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閉じたカーテンの向こうで、日もとっぷり暮れた頃、アデリルはようやく自分の部屋でひとりになってほっとしていた。あっというまに過ぎてしまったトライサとのお茶の時間の後、最後の下準備で臣下に連れられ式典の会場をひとめぐりし、その後は国王夫妻との晩餐。そこで上がった話題は気安い家族の談笑というより、式典のための打ち合わせの続きといった方が相応しかった。
テーブルには従兄のレンデムの姿もあった。両親も彼の訪れは意外だった様子で、それでもふたりはレンデムがアトレイへ戻り、娘のお披露目式に参加することを喜んでいた。
食事の後に引き留められたが、アデリルはそんな気分にならず早々と自室に引き上げていた。昨日までなら夕食後、なにかとすることがあったが、式典の前日の今夜ばかりはひとりで心静かに過ごすことができた。
時計を見る。休むにはまだ早い。身体は疲れているが、心はなんとなく落ち着かない。
「アデリル様。今日も一日お疲れでしたね。今のご気分はいかがです」
隣の部屋からフリアナが顔を出す。アデリルは傍へ来るように手招きし、座ったまま彼女を見上げた。
「自分でもよくわからない。緊張してる気もするし、なるようにしかならないって気もするし。フリアナは明日もずっと傍にいてくれるのよね」
「もちろんですよ。着替えのお手伝いは私でなくては務まりませんからね。ただ、私は式典場には出られませんよ。裏方ですから、表舞台はアデリル様が立派にやってくださいね」
「最後の署名式の時はこっそり見に来てよ。後ろのほうにいればわかんないわ」
「そういう問題じゃないんです。三百人の参列者の真ん中で、アデリル様が王室の一員として祝福されているところなんて見たら、私、幸せのあまり気が遠くなりそうで。私が突然倒れて式を台無しに、なんてことになったらいけませんからね」
「大袈裟ね」
アデリルは笑って立ち上がると、、この三年間自分に愛情を注いでくれた、母親より年上の世話係を抱きしめた。離れると、フリアナは優しく尋ねる。
「眠らなくても横になりますか? お茶をお持ちしても良いですし、夜着になるならお手伝いしますよ」
「まだ、寝る気分でもないし…、フリアナ、ちょっと話相手になってよ」
そう言うとフリアナは困ったような表情を浮かべる。なにか不満なのかとアデリルは思ったが、彼女はわずかの間迷ってから、懐から紙切れを取り出した。
「お見せするか迷いましたが、今夜に相応しい話相手は私じゃないかも知れませんよ」
アデリルに手渡された紙切れには、走り書きがしてあった。アデリルは目を瞠る。そしてこれを寄越したフリアナに視線を向けた。彼女はわざとらしく顔を顰めて、
「日付が変わる前に、戻ると約束してくださいね」と、言った。
アデリルは頷く変わりに笑顔を返した。
「チャコール、ハイドロ!」
暗闇の中に浮かんだ人影に、アデリルは小走りに近づいた。彼女は今、町娘の普段着のように飾り気のない服を身につけ髪をまとめ、頭からは薄手の肩掛けをかぶっている。
「アデリル?」
「俺が呼んだ」
「ハイドロが?」
チャコールが傍らの青年を見上げる。アデリルはふたりの前に立った。青年はチャコールより頭ひとつ分背が高い。宮廷の裏門近くの薄暗いこの場ではよくわからないが、褐色の肌に燃えるような炎色の髪を長く伸ばした、エンシェン族と呼ばれる一族の青年だ。長い髪を無造作に結い、雑多な下町で見かけるようなだらしない格好をしている。隣できちんとした身なりでいるチャコールとは対照的だ。ただ、彼にはそれがよく似合っていた。
「ハイドロ、戻ってたのね」
久しぶりに見る姿に、アデリルは思わず頬を緩めて彼を見上げる。
