99.名付けの話



<人の子、何してる?>


朝の日差しが入り込むテーブルで、昨日の出来事を日記に書いていると耳元で羽音がした。顔を上げると蜜蜂さんがホバリングしている。


<おはよー、ミチ>


蜜蜂さん改め、ミチさんだ。

これから働き蜂がたくさん増えるなら、一番私達と接するだろう蜜蜂さんに固有名が必要じゃないだろうか。紛れた中に蜜蜂さんと呼び掛けたら、群れが一丸となって飛んでくるんじゃなかろうか。という議論の末、私が名付けた。蜜蜂さんも私が名付けるなら異議がないらしく、極々素直に受け入れたのである。今まで群れのうちの一匹だったのに、突然名前を付けられて不快じゃないかと私が気にするのもなんのその。<ハチはミチ。ハチはミチだ>と喜ぶように八の字飛びを見せてくれた。何この子可愛いかよ。

いやしかし、みつばちの両端から一文字ずつ取っただけの、名付けセンスまったくなしな名前でもこんなに喜んでもらえるとは……いや、初めてのな魔獣って意味もあるのよ?順風満帆な未来みちを歩んで(ミチの場合飛んで)いって欲しい、という気持ちもあります。ただ最初の取っ掛かりが雑っていうだけで……あ、ごめんテクト。睨まないで。一度変な名前を付けられそうになったテクトさんの視線はとても鋭かった。

ただ、ミチの方は他人の名前を覚えるのが苦手なのか、私の事をルイと呼んだり人の子と呼んだり、呼び名が一定しない。まあ、いつか慣れてもらえたら嬉しいので問題なし。そのうち人慣れして上手くなるさ、とは強い獣テクト談。

そんなテクトは朝の作業を終えて、魔獣の卵と一緒に食パンスクイーズ空間へ頭を突っ込んでる。ユニット畳の上がこんもりだ。大変幸せそうで何より。

テーブルの端に置いたミチ用の深皿から蜂蜜を吸いつつ、たくさんの目をキラキラ光らせる。不思議そうにノートを見てるな、きっと。


<これはね、日記。昨日あった事を書いて、文字の練習をしてるんだよ>

<もじ……人の子は黒いミミズが必要なのか>

<うぐっ>


すみませんねー!どんなに練習しても汚い字でぇえ!!これでも結構マシになったんですよミミズって言われてるけどぉ!!

悪気のない素直な発言だから強く言い返すわけにもいかず、私はちょっと唇を尖らせた。


<練習中だから仕方ないんですー。本来はもっと綺麗な字を書けるんですー>

<ふぅん>

<ミチはどう?巣の方、上手く出来てる?>

<誰に言ってる>


ふふん、と胸を張っていそうなほど弾む声に、順調そうだなぁ、と呟いた。私の字もミチみたいに上手くいけばいいのに。ままならないねぇ。


<ルイ、あっちは何をしてる?>

<んー?出稼ぎの準備>


ミチの興味はキッチンの方へ移った。寸胴鍋が魔導コンロの火にかけられているのである。フタの隙間から出てくる湯気は熱すぎるので、<近くで見ていいけど、触ったり、上を飛んだりしないでね>と注意しておく。


<美味しいものを毎日食べたいから、お金を稼ぎに行くんだ。お金がないと、私は生活に必要なものを手に入れられないからね>

<あれは人の子が食べるものじゃないのか>

<うん。大きい鍋はミルクスープが入っててね、あれ全部売れるんだよ>

<配るものを作っているのか。ハチと似てるな>

<お、本当だ>


手段は違うけれど、ミチにはわかりやすい例えだったかな。働き蜂にとって幼虫達に蜜を配る事は、大切なお仕事だし。

賢くなったと喜ぶミチは、寸胴鍋の隣でふしゅふしゅ言ってる圧力鍋も気になったらしい。<あれは何だ><配るのか>と中々に矢継ぎ早だ。何だか小さい子どもを相手にしているようで顔が緩んできますなぁ。読心したテクトにツッコミ入れられる前にしっかりしよ。


