の出入りを許しているのは事実なのに」

「アデリル」と、レンデムがわずかに顔を顰める。

「自分の身分を忘れちゃいけない。若い男たちにちやほやされるのは気分がいいだろうけど、結局彼らはアデリルの下僕にすぎないよ。自分のためを思うなら、本当に相応しい相手を選ばないと」

「お説教なら間に合ってるわ」

 従兄の言葉を遮るように、アデリルはつい強い口調で言って顔を背ける。視線の先に、クレセントが踊っているのが見えた。彼女の視線に気づいたように、クレセントがアデリルを振り向く。青灰色の目と目が合った。

「まだ怒ってるの?」

 従兄が耳元で囁くように言ったので、アデリルは先にクレセントから視線を反らす。

「なんの話?」

 不機嫌な調子を滲ませて聞き返すと、レンデムはアデリルの今までより強く抱き寄せた。

「可愛い従妹に疎まれて、僕は悲しいよ。誤解があるんだ。ちょっとしたすれ違いだったんだよ」

 思わず顔を顰めたアデリルは、レンデムの肩を押して身体を離した。

「疎ましくなんて思ってない。ただ、大人になっただけ。誰にでも愛想を振りまく王女なんて、お嫌いでしょう」

「僕にだけは、いつも可愛い気のある王女でいてほしいな」

「身分を忘れるなと、たった今、その口で言ったじゃない」

 自分でも口調が険しくなってきたのを感じて、アデリルは黙った。レンデムはかすかな笑いを浮かべて、からかうような目つきで彼女を見つめる。このままレンデムの調子に乗るのは嫌だと思い、アデリルは目を伏せて黙って踊った。

 ふと、視界の端に青灰色の影がよぎる。アデリルは顔を上げた。向こうはこちらを見ていないが、クレセントだ。いつの間にか音楽に合わせて近づいている。今日の装いは髪色に合わせた上下の揃いだった。誉めたくはないが、よく似合っている。列こそ違うが、今夜は昨日よりずっと彼との距離が近い。

「ねえ、レンデム。あなたなら、この場にいるどなたが私の夫に相応しいと思う?」

 アデリルは自分の手を取る相手を見上げて言った。従妹が再び口を開いたことに気を良くしたのか、彼は踊りながら一度周囲をぐるりと見回して、愛想良く笑う。

「この中に、アデリルに相応しい夫なんてひとりもいないよ」

「そうね、私もそう思う。でも、明日のために誰かひとりは選ばないと」

「いっそ僕の名前を呼んでみるとか」

 冗談めかした口調にアデリルは苛立ちを感じ、また顔を顰めそうになる。けれどその時、踊りの相手の肩越しにクレセントが横切るのが目に入った。そのせいで別の不愉快さがこみ上げて、レンデムへの苛立ちを掻き消した。

「祝いに駆けつけたと言うのは真っ赤な嘘で、レンデムは私を笑い者にしたいのね。それなら、あの人はどう? 斜め後ろの隣の列の、珍しい髪の色の人。私とだったら珍しい髪色同士で、お似合いでしょう」

 レンデムが彼女の視線の先を追う。斜め後ろ姿のクレセントが見えた。

「彼、見覚えがある気がするな。どこかの大使の息子だったか」

「残念、レンデムのお気に召すような身分の方よ。ラントカルドのクレセント王子」

「ラントカルド? 政府の関係者じゃなく、王子なんかを招いていたの?」

 クレセントを追っていた視線をアデリルに戻し、わずかに皮肉な笑顔を浮かべて、レンデムが言った。

「さあ? 招待したのか申し入れがあったのか、私にはわかりませんけど。アトラントとはほとんどお付き合いのない王室だし」

「止めた方が良い」

 鼻で笑うようなその態度に、アデリルは興味を惹かれる。

「なぜです? 悪い噂でも?」

「いいや、ラントカルドは豊かな国だ。アトラントとは商業的な交流も盛んだよ。ウェントワイトにも貨物船の出入りが多くある。ただ、王家の存在感が薄いんだ。王室は間もなく解体されるという噂も、ここ十年くらいずっとある。あの国はアトラントと違って、王室なんか必要のない国なんだよ。正式な国交を結ぶなら国家元首に打診するべきだ」