「今朝着いた。アデリル殿下のお披露目式にはぜひ参加するように、キリエール一家に泣きつかれて」
ハイドロはそう言って肩を竦めると、切れ長の目を細めて笑った。
彼はこの国の生まれではなく、エンシェン族は国を持たない。彼らは各国で王侯貴族の使う高地竜の住処の傍に集落を作り、竜を手懐け、世話する技術を持つ一族だ。高地竜はアトラントのような平地では長く生きられない。だがその迫力は空軍の華だった。明日の式典の開会の時も、祝砲と共に高地竜が空中を旋回することになっている。そのうちの一頭に騎乗するのがイオディンだ。
契約相手のために、平地に下ろした高地竜にできるだけ負担が掛からないよう世話をし、目の濁り方と鱗の色の微妙な変化を見分けて、竜が弱り始めたら高地に連れ戻し、別の竜と入れ替える。アトレイでその仕事にあたっているのが、若干二十一歳のハイドロだ。
高地竜は一頭世話するだけでも莫大な金がかかる。その他に貸出料や世話代としてエンシェン族は金を取る。その金額は各人の采配に任されていて、つまり交渉次第ということだ。そのために多くのエンシェン族は宮廷や、或いはそれと同じような場所に滞在を許され、手厚いもてなしを受ける。だが、ハイドロは違った。
前任者からこのアトレイを引き継いだ五年前から、彼はずっとキリエール家の客になっている。こうなった詳しい経緯をアデリルは知らない。チャコールもハイドロも話さない。 アデリルが知っているのは、キリエール家はハイドロを歓迎し、ハイドロの方でもキリエール家のことを気に入っているらしいこと、それだけだ。
「式典に参加してくれるの?」
「朝からはお断りだ」
「だったらせめて二日目の舞踏会に顔を出してよ。じっとしてる式典は嫌いでしょ。明日名簿に、こっそり名前を足すよう言っておくから」
「直々のお誘いとは名誉なことで。でも堅苦しい場所は遠慮しよう。気が向いた時に顔を出すさ。入れなかったらそれまでだ」
ハイドロはアデリルに向かってぞんざいな口を聞く。これはエンシェン族が国を持たず、独自の規律で生きる一族だからというよりも、ハイドロの性格だ。彼はいつでも、ひとりの女性に払う以上の敬意を、アデリルに向けたことがない。
「ハイドロ、明日はアデリルの大切な日だよ。こんな時にアデリルを誘うなんて」
「そう言う自分はどうなんだ」
厳しい目つきで言ったチャコールに、ハイドロはからかうような視線で答える。
「おれは良いんだよ。式典の時も端っこにいるだけだから」
「同じ場所よ。中央も端も、大差ないでしょ」
「おおありだってば」
「緊張してるのはお互いさまなんだろ。どっちが多く緊張してるか決めるなんて意味ないし、だったら遊んで忘れて早く明日になった方がいいんじゃないか」
ふたりの間に、ハイドロが気楽な調子で割って入る。
「ハイドロ、そんな簡単に…」
「ここで言い合いしてると、遅くなって店に入れなくなるぞ、チャコール」
チャコールが言葉を止めた。彼は渋々と言った表情で、薄く笑っているハイドロを眺め、それからアデリルの方へ振り向いた。
「これから『
「私のお披露目式の前日に、そんな場所で夜遊びするなんて」
アデリルが頬をふくらませると、チャコールも意地悪く笑った。
「お気に召さないなら、お部屋へお戻りください、アデリル様」
「行く!」
彼の言葉を遮って、チャコールの腕にしがみつく。ハイドロが笑った。
明日からの三日間がアデリルにとって特別なもので、そしてチャコールとハイドロが一緒だと知っているからこそ、フリアナは彼女を送り出してくれたのだ。
久しぶりの城下町は、繁華街にたどりつく前にすでに賑やかな空気に溢れていた。日が暮れているのに、通りには人が溢れ、道なりに薄明かりを放つ提灯が並び、夜のアトレイを賑やかに照らしている。
