第三話「転」
(1)本部への侵入についての供述
米田は意識不明で発見された、ということになり、レクレーションは中止を余儀なくされた。そもそもこんな気分でレクレーションなんてできるわけないでしょう、と三江は涼しげな顔で言う。前々から感情を表にださない人間ではあった。風俗体験から事故現場までを取材する彼が言うには、「なにが気持ち悪くて何が悲しいことかなんていうものは主観でしかない」と言う。
「これがあいつの主観というやつか」
「何か言いました?」
「いや、なんでも」
不思議そうにこちらを見る油井の眼は純粋そのもので、ああ、だから彼は浮浪者になったんだな、とどこか納得してしまった。
三江から電話がきたのは、その日の夜だった。
「はい、花崎です」
相手が三江だとわかっていても、在職中の癖で、無意識に敬語を使ってしまう。一体何の用事かと身構えていたら、予想もしていなかった言葉が電話口の向こうから聞こえてきた。
『米田を殺したのは油井だよ』
「は?」
突然言われた言葉が理解できない。米田を殺したのは油井だと。そんなわけがあるか。
『そういうことにしちゃった。手っ取り早いし』
居酒屋で枝豆を頼む時の謳い文句のように、彼は少しだけ弾んだ声で言った。そういうことにした、ということは仕立て上げたと言うことだ。ろくすっぽミステリードラマを見ない花崎にも分かる。彼は偽の犯人を立てたのだ。
「……なんでそんな馬鹿なことを?」
『あんね、花崎。もう分かってるとは思うけど、うちの団体にはね、ばれちゃいけないことの方が多いんだよ。大丈夫。油井には了承は取ってるし。あいつにとっても、屋根なし金なしの今の暮らしより、雨風しのげて三食はついてくる塀の中の方が都合いいでしょ』
「お前……」
昔から読めないやつだった。行動も、考えも、目的も。それにしても、彼がここまでする理由はなんだ。
『わかってるよ。わかってるから、お前には電話したんだって。本当のことを』
そして花崎が口を開こうとした次の瞬間に、電話は切れてしまった。
停職がもうすぐ解かれる、と上司から電話があったのは、明くる日の晩だった。
『よかったな』
上司は電話の向こうで話をするものの、花崎はそうですか、と乾いた返事をすることしかできなかった。保険金でなんとか食いつないでいる現状を見ても、復職できることが客観的に見ても最善のように思われた。でもどうだ。復職して今の自分に未来はあるのだろうか。どうせ、世間からは「飲酒教師」だの「公務員のくせに」などというレッテルを既に貼られているのだ。剥がせない汚名だ。復職したところで、まともな仕事のひとつもさせてもらえないだろう。そうしてあと四十年近くを窓際族として暮らすのだ。ばからしくてやっていられない。税金で遊ぶことがそんなに罪か。税金で食べていっているから、何もかも制限して生きなければならないのか。上司は暖かい言葉をかけてくれるが、頭の中では誰かを罵倒し、自らを罵倒する人々の言葉が飛ぶ。それを知ってか知らずか、少し間をおいて、手始めに少人数指導でもやってみるか、と独り言のようにぼやいた上司の声に、花崎は無意識に「はい、ありがたいです」と返事をして、電話を切った。
復職できる。それは今の自分にとっては光明であるはずだ。
このタイミングで団体を抜ければ、何も知らない風を装ったまま、大人しく謹慎していたように見せかけて普通に生きていける。少なくとも見た目は。しかし、心のどこかでそれに異議を唱える自分がいた。既に切れてしまった携帯電話を眺めながら花崎は、レクレーションでの油井とのやりとりを思い出していた。
『復職は、できそうなんですか』
『まぁ、上手くいけば、ですけど。いつになるかはわかりませんが』
『そうなんですね。よかったじゃないですか』