 レンデムの暮らす港町ウェントワイトには、アトラント最大の貿易港がある。彼はその仕事に携わっているのだ。

「それは私が決められることじゃないけど」

「でも、そんな影の薄い王子様に、我がアデリル殿下は心奪われたってわけだね」

 またも冗談めかしてレンデムが言った。アデリルは彼の態度に再び苛立つ。そんな彼女に気づかず、レンデムもまたクレセントに目を向けた。

「確かに見た目は悪くないね。女性が好きそうな顔立ちだ。アデリルもああいうのが好みなの? アトラントの次期女王にしては、良い趣味とは言えないな」

「私はちょっとした魅力があれば、どんな男性も好きになるわよ。男好きだから節操がないの。結婚している方とこれから結婚する方には、なんの興味も持てないけど」

「アデリル、またそんなことを」

「本当のことだもの。心にお留めおきくださいな」

 困り顔を作って見せたレンデムに、アデリルはにっこり笑って言い返し、それからはもう、彼とまともに口をきかなかった。話題を探してレンデムは何度かクレセントの悪口めいたことを言ったが、とうとう曲が終わるまで、会話が弾むことはなかった。

 従兄から解放され、平穏な気持ちを取り戻したアデリルは、そこから何曲か立て続けに、決まった順番で決められた青年たちと踊った。当然ながら、どの相手も王女に対してにこやかで礼儀正しく、話題は当たり障りなく、そして手が離れてしまえばなんの印象も残らない。アデリルにはそれもありがたかった。レンデムと踊った時の苛立ちと、クレセントを見た時の嫌な気持ちが、踊り疲れと相まって、だいぶ薄れてきたからだ。

 曲が終わり次の相手が現れるのを待っていると、傍らにレンデムが立った。その隣にクレセントがいるのを見て、アデリルは思わず、わずかにだが顔を強張らせる。

「アデリル殿下、どうか私の知り合いを、殿下の相手として紹介させてください」

 悪戯っぽい目つきで、レンデムが胸に手をやると軽く頭を下げた。アデリルは彼からクレセントへ視線を移す。クレセントは神妙な顔つきで、彼女の視線を受け止めた。

「レンデム様に紹介してもらう必要はありません。昼間すでにご挨拶しましたもの。そうですよね、クレセント様」

 にこやかな笑顔を向けると、クレセントも丁重に頭を下げた。

「覚えていただき光栄です。アデリル様」

 と、言って彼は顔を上げると、アデリルに向かって右手を差し出した。

「お許しいただけるなら、次の曲の間、その手を私に与える栄誉を」

 彼の言葉に、アデリルは一瞬固まった。しかし、すぐにレンデムの視線に気づく。その時には考える前に、クレセントの手を取っていた。

「許すわ」

 クレセントがもう一度軽く頭を下げ、彼女の手を握る。本来の順番の相手には、この曲の終わるまで辛抱してもらおう。アデリルはそう思い、クレセントに並んで中央へと進んだ。背後にレンデムの視線を感じたが、アデリルは胸を張ったまま、振り返らなかった。

 列に並び向かい合っても、視線は微妙に反らしたままだ。それでもアデリルはクレセントの手を握り、クレセントはアデリルの腰に手を添える。そして待つほどのこともなく、音楽が始まった。