<あっちは私達の夕飯。野菜をたっぷり煮てるんだよ>


スライスにんにく、くし切り玉ねぎ、大きく切ったにんじんとじゃがいも。コーン、かぼちゃ。それからしめじに、サイコロ状に切った豚バラ肉、ローリエ。ひたひたの水を注いだら、圧力調節の蓋をきちんとつけて。中火にかけてしばらくすると蒸気で安全弁がしゅっしゅと音を立て始めるので、弱火に変える。後は加圧時間。しばらくしたら火を止めて、冷めるまで放置だ。

今日はカレーにしようと思って、朝のうちに仕込んでる。圧力の鍋の良い所は大きい具材に満遍なく火が通るし、煮崩れしない事だ。ほぼほぼ放置で他の作業が出来る、っていうのも魅力的。蓋を洗うのはちょっと面倒だけどね。そこは洗浄魔法でちょちょいのちょいです。

出稼ぎから帰ってきたら蓋を外して、温め直そう。今日の隠し味は何にしようか。ケチャップ、ウスター、蜂蜜、ああでも甘口にしないと私は食べれないだろうから、蜂蜜は止めておこう。目の前に蜜蜂がいて、その蜜を待ってる状態なのに他の蜂蜜に浮気するのもね。今回は玉ねぎを炒めてないから、コク出しに砂糖くらいは入れようか。じゃあ甜面醤てんめんじゃんはちょっと見送ろう。後はケチャップにしようかな

隠し味を入れたら良く混ぜて、溶け合わさってぐつぐつしだしたら火を止める。ここで冷蔵庫から取り出した牛乳を注いで、カレー鍋を少し冷ます。カレールウは鍋の中身が熱いと溶けないで固まってしまうので、私はよく牛乳で強制的に温度を下げてる。本当は火を止めて10分くらい待てばいいんだろうけど、良い匂いし始めると待てが出来ない性分だからね、仕方ないね。

お玉でよく混ぜた後は、好きなルウを入れてまた混ぜる。ちょっとお高いルウとお手頃ルウを合わせるのがブームだったので、今日もそれにしようかな。ルウが全部溶けたら弱火を付けて、コトコト煮て完成だ。テクトは辛いの嫌いじゃないし、辛みオイルか粉でもついでに買おうね。

前世以来のカレーに期待を寄せつつ、ミチに火を止めた後もあの蓋は触らないでねと念押ししておく。彼女はわかったと言って、感慨深げに呟いた。


<人の子は大変だ。火を使わないと、満足に食べれない>

<生でも食べれるものはあるけど、他の生き物に比べたらお腹弱いからなぁ>


猛獣みたいに生肉食べるのは無理だしね。焼肉で半生を食べて吐き戻してしまった友人を思い出し、一人頷く。「これくらい大丈夫だよ」なんて笑ってた数時間後、あの子はトイレから出れなくなってしまった。念のため病院に付き添ったら、「次からちゃんと焼けてるか確認してね」って注意されたっけ。あの時のお医者さんの顔は忘れられそうにないなぁ。

人間、菌や寄生虫には滅法弱い。箱庭で倒れるのは避けたいので生肉や生魚は絶対止めよう。アレクさん達にも口酸っぱく伝えておかないと。今日はナマモノがどれだけ危険か講座だね。一人腹を抱えて真っ青になりそうな人を思い出し、内心合掌しておく。ラッセルさん強く生きろ。


<腹いっぱい。ハチは作業に戻る>

<はーい、皿にはフタしておくからね。ミチの手でも外せる軽いものだから、食べたくなったらまたおいで。いってらっしゃい>

<……うん>


ミチがぶんっと飛んで行くと、ちょうどツタ伸ばしの練習を終えたドリアードがテラスから入ってきた。今日は晴天なので、テラスへの扉は開けっ放しにしてある。そこから皆が自由に出入りしてるのだ。


