146.水浴びと心の嵐



「トーコおいで、ゆっくりね」

「ひょるる」


 大きな触手を握って、池の中を進む。素足のまま進む水の中はお風呂の時と違って冷たいからか、指の隙間を流水が通るたびにくすぐったく感じてしまう。柔らかな土の上を転ばないよう慎重にバックしていく。ちゃぷ、ちゃぷ、と緩やかな水音がした。

 お昼休憩の後は、トーコとの水浴びタイムだ。水嵩みずかさは私の膝上くらいだけど、念のため水着と、その上に短めのワンピースを着ている。温暖な箱庭といっても水着一枚じゃ寒いだろうと念のため。

 いつかは皆で水浴びしたいなぁとは思ってたけど、まさか水着の出番がこんなにも早く来るとはねー。桶の時は傍にいて、時々水掛け合ったりで満足してたから、こうなるとはまったくの予想外だったというか、トーコ的には池となると別らしくて。

 お母さん何で一緒に入らないの? トーコと行こ? って感じで体ごと傾げられたら、そらもう「お母さんもすぐ行くよー!!」って答えるしかなかったよね。反射でしたわ。


「トーコ、お水気持ちいい?」

「ひょるる!」


 機嫌よく鳴いた後、ひょるっひょるるっひょる~と楽し気に歌い出す。水浴びが好きな彼女は、この時間が一番テンションが高くて、歌う確率も高い。艶々と潤う表皮は、池に入った直後から湿り気を増した。トーコがもっと水かけてとおねだりをしてきたら池の水を掬って頭のてっぺんから流して、傘のような胴体をするすると滑り落ちてく水の感覚が気持ちいいのか、また楽しそうに歌うのだ。

 はっきり言おう。めっちゃ可愛い。いや親の贔屓目とかじゃなくて、めっちゃくちゃ可愛い。顔色が伺えないタイプだからどうやって意思疎通を図ろうかと思ってた時もありました、そんな心配は杞憂だったけどね!

 入浴用の池も作って本当に良かった! 箱庭の湧き水は地下から湧き出してるから、地熱で温められてるのか水温も冷たすぎなくて心地いいし!

 と思ってゆったりと過ごしていたら。


「きーも、やる!」

「あ、こらキース!」

「え」


 ヒューさんとかけっこしてたキースくんが、上着を脱いで唐突に池へ飛び込んできた。身構える事が出来なかった私は、ばしゃぁあん! と盛大に跳ねた水飛沫をもろに食らったのである。うへぇ、濡れネズミ! べちゃりと垂れた前髪をかき上げる。

 幸いにもキースくんは私とトーコの方に直接飛び込んでこなかったし、池は浅い上に石や岩がない。悪びれる様子もない顔で近寄ってきたキースくんの体を軽く見て、怪我がない事にほっと胸をなでおろした。


「ごめんね、大丈夫!?」

「大丈夫だよヒューさん。キースくんも水浴びしたかったの?」

「うん!」

「そっかそっか。キースくんも一緒に遊ぼうね」


 誰かが楽しい事してたら、まざりたくなる気持ちはとても分かる。あーそぼってなるよね。でもねぇ。

 私はすっと指を差す。あそこ、キースくんあそこ見てね。水源の脇ね、石の階段があるよね。


「次、池に入る時は階段からにしようね」

「? うん!」


 元気よく笑顔で頷いたけど、わかってくれたんだろうか。<あまりわかってないよ。また水遊びするんだー! って感じ>フォローありがとテクト。次って言葉に反応しちゃったかーそっかー。まあこういうのは何度も繰り返す事が大切だって言うからね。手を繋いで入れば階段使わざるを得ないだろうし、そうしよ。

 人がいない所に向かって飛び込んだ事は悪くないので、危ないんだぞって言葉は呑み込んだ。がみがみ言っても通じないんだから、という親戚夫婦の疲れた顔を思い出す。私も頑張るよお姉さん方。根気だよね。


「ヒューさん、バスタオル追加してくれる?」

「わかった。着替えも、だよね」

「そう! ありがと!」

「とぉー! ばちゃー!!」

「ひょるる!」

「うおっちょっ!?」


 キースくんから泥掛けの如くかき出された勢いのある水が私とトーコを襲う! 濡れてない所がなくなったわ!! もう、ワンピースを脱いで芝生へ投げ……いや重い!! 腕上がんない!! 水吸った布無理!! 何で私こんな力ないんだ宝箱開けられなかった頃くらいだぞこれ……あ、水浴びするからって力UPする装飾品外してた!


