第二話「承」



(1)老人Yの日記より(参考)

 類は友を呼ぶという言葉は大変によくできていると米田は最近考えていた。無趣味、友達もいない。ない趣味を埋めるかのようにこなしていた仕事も定年で退職してしまった。

これからどうしよう。

そんなことを考えていた頃だった。繁華街にある駅の喫煙所は、様々な人々であふれている。通勤途中のサラリーマン、専門学校の学生らしき若い女、どこへ行くわけでもない老人の暇つぶし。そんな奴らになりたくもなければ、なることができないのは米田自身もよくわかっていた。その中に、一際みすぼらしい男を見つけた。ホームレスだ、と隣に立った瞬間に分かるほどの、異臭。

「くさくてごめんなさいな」

ややくせのある声で、若くも年寄りでもなさそうな男は、手持ちの安い煙草に火を点けた。

「こんな日は空いてていいですね」

「そうだな」

喫煙所の世間話はよくあることだ。こんな時に会社で営業をしていてよかったと思う。どんな人間の会話にも、入口と出口はある。そこさえつかめば、どんな人間だって相手にできるのだ。

「おじさんは何をしているんですか」

「何も。家で煙草を吸ったら文句を言われるから来ただけだ」

「ははは、なるほどね」

誰の吐いた煙よりも、その男が吐く煙は濃かった。換気扇が発生させる気流に乗って、鼻につく。

「おもしろいこと教えてあげますよ」

「はぁ、」

何だか怪しいやつに目を付けられてしまった、と思いながら米田はホームレスへの反論の言葉を飲み込んだ。思っていた以上に厄介なやつなのかもしれない。早めに切り上げることを決めた米田は、声を一切出すことはなく、目だけで拒否の返事をして、最後の一吸をして灰皿に殻を捨てた。そして、喫煙所の扉に手をかけ、出ようとした、その時。

「アイドルのファンクラブに興味はありませんか?」

 ホームレスは、格好に合わない言葉を口走った。思わず足が止まる。

「は?」

「ファンクラブなんですよ。アイドルはアイドルでも、今はやりの女子高生アイドルとかじゃなくって。そうですね……ちょっと前に流行った、会いに行けないアイドルみたいな感じなんですけど。別に入会金も年会費も必要なし。あるのは集会とレクレーションだけです。どうですか。興味ありません?」

聴いているだけではまるで宗教ではないか。そう思ったが米田は顔には出さず、拒否の反応もせず、その場に止まった。そして、ゆっくりとホームレスの方に体を返すせば、薄汚れた一枚の紙を差し出された。

「興味があれば、ここに、」

〇九〇で始まる電話番号の上、小さく書かれた言葉。


 ”我々は少女を信仰する”


「……なんだ、これは、」

「……“我々は少女を信仰する”」

 まじないのようにホームレスの口から呟かれた言葉に、米田は一瞬たじろいだ。

「“ただし、決して恋慕を抱いてはいけない”」

「何を、言って、」

「興味が沸いたでしょう。少しは」

そう言った男が差しだした、薄汚れたメモ用紙に書かれた〇九〇から始まる電話番号に、米田が電話をかけたのはその日の夜のことだった。

『はい、幸田です』

聴こえてきたのは、静かな、高くも低くもない女の声だった。抑揚は一切なく、淡々と自分の名前を告げると、何か御用ですか、と言った。

「あの……今日、とある人から、この電話番号が書かれた紙をもらったのですが、」

『ああ、油井のことですか。話は聞いています』

「アブライ?」

『今日、喫煙所でホームレスと出会いませんでした?彼が油井です』

「あの、あなたは一体……?」

『説明を受けませんでしたか?』

言葉が足りないわね、と聞こえるか聞こえないかくらいの声量で幸田と名乗った女は言うと、話を続ける。

『我々は一人の少女を信仰する共同体です。その辺の変にお金を巻き上げるカルト教団とは違うのです。ただ一人の少女を信仰し、崇拝することで、孤独を埋め、自らに心の余裕を持たせることを目的としています。ただ一つの禁忌を除いては』

「……ただ一つの禁忌……?」

『少女に決して恋慕を抱いてはいけない』

「……それは、」

電話番号の上に書いていた文言だ。それがずっと引っかかっていた。

「それは……どういう意味なんですか」

ゆっくりと探りを入れるように声を出すが、向こうの女は物おじもせず、全く変化のない平坦な声で話をする。

『崇拝や信仰は相手に虐げられることに快感を感じる。でも恋慕は違う。恋慕は相手を征服することに快感を覚える』

「……はぁ」

『それは絶対にしてはいけない禁忌なのです。我々は少女を守らなければならない。そのために、我々は彼女を信仰する。決して少女をしいたげようとか、支配下におこうとか、考えてはいけないのです。そのための掟です。もし、それが守れるのならば―――私はあなたに入団の許可を与えましょう』

電話越しではあるが、怪訝そうな顔をして黙り込んでしまった米田を見透かすかのように、幸田は、大丈夫ですよ、と温かみをこめて言う。

『そういう名目、というだけです。みなさん、寂しさを埋めるために来ているだけなんですよ。勧誘のノルマも、お布施も、何も必要ありません。そうですね。強いて言えば、必要なものは、レクレーションや礼拝の時に出されるお茶菓子のお代金だけです』