「お祭りの時みたいね、なにかあるのかしら…」
半年前から始まった明日への準備は、この一ヶ月でいよいよ大詰めを迎え、アデリルは町に出る余裕がなかった。知らない間に変わった町の様子に、彼女は思わず言葉を洩らす。
だが、ハイドロとチャコールは顔を見合わせ、次に同時にアデリルを見た。
「だから、王女のお披露目式だろ。マデイラ」
「そうだよ、マデイラ。今朝、新聞を読んで聞かせたじゃん。世間知らずだねえ」
「ああ、そうか。そうだった…」
言われて自覚し、アデリルは思わず頬を押さえた。ふたりが笑って、アデリルを促す。
夢舞台亭はアトレイの城下町でも人気の店だ。通りをひとつ挟んで劇場を背に建っている。夢舞台亭の給仕たちは、その劇場でかかっている演目の役柄の衣装で給仕するのだ。しかも半年前から劇場の目玉は『王女の秘密と婿探し』という演目だった。
題材はさる国の王女のお披露目式と婿選びで、これがなかなかの人気ぶりなのだ。
公言されていないが、誰でもわかる。主役のモデルはもちろんアデリルで、この演目は明日のお披露目式を見越して作られた。
筋書きはいたって単純、お披露目式で各国の王子に次々と求婚される王女。彼女に密かに想いを寄せる三人の見目麗しい家臣、つまりチャコール、アルセン、イオディンがモデルだと思われる若者たちが、三日の間にライバルを牽制し、王女に想いを打ち明け、式典の最終日を飾る署名式の終わりに、一堂の前で彼女の口から想い人として将来の夫に指名され、めでたしめでたし、というものだ。そこに演出として歌や踊りが加わる。
もちろんアデリルを初め、登場人物の名前は全員変えられているし、立ち振る舞いや性格付けは、いかにも宮廷から聞こえてくる噂話のかき集めだった。脚本家は本人たちを知りもしないだろう。
それでも王女のお披露目式を見越して上演が始まったのと、役者たちは一流なのとで、この演目は当初からなかなか好評だった。三ヶ月の公演予定が半年に延びた時、劇場側はいっそお披露目式の当日までこの公演を続けてしまおうと考えたらしく、策を打った。
当初はチャコールとおぼしき若者と結ばれる筋書きだったのに、後からアルセンとイオディンと結ばれる版を付け足したのだ。結末が違うと言っても急ごしらえ、最初の筋書きをわずかに変更しただけの脚本だが、これが当たった。
評判は評判を呼び、そしてこのお披露目式のための観光客が増えるこの時期まで、劇場は大にぎわいだった。そして上演中の演目がそれということは、夢舞台亭の給仕たちも今、舞台に立つ役者を同じような宮廷人の格好で、働いていることになる。
「私は世間知らずだけど、ハイドロもチャコールも物好きね。宮廷から出て、わざわざ作りものの宮廷に行くなんて」
わざと嫌みっぽく言ったが、アデリルには彼らの気持ちもわかる。
以前まったく別の演目がかかっている時に夢舞台亭に行ったことがある。その時は海の真ん中で朽ち果てた大型船の客室を模した席の間を、亡霊のような衣装をつけた給仕たちが、青白い照明の下で動き回っていた。演目は『幽霊船』で、舞台のつづきのような日常ばなれした場所で食事をするのは、とても楽しいひとときだった。
アデリルたちの暮らす実際の宮廷と、舞台の上、そして夢舞台亭の中に作り上げられた宮廷は別物だ。明日の式典のことをしばし忘れるには、うってつけの場所だった。
それにアデリルもチャコールも、芝居のことは知っているが、実際に観たことは一度もない。自分たちがモデルだと話題に上ることはあったし、興味もある。ただ、アデリルの式典準備に忙しく、実際に観劇するまでには至らなかった。
ハイドロが一応、本日の最終公演の切符を見に行ってくれたが、ずっと早い時間に売り切れていた。
「誰と恋する回だった?」