ざくざくと小気味いい音を立てながら、油井と花崎は紅葉が落ち始めている山道を歩いていた。
『まぁ、そうなんですけど』
『気乗りしません?』
『一度やらかしてますからね』
秋にはなったものの、ある程度着込んだ上に、距離を歩けばじっとりと汗をかいてしまう。ねばねばとした汗をかいた首筋がかゆくて、思わず爪でひっかくと、赤い痕が残った。その花崎の首にできた赤い傷を眺めながら、油井はうっすらと笑みを浮かべる。
『僕はね、帰る場所がここしかないんですよ。だから、花崎さんみたいな人が、とてもうらやましいんです』
油井は半笑いの顔でそう言った。
いてもたってもいられなくなり、玄関扉を開けると涼しい夜風が部屋の中に入ってくる。着ているものは部屋着用のジャージだが仕方がない。以前のようにビールの缶も、嘔吐物の染みも残っていない床から雑にサンダルを拾い、鍵を閉めて外に出た。そして花崎の足は無意識に、油井の“寝床”に向いていた。無駄に広く、緑が多い公園だと言っていた。四季が感じられていいんですよ、と笑っていた油井の顔が、今は思い出すだけでも辛く感じる。
「あれ?花崎さんじゃないですか」
前に油井から聴いた場所を必死に思い出しながら歩いて行けば、幸運にも彼は容易に見つかった。夜の闇でよくわからないが、確かに樹木が多く、芝生が気持ちよさそうな広い公園だった。もう寝るところですよ、と花崎の眼の前で無邪気に笑う青年は、どう見ても殺人を犯した人間とは思えない。
「三江から聴きましたよ。あなた―――」
「ああ、そうなんですか。ええ、そうです。私がやりました」
「違うでしょう?冤罪なんでしょう?あなたが、米田さんなんて殺すわけないじゃないですか!」
夜半だというのに大声を出すのをとめることができなかった。花崎の言葉を聴いた油井は一瞬だけきょとんとして、すぐに破顔する。
「ああ、三江さんそんなことまで喋っちゃったんですね。ネタバレ、ネタバレ」
そう言うと、油井は枕にしている段ボールの下からワンカップの日本酒を取り出した。
「呑みます?」
「いや、僕は、」
「冗談ですよ」
けらけらと笑いながら、油井は日本酒の瓶を開けた。
「悪くない取引です。俺にとっても彼女にとっても」
「は?」
彼女とは一体誰なのか。顔に出ていたのか彼はまた笑って酒瓶に口をつける。
「いや、それはどうでもいい話なんですけどね」
「はぁ」
「花崎さんは、米田さんが知りたがっていたものって、何だか気になりませんか?」
「は?」
「俺ねぇ……多分そろそろ刑務所のお迎えがきちゃうんですけど。その日が近づくにつれて、米田さんが最後に見たものが何だか気になってしまって……。それってたぶんやばいやつだったんでしょ?だから米田さん殺されちゃったんでしょ?」
油井がなけなしの金で買ったと思われるワンカップの日本酒が、月明かりに照らされてやけに目に映える。
「なんでそんなこと、」
「三江さんに言われたってのもあるし……分かるんですよ。なんとなく。付き合い長かったから。だから最後に、あの人が観ていたもの、見てみたいんです」
心のどこかで、ようやく捕まって家なしの生活から逃れられる、という想いもあったのかもしれない。冤罪だと分かっているのに、それを受け入れようとしている油井の目は、どこか安堵の色が漂っていた。
「あとね、ちゃんと、さよならしないと。お世話になったから。そうしないと、多分あの人、もう会いに来てくれないからね」
そう、油井は笑いながら言った。
油井は誠実な男だった。そのまじめさが仇となってすべてを失ってしまったのだと米田は言っていた。親身になって何かを遣りすぎてしまう質だが、人を疑うことを知らないのだと。だから、やってきたことがすべて裏目に出てしまうのだと。だから、すべてを手放してしまったのだと。一度だけ、米田は泣きながら言っていた。
