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 アデリルを祝福するのに相応しい青空と、誰にも心地よい気候の中、式典が始まった。

 招待客と出席者は合わせて三百人以上。午前中から昼過ぎにかけての宣誓式や昼食会が、宮廷の中で一番広い庭で進んでいく。式典場の中を歩く順序、両親と国民に向かって告げる誓いの言葉、付き従える家臣と着替える順番。祝福の言葉を受けた時の、相手の身分に応じた受け答え。それらを順にこなすアデリルは、昨晩の不愉快な出来事など、一度も思い出さなかった。陽のあるうちの式典は上首尾だった。

 夜の舞踏会までの休憩時間も、アデリルは休む間もない。慌ただしく食事し、舞踏会のために昼間とは大きく雰囲気の違う衣装に着替える。開始の時間が迫って来ると、彼女の心にひとつ、小さな不安が湧いた。彼女のための舞踏会で、最初に踊る相手はとても重要だ。下手に選べばどんな噂が立つかわからない。

 適役なのは歳の近い兄弟や従兄弟だし、彼らが勤めるのが一般的だ。父親や祖父のように歳の離れた相手だと、無難だが王女のお披露目式としての華やかさに欠ける。だから最初、レンデムに白羽の矢が立っていた。しかし彼は早い段階で式典には出席しないと言ったので、彼と踊ることはないと、アデリルはすっかり安心していた。

 それにアデリル自身は、踊りの相手の見栄えの良さなど気にしたこともなく、誰を選ぶかは家臣たちに任せきりだった。一、二度尋ねた時に「心配するな」と言われたくらいで、アデリルのほうも他の準備に忙しく、それきり忘れてしまった。

 だが、昨日になって急にレンデムが姿を現した。舞踏会の準備は他と同じく、前もって入念に進められている。いくら従兄とはいえ突然現れたレンデムが、まさか自分の最初の相手になることはないだろう。だが万が一にも彼だとしたら、今夜の主役に相応しく笑顔を浮かべ、気品のある態度で最初の二曲を踊りきる自信がなかった。

 やっぱりちゃんと聞いておけば良かった。不安の消えないアデリルは、しかしそれを緊張だと勘違いしたフリアナに励まされ、舞踏会の広間へと送り出された。

 昼間の太陽の下の、晴れやかだが厳粛な式典とは打って変わって、夜の広間には低く音楽が流れ、盛装した客たちが居並ぶ絢爛さがあった。

 待ち構えていたトライサが、アデリルの斜め後ろに立つ。間もなく王女に注目が集められ、後見役であるトライサの挨拶で、舞踏会が始まった。

 広間を見渡せる壁際で、アデリルは最初の相手が自分の前に現れるのを待つ。

 どうかどうか、レンデムではありませんように。固い面持ちでそう願っていた彼女の前に、脇から進みでてきたのは意外な人物だった。

「アデリル様、最初の二曲を踊る栄誉を私に与えてくださるなら、どうぞお手を」

 そう言って手を差し出したのはハイドロだった。彼は一瞬だけ、アデリルだけにわかるように悪戯っぽく笑って見せる。そしてすぐに真顔に戻った。

 アデリルは安堵と嬉しさで思わず声を上げそうになり、口の中でなんとか押し殺す。

 ハイドロは昨晩のだらしない服装とは違い、きちんと正装していた。炎の色の長い髪も左右の耳の上で何本にも細かく編み込み、それを後ろでひとつにまとめて結っている。これはアデリルにもわかる、エンシェン族の正装だ。

 彼のその容姿から、エンシェン族だと判らない者はこの場にはいない。エンシェン族は王室に出入りしているが、政治的な駆け引きとは無縁だ。王女の最初の相手として、余計な邪推を生まない点ではうってつけだった。

 さらに正装したハイドロはずいぶん見栄えが良かった。アデリルの相手としてはやや背が高すぎるが、体つきも立ち姿も申し分ない。アデリルはほとんどだらしない格好の彼しか知らないので、余計にそう感じるのかも知れない。

「許すわ」

 一気に気持ちが楽になり、アデリルは笑顔を浮かべた。そして自分の右手を差し出す。

 ハイドロが相手なら、ステップを間違えてもいいし、無理に笑顔を浮かべなくてもいい。疲れたと弱音を吐いてもいいし、黙っていたければいくらでも黙っていていいのだ。

 トライサがチャコールの名まで出して、最初の相手は心配いらないと言った時に気づくべきだった。そう考えながら、アデリルはハイドロに自分の手を預けた。

 ふたりは広間の中央へ進み出て先頭に立った。それを合図に次々と踊りの組が集まって来る。ハイドロがアデリルの手を取り、もう片方の手を彼女の腰に添えると、ふたりの顔が近づく。それでぐっと声を落として、アデリルは言った。