夢舞台亭に向かって歩きながら、アデリルはハイドロに尋ねる。
「今日の最終はチャコールだ」
「観ずに済んでよかったわね」
笑いながら通りを渡り、彼らは夢舞台亭に着いた。入り口も混み合っていて、どうやら入れずに肩を落として帰る客もいるようだ。
彼らは裏口に回り、支配人を呼んでもらう。出てきた彼はチャコールの顔を見ると、丁重に挨拶した。チャコールの叔母、つまり母の姉は大の芝居好きで、店の後ろに建つ劇場への寄付者であり、この店の大口の出資者のひとりだった。
叔母の名前で席を取るよう頼んであったが、彼は恐縮しながら、明日を控えて今夜はいつにも増して混み合っていて、視界の悪い隅の席、この店で一番悪い余りもののような席しか用意できない、と言われてしまった。
けれど本物の王女連れの彼らには、これはむしろ好都合だ。一も二もなく頷いて、彼らは裏口から店に入り、席に通された。広間の隅のボックス席の奥にアデリル、隣にチャコールが座り、向かいにハイドロが足を崩してだらしなく座る。彼らから最も遠いところで楽隊が、会話の邪魔にならないほどの大きさで音楽を奏でていた。
給仕たちは男も女も皆、もっと安物だが舞台で使われている衣装と似た服に身を包んでいる。この店は劇場と経営者を一部同じくしていて、彼らの多くは近い将来舞台に立つことを夢見る俳優の卵だ。
宮廷人の衣装をつけた若い男が、アデリルたちのテーブルにやってきた。ハイドロが飲み物や料理を適当に注文する間にも、アデリルとチャコールは席から身を乗り出して、宮廷の広間を模した客席の間を行き来する給仕たちを眺めていた。
「ねえあれ、アルセンじゃない?」
チャコールに身を寄せてアデリルは言った。親衛隊の衣装をつけた給仕が空の盆を持って歩いているのだが、すれ違う女性にいちいち立ち止まり、愛想を振りまいている。
「だとしたら、けっこう雰囲気出てる」
「あの人はエイゼル卿? だいぶ若いけど、本人よりずっと感じが良いわ」
アデリルとチャコールがひそひそ話をしていると、最初の飲み物が運ばれてきた。
再び姿を見せた若い男が宮廷人役なのはわかる。ただ芝居を見ていないので、誰を元にした、どの役なのかがわからない。
「あんたは誰役?」
杯に酒を注がれながら、ハイドロが気楽に尋ねた。
「エセル役です」
「知らないなあ」
「舞台は観てませんか」
「切符が取れなかったんだ」
苦笑したハイドロに、ボトルの注ぎ口を拭きながら、給仕の青年は軽く笑う。
「お客さん方は旅行者? 王女のお披露目式のおかげで、演目は大ヒット。切符は遅くても二ヶ月前に予約しとかなきゃ」
「その通りみたいだな。見込みが甘かった。その殿下役はどこに?」
「リリエラ王女は給仕して回らないんです。一時間ごとに客席の間を探し歩くんです。誰か良い婿はいないかってね」
彼が片目をつぶって悪戯っぽく言った。ハイドロとチャコールは同時に笑い出したが、アデリルは憮然としていた。
「ありがとう。また呼ぶ」
ハイドロは丸めた紙幣を指に挟んで彼に渡した。彼は素早く受け取ると、
「ご贔屓に」と、言って席を離れる。
薄暗い席でしばらく行き交う給仕たちが誰なのか当てたり、食事をしたり喋ったりして過ごしていると、少し大きく音楽が鳴り響いた。店の中で一番悪い席なので、誰かが何かを言っているのが遠くに聞こえるだけだ。チャコールとアデリル、そしてハイドロも他の客と同じように、声の方へ目を向けた。すると遠くに見える広間の先に、王女役が現れたのが見えた。大袈裟に巻いた赤紫色の毛のかつらをかぶり、きらきら光る硝子玉をたくさん縫いつけた、やたらと華美な衣装を身につけているので、それとわかる。