そこまで言われた男が、最後にやりたいと言ったことだ。
「わかりました。やりましょう」
先ほどの上司との会話とは比べ物にならないほどはっきりした意思を持って、花崎は返事をすると、なんだか復職の話をした時より生き生きしてますね、と油井は微笑んだ。
決行は米田の月命日に決まった。ちょうどその日が満月なのだそうだ。それがどうした、と内心想いながらも、花崎は無表情でそれを了解した。人の死など、特に思い入れのある人物でなければ、一ヶ月もすれば記憶からほぼ薄れてしまう。例えば、ワイドショーを見ていて芸能人が死んだニュースが流れても、自分がよく知らない俳優であったりしたならばまったく記憶に残らない。近所のおばあさんが亡くなったと言われても、挨拶をする程度だったなら痛くもかゆくもない。一時の寂しさは人間のエゴだ。
それでも人々は人が死んだら悲しまなければならないという謎の精神を持っている。そんな義務などどこにもないというのに。
団体の本部は、セキュリティはほぼ掛けられていないに等しく、一般住居用の鍵以外の防犯設備を有していなかった。その一般住居用の鍵でさえ、恐らくふつうの泥棒に言わせて見れば、生ぬるい部類に入るのは素人目にも明白だった。
「鍵なんてね、仕組みさえ分かれば開けられるんですよ」
そう言いながら、鍵穴に針金を差し込んで回すとカチャリと漫画のような音が鳴った。
「ほらね」
古いからなぁ、と嗤いながら扉を開けると、初めて三江と幸田と一緒に足を踏み入れた時と変わらない風景が広がっていた。無駄に広い内部。板張りの床。最小限の照明器具は、ここにいる住民が既に寝ていることを暗示していた。
「入会するときくらいしか本部になんて入りませんもんね」
小型の懐中電灯を口にくわえながら、まるで見取り図を見たかのようなスピードで歩き始める。
「……油井さん」
「なんですか?」
懐中電灯を手に持ち替え、油井は花崎の方を振り向くことなく答える。
「何で油井さんは、入団したんですか?」
「今さら話すことでもないですよ。ただ、」
「ただ?」
「見捨てられなかった。……幸田さんの顔を見たら」
「え?」
「それだけですよ」
玄関ホールの傍にある階段を音をさせないように慎重に登れば、長い廊下が見えた。そして、階段から直進してすぐ左側に巨大な逆さ十字が吊された木製の扉があった。
「さぁ……これが米田さんが求めていた答えです」
油井がドアノブに手をかけた時、後ろから、何をしているんですか、と冷たい声がした。
(2)幹部との会話についての調書より
「何をしているんですか?」
もう一度、男の声がした。声の主は分かっている。三江だ。
「うかつでしたね。まさかあなたがいるなんて。いつもは家に帰っているでしょう?」
「大祭前だから色々やることがあるんですよ。で、殺人犯と飲酒教師が二人で何してるんです?罪を重ねるつもりで?」
コツコツと革靴が音を立てながら近づいてくる。白いその服は、よく見れば寝間着ではなく白衣だった。手には白い手袋をしている。まるで、何かの実験をしていたかのような様相だ。
「最後にね、米田さんが見たかった―――いや、会いたかった人に会いに来たんです」
「へぇ。油井さんは彼女が何だか知っているみたいですね?」
「ホームレスの情報網をなめてもらっては困ります」
三江がすぐ傍まで来ても、油井はドアノブにかけた手を外す素振りは見せなかった。そこに何があるのかを知っていて、何が起こるのかを全て知っている風だった。そのやりとりを見ながら、花崎は、自分は余計なことに巻き込まれてしまったのではないかと思い始めていた。少なくとも、その扉が開けられるまでは。