「ルイ、預かります」

「リトジア! 助かるー!」


 騒がしくしてたから様子を見に来てくれたのか、リトジアが池の縁に立っていた。

 すいっと伸ばされた蔦に服を渡す。その蔦が器用に服へ絡みついて、水分を絞っていく。だばだば落ちてくなぁ。その後広げて振って伸ばしてる一連の流れを見ると、習得した主婦の技を生かしてくれてるなと思う反面、精霊に主婦じみた作業させて申し訳ない気持ちがせめぎ合ってくる。

 リトジア本人が興味津々で覚えてたから、私がどうこう言うもんじゃないんだけども。


「後は私がしておきますから、ルイはキースとトーコを」

「あ、うん、ありがと!」


 はっと意識を戻して、きゃいきゃいと歓声を上げながら水を掛け合うお子様達へ混ざっていく。ぷおっ、顔に向かってやったなー! お母さん渾身の水鉄砲を食らえー!!













<……やれやれ。子どもが3人になってしまったね>

<ふふ。愛らしいじゃありませんの>

「ルイが子どものように騒いでるのを見ると、普段と違って新鮮ですね」

「うん。村の子ども達を思い出すよ。ああして遊び回って、いつしか泥だらけになって、親に怒られようがはしゃいでいたなぁ」

「村の生活というのは、あのような様子を表すのですね……」


 ふとリトジアの視線がやわく揺れる。テクトは黙り、ダァヴは瞼を伏せ、ヒューはしばし考えて……頷いた。


「そうだね。子ども達は遊んで、大人は見守る。人の営みは、昔から、こういうものじゃないのかな」

「……狩人にも、家がありますものね」


 ぼんやりと呟いたリトジアにヒューが聞き返そうとした時。「とうちゃ! とうちゃ、も!! あそぶの!!」と呼ぶ声に意識が向き、池から素早く上がったキースが足をぐいぐい引っ張るので、それどころではなくなってしまった。


<おや、タオルもう1つ追加だね>


 そう言ってテクトは家へ入った。ベンチにはふかふかと積まれたバスタオルと着替え、座布団に座るダァヴ、小さな足をぶら下げるリトジアだけが残る。


「……彼にも、あのような時間があったのでしょうか」

<時間、とは?>

「……家に帰れば、妻と子が待つような。森に来ない日は、ああして子ども達を見守る時などが……あったのかと、思いました」

<あるかもしれませんわね>

「っ、では……彼の帰りを、待ち続けている方々がいるかもっ!」

<ですが一個人へ過干渉する事は、我々には出来ません。彼の家族が生存しているか、生存していたとしてどこにいるのかを調べる事は出来ても、伝えるすべはありませんの>

「ヒューの時と同じ……ようなものではないのですか。ここは、俗世と離れた場所です」

<ふふ、きちんと考えていますわね。ですが、出来ません。狩人の彼はすでに望みを言い、私は叶えました。覚えていますわね?>

「はい……」

<彼は、家族への言伝を頼んでいましたか?>

「……いいえ……」


 それから、リトジアは口を閉じた。宝石のように輝く瞳から、涙が滲む。


「ごめ、ん、なさい……すみませ……」

<泣かないで。大丈夫、私は怒っていません>

「違うのです……ダァヴ様を、困らせようとは……私、まったく……」

<ええ。わかっておりますわ>

「彼に……家族があったかもしれないと、そう思い至ったら……私、彼の行く末を話すべきだと思う反面、すごく、すごく……」


 ふと、顔を上げる。ぽろりと零れる涙が、握りしめた手の甲に落ちた。その手を胸へと当てて、ぎゅうと握りしめる。ああ、ああ、こうも乱されるものか。


「その家族が、羨ましく、感じて……!」


 森に入る彼が、真剣な眼差しで相棒と共に獲物を狩る、狩人が。家で待つ誰かのために働き、帰っては子を抱き締め、慈しむ。そんな時間があったのだとしたら。

 何故、その隣に自分はいなかったのだろうと。よぎってしまった。

 自分がこの姿になったのは、もう何もかもが取り返しのつかない時だった。そもそもが無理な話だ。何故、彼の隣に立つ自分を、夢想してしまったのか。羨ましいなどと、おこがましい感情を持てたのか。それに、このような幼いとも取れる異形の姿、人である彼の隣にふさわしくはないだろう……ここまで考えて、リトジアの心は荒れに荒れた。

 ままならぬ。本当に、思い通りに動く事がない……! 何故、整理し直したと思った心が、こんなにもざわめいてしまうのか……!