彼女は侍女役に付き従われ、ゆっくりと客のテーブルを巡り歩き始める。声を掛けて心付けを渡されることもあったし、あまり関心のなさそうな客のテーブルには、もちろん近寄らず通り過ぎるだけにする。
次第に近づくにつれて、アデリルたちのテーブルからも、彼女の姿がはっきり見えるようになる。王女役はつんと取り澄まし、それでも背筋の伸びた姿で通路を歩いていた。
「あんな爆発したみたいな髪じゃない。あんなドレス持ってない。あんな侍女いない。それに、あんなに冷たく気取ってない」
アデリルが不服そうに言うと、それまでリリエラ王女とアデリルを交互に眺めて笑いを堪えていたハイドロが吹き出した。チャコールもつられて笑い出す。
「あれはアデリル殿下じゃなくて、リリエラ王女だそうだよ。マデイラ」
「でも、モデルは私でしょう? 芝居を見た人の印象が悪くなるわ」
「もともと印象が悪いから、リリエラ王女があんな感じなんだろ」
「でも綺麗な人だよ。ほら、美人って評判は保たれてるよ」
確かに、近づいて来た王女役は端正な顔立ちで、アデリルとは違う細面だ。それが余計に冷たい印象を与えている。とても十七歳には見えないのと、化粧が濃いのは仕方ない。
王女役がテーブルの傍に来ると、ハイドロが指を動かし彼女を呼んだ。チャコールとアデリルは一瞬責めるような視線を彼に向けたが、ハイドロは意にも介さない。
アデリルはストールを頭に巻き直すと、席の奥に沈んだ。
「リリエラ殿下、ご機嫌麗しゅう。相応しい婿殿は見つかったか」
ハイドロは調子良く彼女に話しかける。王女役は彼から順にテーブルを眺め回して、微笑んだ。笑うと表情の冷たさが消え、幼く見える。その笑顔はなかなか魅力的だった。
「今夜は素敵な殿方ばかり。目移りして、ひとりに決められそうにないわ」
彼女は王女になりきった優雅な口調でそう言って、扇を口元に当てる。
「婿を決めるにはまだ早い」
ハイドロはそう言って、テーブル付きの給仕にしたように畳んだ紙幣をそっと差し出す。
リリエラ王女は扇の端にそれを挟むと、左手を差し出した。ハイドロは触れるか触れないかで手を取ると、甲に口づけする真似をして離した。
「ごゆっくり」
最後に一瞬だけちゃんと店の給仕の顔になり、王女役が去っていく。
「笑うと雰囲気変わるね」
「男好きの噂を忠実に守ってるな」
チャコールとハイドロが、アデリルを振り返って言った。
「確かに彼女は悪くはないけど、王女役ならもう少し親しみのもてる態度でいてほしいわ」
アデリルが苦い顔でそう言うと、チャコールとハイドロが同時に笑った。リリエラ王女が広間から消えた後も、心付けを渡した客のために、客席の間で繰り広げられる短い寸劇を見たり、てっきりイオディン役だと思って呼んだ給仕が全然違う役だったり、食事をしたりして時間が経っていく。
「ちょっとお化粧直しに行ってくる」
アデリルがそう言って立ち上がると、チャコールも一緒に腰を浮かした。
「お店の中だし、ついて来なくても大丈夫よ。すぐに戻るから、ここにいて」
彼女はそう言って、チャコールの返事を待たずに歩き出した。
隅にある夢舞台亭の手洗いは、これまた気が利いていて楽屋を模してある。用を足したところでアデリルは、頭に巻いたストールを席に忘れてきたことに気がついた。
加えて鏡の前で髪を直していたら、出る時に急いで結い上げた髪が解けてしまった。フリアナを急かしてやってもらったので、自分では上手く直せない。赤紫の艶やかな巻き毛が、両肩に流れ落ちる。席に戻ればストールもあるし、薄暗い店内ではそれほど気にすることでもない。アデリルはそう考えながら、身だしなみを整えてそこを出た。
それからいくらも行かないうちに、
「おい」と、やや乱暴な声がした。
アデリルは振り向く。見るとふたり連れの若い男が立っている。見たところハイドロと同じくらいの、まだ若い青年たちだ。そのうちのひとりがアデリルの方へ腕を伸ばす。