「ハイドロが来るなんて驚いた。昨日言ってくれれば良かったのに」

「そのつもりだった。でも昨日、アデリルが余計なことをしたんで言うのを忘れた」

「他の家臣も教えてくれなかった」

「俺が直前まで来るか来ないか決めなかったからな」

「この借りは高くつくわね」

「チャコールとキリエール家に返してもらうことになってる。アデリルは気にするな」

「あら、じゃあ遠慮なく」

 ふたりで笑い合った時、広間に音楽が鳴り響く。

 ハイドロに手を引かれて、アデリルは足を踏み出した。音楽に合わせて広間を一周し、それから向かい合う。相手がハイドロのせいか、足取りも軽い。

「今のうちに練習しておけ」

「望むところよ。この一週間の特訓の成果を見せるわ」

 得意げに微笑みながら、アデリルはハイドロの手を借りて、くるりと優雅にターンする。

 アデリルは一週間の特訓が無駄ではなかったことを知った。必死で次のステップを思い浮かべなくても、足が勝手に動く。一曲目が終わる頃には気持ちも身体もずいぶんと軽くなり、アデリルは改めて笑顔を浮かべてハイドロと向き合った。

「ハイドロがここまで私に親切にしてくれると思わなかった。こういう集まり、好きじゃないのに。チャコールはどんな取り引きをしたの?」

「取り引きだなんて、人聞き悪いな。アデリルはチャコールの大事な友人だろ。俺もたまに役に立つさ」

「本気で言ってるの? 最初に会った時、ハイドロは私のことなんか嫌いだと思ってた」

「今でもそうだ。俺はチャコールに好かれてる奴はみんな嫌い」

 アデリルはわざと大袈裟に顔を顰めて、ハイドロの足を踏もうと足を突き出す。ハイドロは彼女の手を取ったまま、華麗な足捌きでそれをかわした。

「ハイドロ、ありがとう。私のことが嫌いでも、今夜のこと本当に感謝してる。ハイドロが相手なら、おかしな噂も少ないだろうし。この二曲が終わっても、疲れてきたら多少ステップを間違えてもいいやって気持ちになれた。ハイドロのおかげよ」

「大事な時に素直になれるのは殿下の良いところだな」

「チャコールにも、同じようなこと言われたことあるわ」

 一曲目が終わり、列の並び方を変えて、二曲目が始まる。今度は列が交差するように動き、入れ替わっていく曲目だった。彼らは注目を浴びながら黙って踊っていたが、何度目かに列が入れ替わった時、アデリルがハイドロの肩越しに目を見開いた。

「ちょっと、ハイドロ」

「どうした」

「あの男! 昨日の男!」

 アデリルはハイドロの耳元に顔を寄せて囁く。

「次のターンの時、二列目の左の方を見て。昨日の男がいる」

「嘘だろ」

 ハイドロも眉を顰めた。手を取ったまま距離を取り、アデリルはくるりとスカートの裾を翻してからハイドロの前に戻る。目を上げると、ハイドロが小刻みに頷いた。

「私の見間違いじゃないわよね」

 次のステップでさらに列と列の間が近くなる。そうは言っても間に一列挟んでいるが、さっきより近い。間違いない。顔はよく見えないが、青灰色の髪色と、体つきでわかる。当たり前だが昨晩よりきちんとした正装姿で、舞踏の列の中にいると彼の姿は人目を引いた。見た目がもっと目立たなかったとしても、見間違えたりしなかっただろうけれど。

「招待客がよりによって昨日、あんな場所にいるなんて」

「それをアデリルに言われたくないだろうな」

「私はいいの、主役だから。ねえ、本物の招待客だと思う? それとももぐりこんだのかしら」

「今日は厳戒態勢だぞ。運良くもぐりこめたとしても、よほど図々しくなきゃこの場に立てない」

「だとしたら、招待客名簿に載ってるはずよね。調べればどこの誰だかわかるはず」

「何する気だ」

 笑って相槌を打っていたハイドロが、どこか嫌そうな表情になって聞き返す。

「このままじゃ気が済まない。私に無礼を働いた者が、私の舞踏会に涼しい顔で紛れ込んでるのよ」

「ほっとけ、相手にするな」

「誰だか調べる必要はあるでしょう。下手したらあいつと明日、正餐会で挨拶するのよ。それに明日の夜には踊るかも」

 ハイドロが溜め息を吐き、返事がないまま黙った。なんとなく気詰まりで、しばらくお互いに目を反らして踊り続ける。その間にもアデリルは昨晩の青年の方へ、何度か視線を向けた。彼女から離れている青年は、アデリルを見ようともしない。

