番外編.箱庭に住む人のそれぞれ その9
人には「恋」という感情がある、らしい。
広大な森の中にぽかりと口を開けた、空の下。雄大な湖に反射する上空から吹き込んできた風が湖面を揺らす。
ぶわりぶわりと広がる波は、微風を連れて湖の端まで届いた。枝がかすかに音を立てる。
「だぁー、かぁー、らぁー! 茶化すんじゃねぇって!!」
「いいじゃねぇか!
猟師達が焚き火を囲み、騒がしく話している。朝の狩りで獲た獣の皮を剥ぎ、解体し、血を抜き、洗い、それを小屋の側に干す。そして前日に獲って処理しておいた肉を焼き、食い、体を休めている時間だ。暑ければ湖に足を付けて涼む日もある。
彼らは英気を養う時、いつもこの湖に集まっていた。代々補修してきた小屋には、そのための道具や、薪も備え付けられている。長年踏み固められ雑草が生えなくなった広場には丸太を切っただけの腰かけが円状に並び、その中央に石を組んだ焚き火場があった。
水辺の妖精と親しまれる木は、人の営みを、会話を、ずっとずっと眺めてきた。風もなく動く枝を恐れず受け入れた歴代猟師達が、木にとってはとても好ましい生きものだった。
森の生きものを狩りながら、森を絶やさないよう生かす者達。管理者。時に猟場を荒らす輩どもを追い返し、危険なモンスターを排除する。森に日が入るように木々を整える。それが彼らだ。
「人の恋路を酒の肴にされてたまるかってんだよ!」
食後の休憩では会話が弾む。本日の話題は年若い猟師が中心のようだ。顔を歪めて拒否するが、年嵩の男達は意に介さず笑っている。何なら力強く頭をかき混ぜに行き、年若い男がそれを払い除けるのさえ大笑いの一助になっている。
ああこれは遊ばれているな、というのは長年の経験で理解できた。
猟師の
「だが自分がどう思われてるかは知りてぇんだろ?」
「
「うぐっ……」
「いいぞぉ、家に帰って嫁がいる生活。好いた女が待ってるって思えば、仕事に力も入らぁな」
「うぐぐ……!」
歯を食いしばる男に、
「ま、母親になると途端に怖くなるんだがなぁ」
「あの肝の据わりっぷりはどこからくんだか。結婚する前はあんなにか弱くて可愛かったのに……いや今のあいつだって俺にとっちゃあ可愛いんだよ。告げ口したって意味ねぇからな」
「ちっ」
「狩りでさえ子連れの獣には手を出さねぇだろ。つまり、そういう事だ」
「人も動物もだいたい同じって事かねぇ」
「母ちゃんのケツに敷かれてんの? 動物も?」
「かもな」
「母親限定じゃあねぇと思うがねぇ」
「そうかぁ?」
「想像してみ。妻と子どもが……場所はどこでもいいか。まあ、村を歩いてたとする」
「ほう」
「突然暴漢に襲われたら、どうするよ」
「「殴り倒す」」
「ほら、母親だろうが父親だろうが変わらねぇだろうが。おめぇらも充分、肝が据わったよ」
などと男達が話したりしている。
年若い男だけがまだ未婚で、他の猟師達はすでに既婚だ。その中でも子どもが独り立ちしたと話していた年嵩の男達だけが、未婚の男をからかっているのである。それ以外の彼らは最近、子が生まれたと話していた者達だ。
木は彼らの話をいつも聞いているので、その関係性を把握していた。彼らは森の周辺に点在している村から集まっている猟師なので、同じ村の者もいれば、違う者もいるのだ。
「ほれほれー。この前は花持ってったんだろ? 反応はどうだった? ん? 白状しな」
「だぁあああ! 綺麗な、土産を、ありがとうだってよ! それだけだわ!!」
「拒否されてねぇなら御の字だ! 次は別の花を持ってってみるかい?」
「何でも試してみたらいいじゃねぇか。あんましつけぇと嫌われるけどな」
「お前しつこすぎて一時期出禁くらったもんな」
「うっせい」
「あー、俺その花見たぞ。窓辺に飾ってたなぁ。ニコニコと可愛らしい顔で眺めてまあ、いい人からの贈り物かと思ってたが……なるほどねぇ」
「ほほう」
「脈ありと見ていいんじゃねぇか?」