「私の従兄が」

 アデリルは目を伏せたまま口を開く。その言葉で一瞬、クレセントの手に力が入ったのがわかった。彼も緊張している。アデリルはそれに勇気づけられ、顔を上げて彼を見た。

「あなたに何か言いましたか?」

 クレセントは決まり悪そうに、視線を反らしたまま答える。

「王女が私を見初めたと。踊りの相手として紹介したい、と」

 アデリルは思わず黙って溜め息を吐いた。クレセントとのことは、レンデムの知らぬこととは言え、これはずいぶんと皮肉な行為だ。

 クレセントに対する怒りは収まっていなかったけれど、かといってレンデムと謀って彼に踊りの相手をさせたと思われたくなかった。それで言った。

「従兄はあの晩のこと、なにも知らないわ。面白半分にあなたを呼んだのは確かだけど」

「本当に? てっきり…」

 クレセントが意外そうな目を向けて言ったが、言葉はそれ以上続かなかった。

「嫌な思いをさせられた相手を、わざわざ呼びつけてからかう趣味はない。むしろ私は、式典が終わるまで、あなたとは顔を合わせたくなかった」

 アデリルは念を押すように言った。その間にもダンスは続いている。彼は意外に相手役が上手い。アデリルが何も考えなくても、彼の動きに合わせて次のステップを踏んでいる。

「アデリル様」

 まもなくぽつりと、クレセントが沈みがちな声音で言った。

「二日前の晩のことを、お許しください」

「この状況で、どうやったら許せるっていうの? 昨日しらを切ったのに」

「あの場ではなにも言えません」

 クレセントは縋るような目で言った。答える前にアデリルは彼の手を借りて、くるりと一度ターンする。

「あの男はあなたの連れ? 酔っていたとは言え、どうしてあんなことを」

「それは…」

 クレセントが口ごもる。そこでまた一度、音楽に合わせて彼らは離れ、両手を繋いで向き合った。そして今度は彼が、遠慮がちにアデリルを引き寄せる。

「彼は私の従者です。実は…」

 クレセントは彼女の耳元で、低く押さえた声で話し出した。

 王女のロマンスを題材にした芝居が許されるほど、ラントカルドとアトラントでは王室の在り方が違うこと。それで気圧されたこと。国を出てくる時はアデリルに選ばれるつもりだったが、その自信がなくなってしまったこと。そしてつい、華やかな気配を纏うアデリル役の給仕に――それは実際にはアデリル本人だったわけだが――に、八つ当たりをしてしまったこと。それを聞いてもアデリルはまだ納得できなかった。

「それがあなただったらまだしも、なぜあなたの従者が?」

「彼は従者で、私の乳兄弟で、一番近い関係なんです。私がどういう気持ちでアトラントへ来たかもよく知っていて、心配してくれていたんです」

「見て見ぬふりなんて、ずいぶんですね。アトレイで騒ぎを起こすのは、あなたの不名誉でもあるのに」

「酔っていた、と言い訳するのは、許されるどころか、アデリル様をさらに怒らせるだけですね。それを忘れるくらい、自棄的な気持ちになっていたんです。反省しています」

 彼は神妙にそう言って、軽く頭を下げる。その態度に、アデリルは少し肩で息を吐く。

「アトレイ王室とラントカルドは、正式な国交がないでしょう。私と親しくならなくても、落胆する必要はないはず」

「アデリル様は次期女王のお披露目式に参加する客が、出席だけで満足して帰ると?」

「中にはそういう人もいるでしょう。でも、あなたは違うのね。クレセント様」

 彼は困ったような表情を浮かべてから、それでも頷いた。

「では、正直におっしゃってくださいな。私に許されたかったら」

「王女の式典に参加して、出来たら王女と親交を結び、アトレイ王室と繋がりを持ちたかったのです」

 アデリルは彼の顔を見て頷いた。イオディンやチャコールの言ったとおりだ。

 彼女は王女として王族の一員が、周囲に望まれ、時には自分の意志よりも立場を優先しなくてはならないことがあると知っている。だとすれば彼が、周囲からの期待感と、そのための緊張を背負ってアトラントへやって来たことも、容易に想像できる。

 そう思いクレセントを見つめながら、何を言おうか考えていると、彼がアデリルの手を握る力を込めた。そして曲の途中にもかかわらず、けれど踊りからは外れないように、アデリルに向かって深々と頭を下げる。

「でも、今はアデリル様に許されて、母国に帰れることを望みます。アデリル様、知らぬこととは言え、本当に無礼を」

 クレセントが顔を上げた。揺れる青灰色の目の奥は真剣だった。それでアデリルの心が動いたのは事実だ。彼女は頷く。

「では、その希望は叶うでしょう。確かに、相手が私でなくても、あなたのしたことは無礼で、あの晩、それをされた私のしたことは軽はずみだった」

 そう言うとクレセントの表情がわずかに明るくなる。アデリルは笑みを浮かべて続けた。

「だからあの晩のことを許すわ。クレセント王子」

 その言葉を聞くと、クレセントが笑った。心底嬉しそうな柔らかい笑顔で、この人にこんな表情をさせることができて良かったと、彼女も感じないわけにはいかない表情だった。

 踊りを続けなら、アデリルも思わず微笑む。

「大事な日の前日になにをしていたか、後ろ暗いのはお互いさまですね」

「私が無礼を働いた女性は、マデイラと呼ばれていましたよ」

「あら、ならやましいことがあるのは、あなただけかも知れませんね。クレセント様」

 そう言いながらふたりは微笑みあった。そしてクレセントが伺うように尋ねる。

「明日、署名式に出ても?」

「ええ、ぜひ」

 署名式に出るということは、王室との付き合いを認められると言うことだ。反省しているようだし、これだけ真摯に謝ってくれたのだ。最終日の明日くらい、気分良く過ごして帰って欲しい。その思いが伝わったのかのように、クレセントがもう一度笑った。

 間もなく彼との踊りは終わり、手が離れる。ただ、彼に背を向けたアデリルの気持ちは軽かった。やっと胸のつかえが取れた気分で、それから次々に別の相手にダンスを申し込まれても、気分良く踊ることができた。

 だから途中でクレセントの姿が広間から消えても、それに気づかなかったし、気にも留めなかった。


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