「仕方ないなぁ。花崎にはしゃべっちゃったしさぁ。最古参同士のやり合いなんてビッグニュース、面白い以外の何物でもないんだけど」
そう言いながら、三江は白衣の内ポケットからシリンダー式の鍵を取り出して扉の鍵穴に差し込んだ。巨大な逆さ十字が飾られた扉が、音を立てて開錠される。
「さぁ、これが、みんなが崇めている答えだよ」
扉をあけると、真正面の壁には扉に貼られているのと同じ柄の、巨大な逆さ十字が飾られていた。しかし、目を引いたのはそこではなかった。巨大な逆さ十字の前、そこに、真っ黒な服を着せられたなにかがあった。
「ひっ」
無意識に花崎は悲鳴をあげた。そこにいたのは、マリア像でもなければ、仏でもなかった。まるで標本のような白骨化した遺体。頭には殴られた跡と思われる大きな穴が開いている以外は、綺麗に磨かれ、手入れされていた。
「女の子だ。歳は、生きていれば今二十歳過ぎくらいかなぁ。よくわかんないんだけど」
「きれいにされてるじゃないか」
油井が感心したように言う。
「幸田が毎日手入れしているからね。何時間もかけてさぁ」
三江は嘲笑気味に言うと、扉の傍にある電気のスイッチを入れた。一気に視界が明るくなり、少女の全貌が花崎の眼に飛び込んできた。彼女は黒いドレスを着せられ、生前と同じように身なりを整えられて、アンティーク調の椅子に座らされていた。部屋中に焚かれた線香は、二人の思考を鈍らせるほどに濃く、めまいを起こしそうだった。白骨化した少女の遺体を囲むように置かれた祭壇は、黒と白で統一され、赤いバラが両脇に飾られている。
「がっかりするでしょうねぇ。この正体を知ったら」
「そりゃあそうでしょうね。みんな聖なるマリア像だと疑ってないもんだから。こんなのが少女の正体を知ったらなんて言うか」
身動き一つとれない花崎をしり目に、油井と三江は淡々と話を続ける。
「そしたらこんなものっていうね。アイドルのグルーヴァーとおなじだって。俺言ったじゃん。ねぇ、花崎」
三江は呆れたように花崎の方を向いて呟くと、ガムを取り出し二人に投げた。
「大丈夫。へんな毒は入ってない。ただ、少しだけ話しをしてあげる」
「話、って」
ようやく呼吸が落ち着いてきた。
「この子が誰なのか、何でこの団体が出来たのか」
黒い四角いガムをかむと、きつすぎるミントの味が口中に広がった。花崎が思わず眉をひそめると、三江はゲラゲラと笑いながら、ちょっときつかったかね、と言う。
「十年くらい前の話だよ。ここらで起こったレイプ事件の話をご存知かね」
ガムを何粒か口に放り込みながら、三江は唐突に切り出した。
美由紀が生まれたのは、このあたりでは有名な地主の家だった。彼女には妹がいた。名前は佐代子。お人形のような子どもで、近所では有名だった。美人姉妹だと。将来は女優か何かになるんじゃないの、と言われることも多かった。その姉妹が中高生の頃、中学生を狙った連続レイプ事件が発生したのである。犯行時刻は大体夕方。中高生が下校する時間に行われた。被害者は身ぐるみを全て破られ、その端切れで手足を縛られ口を塞がれ犯された。そして、最終的に麻袋のようなものに生きたまま詰められて、人気のないところに放置されるという、特異性の高いものだった。被害にあった者は命は助かるものの、重度のPTSDを患い、社会復帰できずに自殺してしまった者も少なくなかった。
『帰る時は、必ず迎えを待つように』
レイプ犯を警戒した姉妹の両親は、少し離れた私立学校に通う姉妹に必ず迎えの者を付けさせた。それなのに、佐代子は襲われた。