「頑張れよ若人ぉ~。おっちゃん応援してるからなぁ~」
「進捗報告してくれよ」
「ぜっっってぇえしねぇっ!!」
顔を真っ赤にして焚き火に背を向けた男は、湖の方へ足踏みするかの如く歩いてきた。そして木の横に立ち、難しそうな顔をする。
「……妖精よう」
ぽつりと、小さな呼び声が落とされる。
「……俺、俺ぁよ、好きな奴がいるんだ。一生大事にしてぇ奴だ……近々、でけぇ獲物を狙う。それが獲れたらよ……おめぇの花が付いた枝を、一本、貰っていいか」
おめぇの花が、俺ぁ好きだからよ。あいつにも見せてやりてぇんだ。
真っ赤に震えるその顔を、水辺の妖精は幾度となく見てきた。何故か、ここの猟師達は結婚を申し込む時に自分の枝を望むのだ。
いつの世代だったか、この男と同じような事を言った猟師に、まあこれならばいいかと据わりの悪い枝を落とした事がある。果たして、男の求婚は上手くいったらしい。それ以降、通例となってしまったのだ。
つまり……報告はしないと言いつつも、こうして枝を求めている時点で、背後の猟師達にその心は気付かれているのである。
ああもからかわれては、素直になれないのかもしれない。人というのは大変だな。そう思い、水辺の妖精は同意を示すように年若い男の服に細い枝を絡ませて、引いた。
男の、泣きそうなくらい嬉しそうな顔が、記憶に強く残っている。
この頃はまだ、「恋」が何か、わかっていなかった。
人も獣も、好きな者と
感情への理解が追い付かない。自分とは、別の世界の話だから。
<人が何故、君の枝を求めるのか、と?>
猟師達に連れられて来た魔族に気まぐれな質問を投げてしまったのは、初めて人と思念を交わせた事が、存外嬉しかったからかもしれない。高揚するように枝が揺れる。
その魔族はコウレンと名乗った。森の傍に点在する村へ立ち寄ったついでとばかりにモンスターを狩った上、酒を呑み交わしているうちに村の人々と仲良くなったそうだ。
村人達の歓迎に気をよくしたのか、この男はしばらく滞在する事にした。そうすると、俺のとこでも角付きの強ぇ奴が厄介なモンスターを退治してくれてよぅ、と
「特にここの肉料理は美味い。他では味わえんものだ」
終始そのような人だったものだから、猟師達に気に入られてこの湖まで案内されてきた。水辺の妖精の記憶では、部外者を連れて来たのはこれが初めてだった。
大事にしている場所なのだ。湖と共に、とても大事にされている自覚もあった。だからこその衝撃もあったし、そんな珍しい人がたまたまテレパスをこなせるとは思ってもみなかった。
だからつい、昔から不思議に思っていた事を口に出してしまった。
コウレンは猟師達に肉をご馳走になりながら、水辺の妖精へ答える。
<ふむ……そうだなぁ。俺が思うに、君が猟師達から愛されているからだな>
<……大事にされているのは、わかる>
<ああ、とても大事にしているさ。村を周ってここに来たら、察さぬ奴はおらんだろうよ>
<愛とは、何?>
<色んな形がある感情、だな。うーむ、何と言ったらいいのやら……>
<恋とは違う?>
<違うなぁ。恋は焦がれるものだ。諦められぬと手を伸ばすものだ。少なくとも俺にとってはな……彼らは君に頼みはしても、縋りつきはしないだろう>
この男はとても器用で、和気あいあいと猟師達に話を振って振り返されていながら、顔には一切出さず水辺の妖精に言葉を返した。
<俺の主観になるが……彼らにとって君は、愛すべき仲間であり、湖の守護者であり、愛の象徴なのだろうな>
3つも出てきた事に、水辺の妖精は黙り込んだ。
理解が追い付かない。「恋」でさえわからないというのに、さらに「愛」ときた。自分には無関係の感情のはずだ。元々は木である、自分には。
<ああ、すまん。混乱させたかったわけじゃないんだが……これじゃあまたルニラムに叱られそうだな。この訳知り顔じじい! なーんて>
<おじいさんには見えない>
