番外編.箱庭に住む人のそれぞれ その3
リトジアにとって“子ども”というのは、森をしっかりとした足取りで歩ける年頃の男の子だけだった。
元々住んでいた森にはよく猟師が入ってきた。彼らは跡を継ぐ子息に仕事を教えるために連れてくるので、まともに歩けなくては意味がなかったのだ。結果、リトジアの長い長い記憶の中に、抱き上げて運ばれるような小さな子の姿は一切ない。
人生で初めて見た幼児がルイだった時点で、それはもうお察しと言えるだろう。
だからリトジアにとって未知の生物である幼子が、無邪気にキラキラと光る目を向けてくる事に、少々戸惑いを覚える。ただそれ以上に、愛らしいと思っているのも確かだ。
精霊でも母性は湧くのだろうか……聖樹様を見れば、一目瞭然の気もするが。
「キース。私はリトジアと申します」
「りぃ、あ? もうしー?」
こてんと首を傾げるキースに、思わずリトジアの頬が緩む。大変愛らしい反応で心踊るが、どうやら自分の口調は幼子には難しいものらしい。言葉が通じないもどかしさはあるが、頬が緩むのもまた事実。
今度は自分の胸に手を当てて、わたしは、とゆっくり呟いた。
「リトジア。り、と、じ、あ、です」
「りぃー、とぉー、いー、あー!」
「……あなたの好きなように呼んでみてください」
リトジアの言葉を理解したのかしてないのか、判断のつきかねる様子で視線を上げ下げした後、キースは弾けんばかりの笑顔で自分より一回り小さな精霊にがばりと抱き着いた。
「りぃ! りーあ!」
「はい、キース」
頷いて見せると、「きー!」と自らを差して嬉しそうに跳ねる。ふっくらと短い手足なのに、よくまあ危なげなく着地をするものだ、とリトジアは感心した。
たしか、テクト様によるとこの子は2歳。子どもとはこの年でここまで動けるものなのでしょうか……ルイは5歳でもままならないと毎日苦労しているのに。猟師の子達はルイより大きくなってから森へ来てましたし、幼児の普通はわかりませんね。
などと考えながらこのくらいの力加減で大丈夫でしょうか、と再度抱き着いてきたキースの背中を軽く叩いてやる。そうすると嬉しそうにきゃっきゃっと笑うので、自然と詰まっていた息を吐いた。
ほんの少しの言動で機嫌が一気に上下する。なるほど、本物の幼児というのは神経を使う。
満面の笑みで離れたキースはヒューの足にまとわりついた。おじたん、と呼びながらその小さな腕をぎゅうと回す。まんざらでもない顔で、照れるように頬をかくヒューに、笑みが漏れる。
「ではキースが起きた事ですし、箱庭の案内を始めましょう」
ざあざあと、雨が落ちるような音が扉越しに聞こえる。ヒューとキースを風呂場へ押し込んだ後の事だ。
ルイに倣って風呂トイレへ通じる扉に耳を当てていたリトジアは、盗み聞きとは何とも胸が躍る行為です、なんて思っていた。そもそも妖精の時は狩人の会話を立ち聞いていたので、リトジアにとっては馴染みのあるものだった。
「……うん。ちゃんとシャワーしてる音だね」
「ヒューは覚えるのが早い
リトジアは夕方の事を思い出す。
ルイ達と挨拶し、家の内覧を始めると真っ先に驚かれたのはリビングダイニングを明るく照らす魔導具ランプの数だった。
「これは、全部、魔導具?」
「ええ」
「すごい。皆はお金持ちなんだね」
「私は世間の事があまりよくわかりませんので、あなたの言う金持ちかどうかは判断しかねます。ただ、ランプなどの火を使うものは油の管理などが危険なため、魔導具にしたと聞き及んでますよ」
「危険……」
ヒューはちらりとルイを振り返って、頷いた。
「確かに、この明かりがすべて油のランプだったら、うっかり危ない事態になりそうだね」
「ご理解いただけて何よりです。それから先に言っておきますが、この家は魔導具ありきの生活で成り立っておりますので、ランプだけで驚いていてはそのうち目が飛び出てしまうかもしれませんよ」
「わあ……これまだ序の口なんだ……そっか。気を引き締めておくね」
「キースは、わからない事が多いと思いますが、一つずつ覚えていきましょうね」
「はーい!」
その後はヒューの顎が落ちるのではないかと一瞬不安を覚えるくらい、何度も呆けてしまった。常に冷風が巡回する冷蔵庫。洗浄機能付きのトイレ。蛇口を捻ると出てくる水。温水が溜まる浴槽に、シャワー。薪を使って生活していた者に、魔導具だらけの家は馴染みがなさすぎたのだろう。
ただ彼は未知のものに怯える事はなく、驚きはするものの次には興味を持って使い方を聞いてくる性格だった。説明する側としてはとてもありがたいと、リトジアは一つ一つを丁寧に話し、そしてやってみせた。
すべて、ルイからの受け売りだった。それが自らの糧になり、新たなる家族に伝える手段として役立てた。これほど嬉しくもこそばゆいと思える実感があっただろうか。
内覧中の2人の様子をかいつまんで話すと、ルイは感心して頷いた。
「すごいなぁヒューさん。順応性が高い」
<君ら見つかったら恥ずかしい事してる自覚ある? 寝る前にやらなきゃいけない事がまだあるんだから、早くこっち来なよ>
「うん」
盗み聞きとは恥ずべき行為だったのですね……と、リトジアはこっそり落ち込みつつ、ユニット畳で食パンクッションに埋もれるテクトの傍へと駆け寄った。踏み台に足をかけて登り、カタログブックを広げて座ったルイの隣に添う。