「チャコールに話しておく。調べるのはそっちに任せて、アデリルは時間までちゃんと、主役としてこの場にいろよ」

 二曲目の終わりかけに、溜め息混じりで不本意そうにハイドロが言った。ダンス中に忙しなく視線を動かし、特定の男の姿を目で追ったりするなと言うことだ。

「ハイドロは?」

「俺はトライサを送ることになってるから付き合えない。返事は?」

「わかった。ちゃんと王女の務めを果たすわ」 

 曲が終わり、ハイドロと離れたあとは、次々に来る申し込みを受けた。もう今夜は誰と踊っても良い。今夜のうちにアデリルと少しでも近づきになりたい者が寄ってくる。

 誰から申し込みを受けるか予想もできなかったアデリルは、そのせいで舞踏会の始まる前まで緊張していた。だが今では同じ部屋の中に昨晩の青灰色の髪の男が、自分を不愉快にさせた相手がいるのかと思うと、目の前の相手に集中し続けることが難しかった。

 それでもハイドロの言葉を思いだし、ぐっと堪えて、次々変わる相手に作り笑顔を浮かべてやり過ごす。

 最初の音楽を聴き、間に何度か休みを取りつつも、踊り続けて二時間と少し。

 明日に備えて休むと言っても無礼に思われないぎりぎりの時間が経ってから、アデリルはそこからさらに時間を掛けて来客に挨拶し、それからやっと広間を抜け出した。

 人目がなくなるとスカートの裾をからげて、ほとんど駆け出さんばかりに私室へと急いだ。向かったのは化粧室でも寝室でもなく、アデリルが私用に使う応接間だ。

 扉を開けてもらうのを待つのももどかしく、彼女は部屋の中に飛び込んだ。

 中央の長椅子の上にチャコールが、脇の一人掛けにイオディンが座っている。アルセンはまだ広間で仕事中だ。ふたりは同時にアデリルに視線を向けた。彼らの傍に椅子を寄せていたらしいフリアナが、慌てて立ち上がって近づいてきた。

「アデリル様、チャコール様から伺いましたよ。昨日、危ない目に遭ったそうじゃないですか。いくらチャコール様とハイドロ様が一緒だとは言え、勝手な行動は慎んでくださいと、あれほど…」

「危ないとまでは行かないわ。不愉快だったのは確かだけど」

 フリアナの言葉を遮って、アデリルは続けた。

「でも軽はずみだったのも確かだと思う。反省してるわ。フリアナにも心配かけてしまったし、ごめんなさい」

「…自覚があるならいいんです。アデリル様のことは、信用していますから」

 素直に頭を下げた王女に、フリアナは呆れながらも笑顔になった。

「ありがと、フリアナ。それで今、その不愉快な思いをさせた奴を探してるのよ。見つかった?」

 先ほどからアデリルに視線を向けていたふたりが一度顔を見合わせ、それからチャコールが肖像画を一枚、彼女に向かって掲げて見せた。

「この人じゃない?」

 近づいたアデリルは息を飲む。肖像画に描かれているのは正装した若い青年だ。その姿は昨日の無礼な男によく似ていた。

 ただ描かれた彼は唇に優しい微笑みを浮かべているので、自分の知る印象とはまったく結びつかなかった。それだけじゃない。肖像画がここに届けられているということは。

「ラントカルド王国のクレセント王子だ」

 イオディンが手にした書類を読み上げるように言った。アデリルは声にならない悲鳴の形に唇を歪め、それから思い切り顰めた顔をイオディンに向ける。

「やっぱり招待客で間違いないってこと?」

「アデリル様、せめて座ってお話しください」

 イオディンの椅子の背にしがみつきそうな勢いのアデリルを、フリアナがやんわりと引き離す。彼女はチャコールの隣、イオディンの正面に腰を落ち着けた。

 イオディンが手にしていた書類を差し出す。招待客一覧のリストと、その中から何名かぶんの詳しい釣書だ。同じものをアデリルも、お披露目式の前に散々読まされ覚えさせられている。肖像画もだ。けれどぴんと来なかった。書類の右上に、よく見ると青い線が引かれている。優先順位が低く、覚えるのを後回しにして良いという印だった。

