番外編.箱庭に住む人のそれぞれ その4
「あら、お帰りなさい。随分と早かったですね」
畑の周りを歩いていたリトジアが、ふと顔を上げた。キースを抱き上げながら歩いてきたヒューが、はっと我に返った様子で同居人の表情をまじまじと見る。
「あ、うん。僕らの用事は、終わったみたいで……」
「なるほど。ルイは続けてお話を?」
明るい幼女の姿が見当たらず、聞いてみたが。
「そう、だと思う……」
質問には答えつつも、心はどこか遠くへ行っているようなヒューに、リトジアはふむ、と腰に手を当てた。
ルイが2人を先に帰したという事は、個人的な話をギルド職員──話に聞く魔族の方としているのだろう。それは納得したが、それよりもヒューの態度だ。
キースが下りたくてもがき始めたのだが、それにも反応が薄い。これは何かあったのだろうと当たりをつけ、リトジアは蔓をヒューの足に巻き付けた。
「キースが遊びたいようです。あなたも、聖樹様に挨拶をしに行くべきでは?」
「あー! りぃー!」
「え、……あ! ご、ごめんねキース」
大人の腕から逃れようと全身で暴れだすキースを優しく下ろす。幼子は両足でしっかり立つと、リトジアを正面から抱き締めた。小さな精霊の体は、全身で包み込まれた。
「りぃー、ぎゅー!」
「あなたはいつも楽しそうですね」
「ぎゅー?」
キースが不思議そうに首を傾げる。抱き締め返してくれないのと、言われているようで……リトジアの体は硬直してしまって、それどころではないというのに。
無垢な子どもというのも、考えものだ。人にまだ慣れていないリトジアの
この場合は、どうするべきなのか。ヒューのように、同じ行為を返すのが正解だとみていいのだろう……果たしてリトジアに可能な行動であるかは、震える腕が上がるかによるが。
結論から言うと、腕は上がった。少し時間をかけて、片手だけ。
「……はい、ぎゅうです」
何とか伸びた手がぽんっと背中を叩くと、たったそれだけで満足したのか、キースは笑みを深くして一目散にミチの方へと駆けていった。あっさりと離れていかれ、拍子抜けしてしまったくらいだ。
「まあ……元気な子ですね」
「ごめん。あまり、人と触れるのは得意じゃない、よね?」
「ええ。でも、何事も練習ですから。助かる部分はあるんですよ。あなた方は野蛮な人とは違いますし、驚きはしますが……嫌いではないです」
「そっか……」
「聖樹様がざわめいておりますね。ヒュー、傍へ行った方がいいのでは」
「うん。さっきの事も、報告しよう」
私も同行します、と言いながら並んで聖樹の元へ向かう。リトジアはこっそりとヒューを窺うが、やはり表情が硬い。顔色が悪いわけではないし、朝は元気だったのだから体調の面は問題ないとは思うが……先程から考え込んでいる様子からして、出先で何事か言われたのだろうか。
聖樹の根元に辿り着くと、ヒューは幹に手を当てた。
「ただいま、聖樹。ギルドの人に会ってね、グロースさんっていうんだけど、奴隷の印を消してくれたし、健康診断もしてくれたんだ。体は健康だと言われたよ。疲れが取れるように休むのが大事だって」
ざああ、ざああ。
「ああ、うん。ルイがよくお世話になってる魔族の人なんだって。文字が読めなくても気にしない、いい人だった」
不思議な事に、ヒューはただの人族だというのに聖樹の言っている事がわかるらしい。聖樹と人ではテレパスの波長が合うわけがなく、そもそもヒューはテレパスを持ち合わせてないのだから聖樹の声が聞こえるはずもない。それでも正しく意思を感じ取って返答をするのだから、きっと彼の才能なのだろうとリトジアはこっそり頷いた。
「あと、皆と一緒に暮らすためには、僕とキースの同意が必要なんだってさ。今度、正式な意思表示をしないといけないらしいよ」
「あなた方を保護するのを、世間に認めさせなければならないのですか?」
「うん。えっと、本来なら僕とキースにはお金が配られるそうなんだけど、そのお金目当てに保護するフリした悪い人が昔いたらしくて、だから、保護する人が大丈夫かどうか調べる工程がある、とか……そういう話だったと思う」
「なるほど。あなた達の意思確認は勿論、脅されて保護に同意したわけではない、という確証が欲しいのですね」
「た、たぶん」
ざあああ!