「さて、ヒューさんとキースくんがお風呂から上がる前に、買わなきゃいけないものが何個かある。本格的な生活必需品は明日にするとして、まずは下着とパジャマとベッドだよね」
<そりゃね、あのボロ布を着せる予定はもうないから>
「ですね」
ルイが買い物を始めると、カタログブックの魔導板にパジャマの映像がずらりと並ぶ。色が、生地の質が、見た目はどうか、なんて話しながら選んでいく。足のサイズがわからないのでスリッパ、それから下着を購入する。
「男の人の下着で悩むなんて、久しぶりだなぁ。お祖父ちゃんの誕生日プレゼント以来だよ」
ふと口をついて零れるルイの思い出に、嬉しそうながらも哀愁の漂う横顔に、リトジアは何も言えなかった。
どのような言葉を並べるのが正解なのか。過去も人の機微も知らないリトジアがかける言葉は見つからず、また励ます
なので今回も、テクトの軽口がルイに容赦なく突き刺さる。
<異性のパンツを前に悩むルイは相当面白い絵面だったろうね>
「にゃにおーう!? 言っておきますけどお祖母ちゃんと一緒だったから、店員さんには一切怪しまれなかったよ!」
<どうだか>
「お2人とも、買い物はまだ終わってませんよ。お話は程々にしないと」
リトジアがそう言うと、ルイとテクトは視線を交わしてニコッと笑い、満足げに頷かれた。こういう反応をされるのも、少々こそばゆいと感じるようになってきたのだけれど、心底嫌というわけではない。不思議な気分だった。
ルイ達が使っているものと同じベッド、寒色系のシーツやカバーを購入して、最後の買い物が終わる。後はベッドの組み立てだ。
届いた大きい段ボールを一度アイテム袋に片付け、寝室に向かう。
「同室で構わないのですか?」
「うん、今日はね。ヒューさんとキースくんが嫌がらなければいいんだけど……」
<たぶん疲労が抜けてないから、細かい事考える前に寝落ちると思うよ。ルイとおんなじ>
「おんなじ、って妙に力強く言わないでよー。寝落ちなんてやろうと思ってできるものじゃないんだから」
ベッドの組み立てはリトジアにとって初めての体験で、興味深いものだった。段ボールに入っている木枠とツタで持ち上げ、首を傾げる。こんな平べったいものが、普段私達が寝ているベッドと同じものになる? 平面が、立体に?
まあやってみようか、とテクトに促されるままベッドを組み立てを手伝う。ルイはそろそろ眠気が襲ってくる可能性があるので、雑貨の開封と枕にカバーを被せる作業を任せた。
組み立ての間にも、ヒューやキースの話を求められたので、リトジアは思い出した順に話していく。するすると、口が動いていった。
自己紹介をし合った事。ミチに挨拶しにいった事。ヒューがユニット畳を見て、草の匂いがいいね、と目を輝かせていた事。冷蔵庫の冷気にキースがはしゃいだ事。トイレの底を探そうと伏せかけたヒューを、慌てて止めた事。お湯がかかった両手をキースが振り回したので、少し濡れてしまった事。
「そっか……そっかぁ」
何度も頷いて、深く感じ入ってるルイ。
ふと気付けば、ベッドが見慣れた木枠に組み上がっていた。簀の子の上に分厚いマットレスが置かれ、ルイのこだわりベッドパット、その上にテクトが手早くシーツを被せる。リトジアはシーツの端を掴んで引っ張った。綺麗に伸ばすのが気持ちいいのだ、と言ってたのを思い出したからだ。
ルイ達のベッドと新品のベッドの間隔を程よく空けて、テクトはヒュー達にパジャマを届けに出て行った。ついでに“ボロ布”と称する服を回収してくるというので、アイテム袋も託した。
寝室に残っているのは、ルイとリトジアのみ。いや、すでに掛け布団に包まれて温まっている卵もいたが、言葉を介さないので数に入れない。
リトジアに隣へ座るよう勧めて、ルイは話を振った。
「どう? リトジア、2人とは仲良くなれそう?」
「……わかりません。ですが、仲良くなりたいとは、思います」
将来の展望が見えず、手放しにいい結果とは言えないが正直な気持ちを吐露すると、ルイは表情を明るくさせて笑った。ぽかんとするリトジアに、親指を立ててグッジョブ! と言う。
「いいよいいよ。無理してないなら大丈夫。前向きな気持ちになれた事が大切だよ」
「そう、でしょうか」
「わけわからないけど嫌悪感を持ちました、だとマイナスから始まるけど。0じゃなくて一歩進んでるんだから、喜んでいいと思いまーす」
なるほど。私は出発点からすでに、前へ進んだのか。先へ立ったのか。
特定の相手以外の他人に対して否定的な気持ちが強かった自分が、ルイを気遣うためとはいえ、進んで他人に接し、微笑ましく思い、母性の兆しを感じた。先達としての意見まで、気を遣って話した。
上々の結果だ。これまでの成果だ。そう思って、いいのだろう。
「ルイ……」
「ん?」
「私、いつか……一度でいいから、ルイのお仕事について行きたい、です」
「うん」
「今はまだ、難しいですが、きっと……その時は、連れてってくれますか?」
「もちろん!」
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