それは、とても晴れた日だったという。雲一つない青空が広がっている日だった。こんな日に散歩をしたらさぞかし気持ちがいいだろう。誰しもが思うそんな日に、佐代子は襲われたのだ。あれだけ一人で帰るんじゃない、と言っていたのに、と佐代子の父親は泣いた。被害に遭った佐代子は、幻覚と幻聴を見るようになった。カウンセリングに通っても、彼女の病状はよくなることはなく、黒く塗りつぶした自画像を描いては、ねぇ綺麗でしょう、と笑っていた。美由紀が佐代子の部屋に入っても、佐代子が姉の方を向くことはなく、ただ遠くを見つめ、早くわたしを殺して、早く私を殺して綺麗にして、と淡々とつぶやくだけだった。
「お姉ちゃんは、よくお父さんとしゃべられるね。あの人だって、あいつと同じものを持ってる。なのに、よくしゃべられるね」
背中を向けたまま、質のよいネグリジェを着せられた佐代子は、からくり人形のように抑揚のない声で言う。
「佐代子」
「みんなわたしのこと汚いって云うの。汚されたって云うの。だからね、きれいにしなくちゃいけないの。わたしの中に入ったあいつの遺伝子をすべて抜き取らなくちゃいけないの。だから、ねぇ、お姉ちゃん」
少女は虚ろな目で言うのだ。
「わたしを、殺して、」
美由紀が佐代子の肩を掴んで揺さぶって、数ヶ月ぶりに見た妹の目は、既に死んだ者のそれだった。どこも見ていない。見えていない。みようとしていない。
「わたしを、殺して、」
壊れたレコードプレーヤーのようにつぶやく妹に、美由紀は為すすべもなくその場で泣き崩れた。どうしてこうなってしまったのだろう。女としての受け皿をもって生まれてきてしまったからなのか。それとも運が悪かったのか。あの日、どうして一人で佐代子は帰ってしまったのか。何を考えても結果論にしか転ばないのに。後悔と行き先のない懺悔だけが、日々美由紀の中に積み重なっていった。
そうして、季節が一周しない内に、佐代子は死んだ。
「わたしをきれいにしてください」とだけ書いた書き置きを残して、灯油を頭からかぶって火を点けて死んだ。
幸い小火で済んだために家全体が焼かれることはなかったが、佐代子の部屋にあったものはすべてが消失した。本も、ベッドも、勉強道具も。そして、佐代子自身も。
「全身やけどはね……怖いんですよ。最初は元気だけれど、徐々に弱って死んでいく」
三江は煙草に火を点けながらそうつぶやいた。
「それと、この少女に何の関係が、」
花崎は体を固くして、ガムを噛み続ける三江に訊く。答えなど既に分かっている。でも確認せずにはいられなかった。真実が知りたかった。どうしても。
「……この少女の名前は幸田佐代子。それが、答えだ」
芋虫のようだったらしい。全身を包帯で巻かれ、全身につながれた管は彼女を生かすためだけに存在していた。
「命だけでも、って言葉あるよねぇ。あれって残酷と思わない?」
三江は煙草を靴底で消し、窓の外に投げ捨てる。
意志の疎通もとれない。元気だった頃の面影を全く残していない佐代子の姿。等間隔でリズムを刻む電子音。窓から見える空は、あの日と同じように雲一つない晴れ間だった。
「話もできない、頭も動いていないかもしれない、心臓だけが動いている人間を、果たして人間と呼べるのかね。思考して行動して結果を残す―――それは極端な言い方だけど。何かしら意志を持っているのが、人間本来の姿じゃないのかね。幸か不幸か、幸田はそれに気づいてしまった。心臓だけが動いている佐代子は、佐代子だけど佐代子じゃないんだよ。だから、幸田は佐代子を殺した。―――そして持ち帰った。この家に」
「この家に?」
「この古びた屋敷はそもそも、幸田の父方の祖父母が住んでいた家だ。地主っぽいだろ。この山も、全部幸田家の敷地なんだよ。だから、好き勝手使えるってわけだ」
『もうすぐだからね』