 慌てて舵を切ったのが、先程の問答だ。


<嵐のように、心が荒れていますわ>

「おかしいでしょうか……!? 彼と話したのは、ほんの一時いっとき。子どもの頃から見ていたとはいえそれは一方的で、もちろん会話などはなく……あの時が、炎にまかれ命尽きる時が、初対面なのです……! 少し話しただけの私が羨む事は、変でしょうか……!!」

<変か変でないか、という悩みならば、私は否定いたします。人も、精霊も、心を持った者は皆、出会いの中で喜怒哀楽を感じ、悩み、心乱されるもの。あなたは複雑な心の機微に晒されて、戸惑っているように思えますわ。ルイに相談してみなさいな>

「そう、だんを……しても、いいものなのでしょうか……これは、故人の話です。私の執着です。彼女を、怖がらせてしまうのでは……」 

<心を持つ者としては、ルイの方が先達でしてよ。満足のいく解答が得られるかは確約出来ませんが、何かの知恵はいただけるかもしれませんわ>

「…………」


 リトジアは押し黙る。どうするべきなのかと、視線を彷徨わせる。


「あれっ、リトジア元気ないね。何かあった?」


 しばらくして、テクトからバスタオルを受け取ったルイが近寄ってきた。どうしたの? とリトジアの前にしゃがみ込む。


「……泣いてるの?」

「いいえ、いいえ……泣いてなど、いませんよ……少し、思う所があって……」

「そっか……あ、服を干しててくれてありがと。助かったよー」

「はい。見様見真似ですが、あれで正しかったでしょうか」

「もっちろん、完璧! リトジアどんどん出来る事増えてくね! すごいや!」

「ルイが色々と教えてくださるからです……」


 今も。私は気を遣われた。話したくないという気持ちを察して、逸らしてくれた。

 こうして、私はまたルイに甘えていく……本当に、それでいいの? 成長したと、言える?

 リトジアは俯いた。自分のふがいなさに震える腕を、抑え込む。


「もう少ししたら夕飯の準備するからねー。川魚捕まえようって話したら、ヒューさんが活締め出来るらしくて。すごい頼もしいよね! 私は串焼きド素人だし、経験者にお願いしようと思って。私は付け合わせとか味噌汁作るけど、リトジアはどうする?」

「……私、私は……聖樹様の根元に! 埋まってまいります!!」

「ほぇい!? え、これから!?」

「はい! 夕飯までには戻って参りますので! 少々、お時間をいただきます!」

「あ、うん、どうぞ! ごゆっくり!!」


 だっと駆け出して行ったリトジアを、ポカンと見つめるルイ。そして、ふふふと笑うダァヴ。


「……やっぱ何かあったんじゃん。ダァヴ姉さんと話してたよね? 相談とかされた?」

<多少の問答は。ですが、ええ、リトジアに必要なのは私ではなく時間でしょうし、彼女の道を照らすのはルイでしてよ>

「え……私が出来る事なんて、ほんと少ないよ」

<そう思っているのはあなただけかもしれませんわ。ええ、あなたのお蔭で変わったものは、色々とありますもの>

<あのねぇ、それ僕を見ながら言わないでくれる? っていうか今日は随分と長居するね!?>

<夕食をいただくまで帰りませんわよ私>

<ルイー!! 何であんな約束したのー!!>

「ダァヴ姉さんと一緒に食べたら楽しいじゃん」

<まあ! 嬉しい!!>

<僕は、別に、楽しくない!!>

「ダァヴ姉さん、これ照れてるんだよ。可愛いね」

<羨ましいでしょう。私の可愛い末の兄弟ですのよ>

「ふっふー。羨ましくありませんよ、何たって私の可愛い相棒ですからね!」


 しっかり胸を張って自慢げに言うルイに、テクトの尻尾アタックが炸裂した。もふっとしただけで実害はなかった。


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