聖樹の枝葉が大きく震えるが、ヒューが幹を優しく撫でるとすぐに治まる。
リトジアには聞こえた。“それはつまり、あなたが帰ってこなくなる可能性があるのですか?”と。口調はリトジアに馴染みのあるものに変換されてはいるが、おおむねこのような意味だろう。
それをわかっているのか、緩やかに笑うヒューが簡単に慰めてしまった。少々、いや結構悔しい。
「大丈夫、僕はもうここに住むと決めたから。誰に何を言われても、君の所に戻ってくるからね」
「……聖樹様は、安心なされたようです」
「それならよかった」
ほっと胸を撫で下ろしたヒューが、しかし少々浮かない顔をしているのを、聖樹は気付いているのだろう。彼にバレないよう僅かに葉を揺らし、リトジアへ思念を送ってくる。
やはり、私の勘違いではなかったのですね、聖樹様。
そう独り言ちて、家へと向かう。目を瞬かせてついてこないヒューへ、手招きした。
「お疲れでしょう、お茶でもいかがです? 私に用意できるものは、冷蔵庫にあるものだけですが」
「あ、えっと……僕は、別に」
「人は水分を失うと倒れてしまうと、ルイから聞いております。つまりあなたは、聖樹様に心配を掛けたいとおっしゃる」
「いや! そ、そういうわけじゃ……」
慌てて聖樹とリトジアとを振り返るヒューに、クスリと笑う。
「申し訳ありません、からかいました。あなたには湧き水が体に馴染むでしょう。用意しますから、テラスの席で待っていてください」
「あ、うん……」
「そして一息ついたら、話をいたしましょう」
「え」
「ずっと上の空で、悩み事があると顔が物語っているので。ルイに話すべき事なら帰るまで待ちますが……先達である私の方が聞きやすいのなら、吐き出すべき時は今ですよ」
ヒューは片手で顔を覆い、そのまま頬のあたりを揉み込む。
「……わかりやすい顔、どうにか出来ないかなぁ」
「そのままでも構いませんのに」
聖樹様と答え合わせする楽しみが増えたから。
リトジアはこっそりと趣味を増やしたのだった。
遠くから、キースのはしゃぐ声が聞こえる。ミチの羽音が回っているので、程よく相手をしているのだろう。
水を飲み、ため息を零したヒューがおもむろに口を開いた。
「グロースさんは、言葉が喋れなくて。テレパスを使って話す人だったんだけど……テクトを通じて、聞いてきたんだ。村を襲った国を特定するか、しないか」
リトジアは言葉を発さず、続きを促した。
「復讐する意思があるなら教える。ただ、やりたいと思ったら、一度決意したら、箱庭には戻せないって」
「そうでしたか……それは、悩んだ事でしょう」
「うん……突然、選べる未来が増えてしまったから。あいつらの事は、ずっとわからないものだと思っていたし。昨日は、実際に復讐するか、どうなるかはわからないって考えてたのに……」
ぐ。爪が刺さりそうな程に強く握られた手が、テーブルの上で震える。
「恨みがある。ずっとくすぶってた、拭いきれない恨みが。それをぶつける先も、僕の意思一つで教えてもらえる。そんな好機、二度とないって思った。キースを膝に抱きながら、物騒な事をずっと考えていた。村の皆みたいに、焼いて、引き裂いて、同じ苦しみを味合わせてやりたいって……君らに恩返ししようって決めた事も、忘れてしまっていた」
「……あなた一人で何が出来ます。このダンジョンのモンスターにさえ手こずり、怪我を負ってしまうあなたに」
「うん……僕では不足だと思うよ。無理だとわかってる。さっきのあの瞬間だけは、僕は想像の中で強くいられたのかもしれない……でも、それだけだった」
手の震えが止まる。
「復讐する相手を思い浮かべようとすると、段々、ここの皆の顔に変わってきて。気付けば、グロースさんに何も言わないで帰ってきたんだ。思い踏みとどまってしまった。どうするかを先延ばしにしたんだ」
たった一日しか、一緒にいない君達が。
それでも大きな変化を僕にくれた君達こそが、僕を止めてくれた。
そう言って、ゆっくりと指をほどいていく。僅かに赤らむその手で、水が揺らぐコップを掴んだ。
「聖樹に会ったら、ここに戻ってくるよって自然と口にしていた……皆の仇を取るより、僕は自分の幸せを選んだんだ」
「それは、悪い事なのでしょうか」
「……わからない。でも僕は、心苦しく感じる時がある」
ヒューはコップの中の水を一息に飲み込んだ。水滴が落ちて、テーブルに染みを作る。
それを眺めながら、リトジアはゆっくりと選び取った言葉を話す。
「……あなたは、村の方々と満足に別れる時間もなかったでしょう。誰の意思も、聞く事が叶わなかった。最期の時まで話す間があった私から、助言出来る事は少ないとは思いますが……ただ一つ二つ、言わせてください」
「うん」
「私は、いつか出会えるかもしれない、生まれ変わったあの方に、満足するまで生きたと胸を張ってやりたいのです。あなたは満足してますかと、からかってみたい……出会えるとは、思えませんが。それが今の目標です」
「……うん」
「私の目標は、悪い事でしょうか?」
「ううん。すごく、素敵だと思う……ちょっと、羨ましいな」
「ふふ、あなたも同じような目標を立ててもいいんですよ」
ヒューはそっと目を伏せて、それから顔を上げた。リトジアを真っすぐ見る。
表情は、もう硬くない。
「……そう、そうだね。ありがとう、リトジア」
「どういたしまして」
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