「ミチは随分と張り切ってますね」

「だねぇ。私とテクトは出稼ぎに行ってくるけど、その間、ミチの事頼んだよドリアード。あまり無茶するようだったら休むように言ってあげて」

「ええ、はい……ルイ、私の名前は呼んでくださらないのですか?」

「あ」


しまった、という顔をすると、ドリアードが視線を逸らして褐色のほっぺを膨らませる。思わず可愛いと言いそうになったけど、これ以上失礼を重ねちゃダメだ。

蜜蜂さんの名付けに関して、予想外に拗ねたのはドリアードだった。いや、正確には名付けた当初はドリアードもニコニコ笑って蜜蜂さんの事をミチ、と呼んでいたんだけどね。夕方から少しずつ俯き始め、夕食は上の空、夜にはムーと顔を歪ませていたである。

ドリアードの言い分は、こうだ。


木の精霊ドリアードは私以外にもいます……いつか、きっと困ります」


というのは建前で。


「私もルイに、名付けてもらいたいです……!」


顔を真っ赤にして訴えたのが本音らしい。あまりの可愛さに私の思考は時間を超えた。皆して私をどうしたいの?そろそろ可愛さのショックで心臓が口からまろび出る……事はないのでテクト身構えないでください大丈夫です例えです。

つまりドリアードは、ミチが羨ましくなったらしい。名前が必要だという議論には積極的に賛成していたし、彼女をミチと呼ぶ事も嬉しかったけれど。時間が経つほどに湧き上がってきた、「私も」という同じくらい大きな気持ちに戸惑った。あまりに大きな感情の揺れに、隠す事が出来なくなって。様子がおかしいと話しかけてきた私に、つい爆発してしまったのだ。

テレパスでわかるテクトはその間、どうしてたのかって?自分の感情で精一杯なドリアードにテクトの声を聞く余裕はなかったです、とだけ言っておこう。パニックならしょうがないよね、わかるわ。

ドリアードの本音を受けた私は、むしろいいの?と首を傾げた。精霊に名付けするっていう発想がなかったから、びっくりしたっていうか。ドリアードがいいなら、私も嫌じゃないっていうか。何かニマニマしちゃうっていうか。

テクトに<ちゃんと考えてから発言しなよ>と釘を刺されたので、少し時間を貰って悩んだ。

ドリアードに似合いそうな名前って何だろう。アジサイっぽい花飾りが付いてるけど、そのままアジサイじゃ駄目だよね。英語だと何て言うんだっけ……なんとかジアだと思うんだけど、だめだ。ジアの前が出てこない。他の案でいこう。

木や植物を操る精霊なんだし、そこから考がえてもいいかもしれないなぁ。木はツリー、植物はプラント、精霊はスピリット……あんまり女の子っぽくない。んんー、混ぜようか。アジサイの案は使いたいなぁ。名前の後ろがジアって、花咲く感じがして好きなんだよね。


「ツリージア……違うな。プラジア、スピジア……リトジア。リトジアかな」


精霊とアジサイから取って、リトジア。どうだ!

私がふんすと鼻息荒くドリアードとテクトを見ると、彼女は手を合わせて嬉しそうに破顔するし、彼は<いいんじゃない?>と頷いた。オッケーいただきました!

今日からドリアードは、リトジアね!そう言って、もちろん日記にも忘れず書いたけれど。ずっとドリアードと呼んでたから、つい口から出てしまうんだよなぁ。


「ごめんね、リトジア」


素直に謝ると、リトジアは膨らませていた頬をすぐに戻して、微笑んだ。


「構いませんよ。ドリアードと呼ばれるのも嬉しいですから。拗ねたのは私のわがままです」

「大変目の保養でした、ご馳走様です」


私の顔を見て、リトジアはふふっと笑う。怒ってないようで何より。


「ですが、ルイに付けられた名前で呼ばれると、胸が感動で打ち震えるのです」

「そうなの?」

「何と言いましょうか……不思議なのですが、幸せな気分になりますね」


んー、そんなに喜んでもらえると、私もによによしちゃうなあ。


「ちゃんと名前で呼ぶね。うっかりしないように気を付けるよ」

<よかったね、リトジア>

「はい!」

「テクトはせめてパンの山から出て言おうね。胎教……卵の教育に悪い」

<ルイも言うようになったね!>


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