<魔族は年齢不詳だからな。これでも君よりずっと年寄りだ>
猪のステーキを頬張り、咀嚼する男はひっそりと笑んだ。
<まあ俺の事は置いといて。いいじゃないか、君も彼らの事は嫌いじゃないだろう?>
<……それには、同意する>
彼らは森から命を貰い、森を整え、森を生かす者。森を慈しむ者。嫌悪する道理はない。
<愛しいって気持ちはさぁ、誰かに教えられる事もあれば、唐突に理解する事もある。人の言動を注意深く観察してみるといいかもな>
<……?>
<まあつまり、俺がああだこうだ言うよりも、君の仲間達の方が立派な先生だって事さ>
妖精から精霊まで、道のりは長い。それまでの暇つぶしと思ってやってみるといい。
そう言った男は、数日もしないうちに旅立った。探しものがあるんだ、と言葉を残して。
特別な子ではなかった。
最期を看取った恩人は、リトジアにとって森の仲間であり、今までの猟師達と同じように見守る対象だった。
炎の中での会話がなければ、あの時留めてもらえなければ、特別視はしなかったはずだ。
では何故、私は彼の隣を望むのか。
「幼馴染のお姉ちゃんと年下っ子の唐突な恋かなぁあああ!? 甘ずっぺぇえええ……!!」
ぽつりぽつりと伝えると、ルイは顔を枕に埋めて、足を上下させて悶えている。
私の話はそんな、ルイの琴線に触れるようなものだっただろうか。
「ああ……でも、落ち着いて思い返してみれば……私、彼に枝を求められた事がありませんでした」
「枝?」
「ええ。私がいた森では、何故か皆、求婚に私の枝を使ったのです。猟師達は求婚前に必ず花が付いた枝を欲しいと求めてきました。それを想い人へ渡すのだと」
「リトジアは恋のキューピッドだった……? リトジアの背中に羽根生えたらめちゃくちゃ可愛いじゃん最高じゃん」
きゅーぴっど? と聞き返す前に、ルイはぶんぶんと首を振って興奮した様子で腕を振り上げた。
「じゃあじゃあ、恩人さんは既婚者じゃないんだ!」
「はい。ですから、私の嫉妬は無駄で……」
「その事実をうっかり忘れちゃうくらい、リトジアは恩人さんの事が好きだったんだねぇ」
嫉妬する意味などなかった。昨日から思い悩んでいた時間は、妬む思いは無駄だった。
そう呟こうとしたリトジアを遮って、ルイが微笑んだ。
「……私の、思い違いで、ルイには余計な心配を……」
「でもお蔭でリトジアは自分の気持ちに気付けたよ。私は初めてのパジャマパーティを楽しんでるし!」
夜中に飲むからこその背徳の味! とぶどう水が入ったコップを傾けるルイは、本当に気にしている様子がなく。
リトジアは、やはり彼女に相談してよかったのだと、同じくコップを手に取った。パジャマパーティを理解するために、背徳の味というのを共有してみるべきだと思ったからだ。
「ふふ……いつものぶどう水です」
「ん! 美味しいねぇ。でも夜寝る前に甘いものを飲み食いするなんて、っていう罪悪感とかを押し退けて飲む! それがさらに美味しく感じる! 夜中のカップ麺とかその最たるものだよ!」
そこまで言ってハッと、ルイは何かに気付いた様子になり、そして
「こうして食欲に向いちゃうから、私自身の恋愛経験値ひっくいんだよなぁ……リトジアぁ、大したアドバイスできなくてごめんねぇ」
「いいえ、いいえ。私にはとても、ありがたかったです。私のままでいいと、あなたが言ってくれたから……」
リトジアはツタをしゅるりと伸ばして、ルイのコップを取り、サイドテーブルへ戻した。
空いた腕の中へ、自分の体を滑り込ませる。小さな、リトジアより大きな背へ、両腕を伸ばした。
「あなたに感情を教えてもらえて、よかった。本当に、そう思います」
「それは……えへへ、何よりも嬉しい、ご褒美だなぁ」
照れたような声と共に、リトジアの背に温かな体温が回る。
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