用意した大き目のバスタブに、妹の遺体を投げ込む。包帯は皮膚に張り付き剥がすのに苦労した。万が一を考えてハンマーで頭蓋骨を叩き割った。包帯を全て剥がしてみれば、長く黒かった美しい黒髪は、一本も残っていなかった。陶器のような白い肌は赤黒く変色していて、いやなにおいが漂う。それでも、美由紀は佐代子の遺体を洗い、たっぷりと炭酸ナトリウム水溶液を入れたバスタブに佐代子の遺体を静かに沈める。彼女の肉体が綺麗に溶けるようにと願いながら。
『佐代子』
佐代子の体が日に日になくなっていくほど、炭酸ナトリウム水溶液が混濁すればするほど、美由紀の中では佐代子が生き返っていくような感覚がした。佐代子はもしかすると、こうして目の前から消えていく間に生き返っているのではないか。そう考えてしまうほどに。
妹を愛する姉の些細な妄想が、具体性を帯びていくのに時間はかからなかった。美由紀は、自らの頭の中で妹が徐々に人としての、佐代子としてのかたちを取り戻していくのを想像ではなく現実として受け取った。そして、彼女はその妹と遊ぶようになった。ある日は公園にピクニックに行き、ある日は雨で出かけられないと二人で絵本を読んだ。朝食は目覚めの悪い妹のために頭がすっきりとするものを。昼食は午後からしっかりと動けるようにボリュームのあるものを。夜は、翌朝に響かないように控えめに。
そうして過ごしている内に、佐代子は言うのだった。あの時と変わらない、純粋な目で。
『ねぇ、お姉ちゃん。寂しいから、みんなに遊びにきてもらいましょう。ここまで』
小鳥が鳴くような美しい声だったという。
「ここまでって、いったい、」
「佐代子が住んでいるところだ」
既に、三江が持っていたガムの箱の中は空になっていた。手持無沙汰になった三江は、ポケットから取り出した高タールの煙草に火を点ける。
「……空の上から、十字架を見せるために、我々は逆さ十字をつける」
それまで遠い目で話を聞いていた油井が、ぼそりと呟いた。
「そう、それが、我々が逆さ十字をシンボルとする意味、」
少女は空の上にいると誰かが言っていた。だからここにはマリア像も仏像もないんだと。湖に空の模様は反対向きに映る。だから、空から地上を見た少女に綺麗な十字架を見せるために、我々は逆さ十字を飾るのだと。
「本当に佐代子は幸田に言ったんだとよ。空の上までみんなを連れて来て、とな。
幸田は妹に待って待ってと言い続け、そして、十年の月日が流れた。そして、ちょうど今日……ちょうど今日が、その妹の十周忌にあたる日だ」
今日が何の日だと言われてたか覚えてるか、と三江はタバコで花崎の方を指す。
「……大祭の日」
「そうです。今日のために、幸田は人を操り、操られた人は人を集め続けた。そして、どうやったらみんなで彼女の元へ行けるかどうか探り続けた。その成果が、今日、試されます」
予期していたかのように油井が言ったが、花崎は既に頭がついていっていなかった。これは夢か。今まで楽しい時間を過ごした人たちを、存在しない妹が寂しがるからと、幸田は皆殺しにするつもりだ。それを頭の中では理解しているつもりだったが、夢を見ているように体中の感覚がない。
「みんなを殺すつもりか。幸田は」
念押しだった。違うと言ってほしかった。かたかたと体が震える花崎を三江は一瞥すると、冷めた目で煙草を捨てる。
「そうだっていってんじゃん。ものわかりわるいねぇ」
蔑んだ目で笑う三江の口から出た言葉を、花崎の頭は受け付けることはなかった。
(3)大量虐殺の実行に関する供述
すべてが夢であったらよかったのに。
明け方まで何度その言葉をつぶやいたのか、花崎は既にわからなくなっていた。
いつもは司会を務める三江も、今日ばかりは礼拝堂の席に座っていた。前方には、花崎を出迎えた時と同じ、真黒な衣装を着て、首から逆さ十字を吊り下げた幸田が立っている。