「ラントカルド王国の王子クレセント・カルド。現国王の孫で、王位継承権は成人するまでない…? どういうこと? 本当に王子なの? 王族ってだけじゃなく?」

「ラントカルドの王室は、血筋より民意に左右されるらしい。成人した王族は議会と国民投票にかけられて、その結果で王族として王室に残れるかどうか決まる。王位継承権が発生するのはその後だ。一度発生した継承権も、国民の支持を失えばすぐに消滅するそうだ。アトラントの王室とは、かなり違うな」

「ずいぶんややこしいのね。そんな王族かどうかも覚束ない王子が、お披露目式に来るのは良いとして、なぜその前日に酔っぱらって、店の給仕に絡んだりするの?」

「その理由はわからないが、ラントカルドとアトレイの王室は、儀礼的な書面の付き合いだけで、目立った交流はないだろ? 穿った見方をするなら、これを機会にアトレイとの正式な国交を結ぼうとしているのかも知れない」

 イオディンが説明した。アデリルは首を傾げる。

「だったら大使を立てて、お父様の方へ行ったらいいんじゃないの?」

「正式な大使を立てる名目がないのかも知れない。下手に出ていると見られるのが嫌なのかもしれないし。まあ、全部推測だけど」

「だから、こう言っちゃ悪いけど、あまり重要じゃない王子をアデリルのお披露目式に参加させてるのかもね。上手くやればいきなり次期女王の夫の座が転がりこんできて、繋がりができるかもって」

「なら最初から大失敗よ」

 チャコールの言葉に、アデリルは思わず鼻白んだ。

「だけど殿下、仮にも王族だから明日の正餐会の時には必ず顔合わせして、挨拶するはずだ。相手は殿下のことを知ってるのか?」

「ああ、そうだった…」

 一日目がアデリルの式典日なら、二日目は来賓をもてなす日だ。最も、もてなし方でアトラントの威信を見せるという重要な日ではあるが。

 昼からの正餐会では、来客たちが次々にアデリルに紹介される。従来どおり婿取りの場でもあると考えるなら、昼間に目をつけた殿方と、夜の舞踏会で踊るのだ。今日は姿を見掛けただけの王子とも、明日は正面から顔を合わせることになるだろう。

「クレセント王子が私に気づいてないってことが、あると思う?」

 チャコールとイオディンは一瞬顔を見合わせて、同時に首を横に振った。但し、イオディンはゆるく、チャコールは強く。

「顔を合わせてた時間がどのくらいかわからないが、チャコールの話を聞く限り、よっぽどのぼんくらじゃない限り、気づいてると思う」

「アデリルが髪を下ろしてたところも見てたしね」

「どんな顔をして会ったら良い?」と、彼女は小さく溜め息を吐く。

「アデリルは堂々としていなよ」

「でも、お披露目式の前の晩に、町の店にいたところを知られてる」

「それはお互い様じゃない」

「店から追いだしたのを逆恨みしてるかも」

「王子だろうとなんだろうと、あの店に相応しい客じゃなかったからね」

 チャコールが鼻息荒く言った。

「そうだ、殿下。昨晩のことは明日の朝、アルセンにも伝える。クレセント王子の態度におかしなことがあれば、アルセンに」

 王女がお披露目式の前日に城下町の、飲んでいないとは言え酒を出す店で遊んでいたことが、多くの人に知られるのは得策ではない。アルセンは今夜の舞踏会に最後まで参加している。そのせいでこの場に加われないのは残念だが、イオディンが言うなら上手くやってくれるのだろう。親衛隊は明日の正餐会でも、王女に一番近い場所に立つ。

「近くにアルセンしかいないなんて、心細いわ」

「さすがに明日、招待客をかき分けて王女に近づくわけにいかないからね。でもおれもイオディンも、同じ会場にいるから心配しないで」

 チャコールの言葉に、イオディンもわずかに笑って頷いた。

 部屋の時計が十一時を打つ。痺れを斬らしたようにフリアナがアデリルに、もう休むように伝える。身につけた衣装も、舞踏会用の華やかで立派なのを着たままだ。

「イオディン、チャコール、ありがと。明日も頼りにしてるわ。ハイドロにも、今日はありがとうって伝えて」

 彼女はそう言って、部屋を出て行くふたりを見送った。


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