「王女様、いいところに。こっちに来て遊んでくれよ」
近づかれると、匂いで彼が酔っているのがわかった。自分をこの店の給仕と間違えている。掴まれた腕を不快に感じながらも、アデリルは顔を巡らせて店員の姿を探す。
「悪いけど、そんな時間ないの」
「明日はめでたいお披露目式だろ?」
男が腕を離さないので、アデリルは傍らに突っ立ったままの、彼の連れに視線を向けた。
目が合った。髪の色は珍しい青灰色。冷たく彼女を見つめる目も、薄暗い店内では判りにくいが、おそらく同じように冷たい青灰色だ。
「ねえ、お友だちに席に戻るよう言ってくれない?」
「王女様に憧れてるんだ。目をかけてやってくれ」
少しも表情を変えず、つまらなそうに青年が言った。アデリルは顔を顰め、自分の腕を引きながら「手を離して」と、男に言った。
彼は引き下がらない。それを見た連れの青年は初めて表情を変え、薄笑いを浮かべる。
「飲み屋の女のくせに、気取るなよ」
アデリルの頭に血が上った。夢舞台亭はそんな店ではないし、自分は給仕ですらない。
「ちょっと…」
強い口調で言いかけたアデリルは突然、男に腕を強く引かれた。なにこれ、と一瞬思考が止まりかけ、彼女はバランスを崩して男の方に倒れそうになる。その時だった。
「マデイラ」
両肩を掴まれて、彼女は引き戻される。聞き覚えのある声にほっとして振り返ると、予想どおりハイドロが立っていた。
「妹が何か」
彼はアデリルを庇うように一歩進み出ると、男に向かって静かに言った。ハイドロの方が背が高く、彼を見下ろすことになる。男は少しだけたじろいだ様子で言った。
「妹? 扮装好きの女給だろ?」
「店の者じゃない。俺の連れだ」
ハイドロはごく穏やかに答えたが、酔った男はなおもしばらくアデリルの腕を掴んだままだった。ハイドロの視線がみるみる冷える。
「おい、離せ」
灰青色の髪の青年が少し怒ったような顔で進み出ると、連れの男の背を叩いた。聞こえよがしの舌打ちをされたが、やっとアデリルの腕は自由になる。ハイドロがアデリルの肩に軽く触れた。そのまま立ち去ろうとすると、背後から青年が、
「似てない妹だな」と、言った。
「その方が都合が良い」
ハイドロは肩越しに振り返ると、薄く笑ってそう答えた。
これで席に戻れる、とアデリルはほっとしたが、前から険しい顔つきのチャコールが歩いてくるが見えた。後ろに支配人を含めた店の者とおぼしき数名を連れている。ハイドロは彼を認めた時から止めろ、と目で訴えた。アデリルにもそれがわかったが、一方でチャコールの目は怒りに燃えていて、ハイドロの制止は効かなかった。
背後で先ほどのふたり連れに話し掛けると、彼らは店の者に囲まれてどこかへ連れて行かれた。というよりも、あの剣幕だと店の外につまみ出されたのだろう。
先に席に戻っていたハイドロとアデリルのところへ、チャコールが戻ってくる。ハイドロは彼に呆れた顔をして見せただけで、なにも言わなかった。ストールを頭にかぶり直したアデリルは、男たちに絡まれた経緯をふたりに話した。チャコールは自分がついていかなかったことを反省し、ハイドロはアデリルへの注意を怠ったのは悪かった、と言った。 アデリルは男たちに絡まれたのはふたりのせいだとは思わなかったし、間もなく話題は別のことに変わったけれど、その晩はもう楽しい気持ちにはなれなかった。
ただ皮肉なことに、宮廷の自室に戻ったアデリルにはどっと疲れが襲ってきて、明日の心配をする暇もなく眠ってしまった。そのまま翌朝までアデリルは、フリアナに起こされるまで目を覚まさなかった。
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