「本日は待ちに待った大祭の日です。設立当初から参加されている方も、途中から入会された方も、今日はお集まりいただき、本当にありがとうございます。礼拝も、レクレーションも、基本的には参加は自由でした。ですが、今日だけは、本当に今日だけは、皆様に集まって頂きたかった。前々から、開催日を知らせていたのはそのためです」
淡々と前置きを喋る幸田の後ろには、暗幕に隠された何かがあった。恐らく何人かは、その正体に気づいているのかそわそわしている。
「―――では、今日という日までお付き合い頂いた方、そして、来て下さった方に感謝を込めて、本日は日ごろから秘蔵としておりました我々の崇める少女をご覧に入れましょう」
そう言って、幸田は暗幕を引く。ようやく、お目にかかれる―――期待に輝く観衆の目の前にさらけ出された“少女”は、彼らが期待していたものとは全く違っていた。それは石像で作られた優美な曲線を描く女性像でもなければ、重厚な雄を醸し出すイエスでもなかったのだ。そこには、生前と同じ状態で服を着せられた骨格標本が、今にも歩き出しそうな雰囲気で、アンティーク調の椅子に鎮座している光景が広がっているだけだった。ある人は唖然とし、ある人は失神してしまっていた。ある人は詐欺だと喚き散らしている。阿鼻叫喚する団員たちを目の前に、幸田は満足げに微笑むと、いつの間にか手に持っていた密封された黒い袋と白い袋を同時にナイフで切り裂いた。
「さよなら、ばかなひとたち」
液体が床に飛び散り、しばらくすると二つの液体混じり合い、気化して白い煙となって天井まで上がっていく。事前に計画を知らされていた花崎は、逃げられるように祭壇から一番遠い扉の傍にいたが、その距離でも感じるほどの強烈な異臭だった。
「大層な演出ですね」
花崎の隣にいた油井はそう呟くと、気が付けば一歩ずつ前へと足を踏み出していた。まるで、何かを懺悔するような顔つきで、迷うことなくその足は祭壇の少女の元へ、いや、幸田佐代子の元へと向かっている。
「油井さん、そっちに行っては、」
なるべく煙をかがないようにハンカチを口に押し当てながら出した声は、かすれてしまって油井に届いているかよくわからなかった。けれども、その煙の元へ近づいていく油井は、花崎が声を出したタイミングで足を止めて振り返った。
「……さようなら、花崎さん」
ぼくは、さよこをほうっていくことはできない。
「え?」
佐代子、とたしかに聞こえた。
「……あ、」
あぶらいさん、と声を出そうした時、既に目の前は暗くなっていた。
次に目を覚ましたとき、花崎は真っ白な部屋の中にいた。すべてが夢だったのだろうか。全部アルコールが作り出した妄想だったのだろうか。照明がネオンのように目の前にちらついてチカチカする。起き上がろうと手に力を入れてみるがぴくりとも動かない。視線を移動させようとして首を動かそうとしても、固定されているのかこちらもちっとも動かなかった。気力がけだるさに負け、再び眼を閉じようとした時、頭の上から声がした。
「目が覚めましたか」
白い壁、白い天井と、そして白衣を着た男。ここは病院なのか。朦朧とした頭でその結論にたどりついた時、白衣の男はゆっくりと「声は出せますか」と宣った。
声。声なんて出せて当たり前だ。数年間だったが教師をやっていたんだ。だせないはずがない。そう思って喉に力を込めても、出てくるのはヒューヒューという呼気だけ。
自分に一体何があったのだろう。
茫然とした目で白衣の男を見やれば、彼は少しだけ悲しそうな顔をした。
「無理をせずに」
どうにか体を動かそうとしているのがわかったのか、優しく言葉で制される。
「……しばらくは、ゆっくりしましょうか」
そう言ったかと思えば、彼はゆっくりと白い部屋から出ていった。
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