地域の集会よりもドライでいいしょう、と彼女は念押しのように付け足して、気が向いたらご連絡ください、と言い残して電話を切った。


『その言葉に、何よりも魅力を感じました。』

『そして、私は、幸田の条件を飲み、団員になったのです』


そう米田の日記には記されていた。


(2)老人Yの本部の侵入に関する推測より抜粋

 「世界で一番怖いものは、お腹が空いて、誰ともしゃべらない日々を過ごすことなんだ」と、誰かが言っていた。


 米田は六十歳で定年を迎え、その後は再雇用制度などを使うことなく家に籠るようになった。最初の内は妻と過ごす時間が多かったが、長年夫が家にいない生活に慣れきってしまった彼女に「今日から暇だから家にいる。だから相手をしろ」と言うのは酷な話だった。その内、家にいるようになった米田とは対照的に今まで家にいた妻は家を空けるようになった。やれ習い事だの、やれ友人との食事だの、旅行だの―――そうして暫く経った時、妻から唐突に「ねぇ、一度離れて暮らしてみないかしら」と切り出された。

これが噂の熟年離婚かと腹をくくったが、よくよく話を聞いてみればそうでもないらしい。どうも妻の両親の体調が悪く、介護付き老人向け住宅を探すついでに実家を片づけたいという話だった。週に何日かは帰ってくるから、と彼女が必死な顔で言うのに納得し、その話を了承した。

最初の内には、宣言通り、週に数日間帰宅し、不在中に米田が食べる惣菜を作ったり洗濯をしたりしていた妻も、次第に米田と住んでいる家には帰ってこなくなった。電話をして確認してみれば、部屋の片づけが難航しているだの、施設が見つからないだの言っていたが、米田には何となく予想はついていた。

彼女は、一人でいる時間が心地よすぎたのだ。

もう家には帰って来ないだろうという、諦めと納得。最初から予期していたことが的中したことに関する妙な安堵感。

そこに現れたのが油井と幸田だった。

人の孤独に入り込むのは簡単だ。その隙間を埋めるのが何であれ、埋められた方はそれが善であると自動的に錯覚してしまう。人間にとって一番恐ろしいものは孤独と空腹だ。それが塗りつぶされた時、人はなんとも言えない高揚感に襲われる。それが悪あっても、闇であっても、関係のないことなのだ。

最初は米田と油井の二人だけだった団員も、日を追うごとにその数を増していった。そして、設立当初から在籍していた米田は、団員の中でリーダー的存在になるのに時間はかからなかった。次第に、増えてきた仲間で礼拝のあとはご飯を食べに行ったり、飲んだりすることも増えてきた。一人でいるのも悪くないかもしれない。そう思い始めた頃、妻の訃報を聞いた。

事故だった。車の運転をしていて、ハンドルを取られ、対向車線を走っていたトラックに突っ込んだ。同乗していたという若い男は無事で、後日挨拶にきたが、米田は面会を拒否した。

自分を捨てて、若い男とどっかに旅行にでも行っていたんだろう。そうに違いない。別にそれが甥だとしても、男女の関係のない知り合いだったとしても米田には関係なかった。このまま勘違いしていた方が幸せな気がしたからだ。そうでもないと、自分と捨てた憎しみと、それでも湧き上がってくる妻を亡くした悲しみとの葛藤に、自らの心が折れそうだった。だからこそ米田は妻が亡くなったことも、葬儀があったことも、四十九日が終わったことも団員には知らせず、いつも通り礼拝に出席し、行事への参加もそつなくこなした。そもそも、団員たちには自分の複雑な家庭事情について説明をしていなかったし、説明する義理もなかった。話したところで買うのは同情だけだ。一時の慰めにしかならない薄っぺらな、安っぽい同情はいらない。何よりも、長く隠していたことを今更言ってもどうしようもない。

妻を亡くした悲しみと、裏切られた憎しみがようやく相殺されたころ、いつも通りの礼拝の日にあった飲み会の席で、一人の団員がこう言った。


「そういえば、幸田さんが言う“少女”ってほんとにいるんですかね?」と。


「やめてくださいよ。そんなこと幸田さんに聞かれたらどうするんですか!」

赤ら顔の違う団員が笑いながらたしなめる。しかし、米田はその言葉を聞き流すことができなかった。確かにそうだ。この団体に所属して早十年目になるが、その少女の話は偶像ばかりで実態が見えない。ただ、本部にいるらしいという噂は聞いたことがある。彼女が奉られている部屋があると。

「仏像みたいなもんじゃないですか。教会にあるマリア像みたいな感じで、」

油井はこれ以上話を広げてはならないと思ったのか、優しく畳みかける。そうだ、この話題は広げてはいけない。米田の理性がそう叫んだ。しかし、一度波紋を広げた好奇心は止めることはできない。

「でも、そうだったら礼拝の時に出してきてもいいんじゃないですかね?」

米田は、酒を飲むふりをしながら、油井とその団員との会話に聴き耳を立てる。

少女はどこにいるのか。本当にいるのか。今まで自分が信じていた存在はなんだったのか。退職後の暇つぶしに始めたこの団体の集まりへの参加も、妻を亡くした悲しみを埋めるために飲み会の数を増やしたことも、そして、しゃべる相手を増やすために団員を何人も勧誘したことも。

 結局はなんのためだったのか。その少女のためなのか。幸田も三江も、自分たちに孤独を埋める機会は与えてくれるが何の見返りも求めてこない。団員を増やせとも言っていない。では、自分は何のためにこんなことをやっているのか。何のために、見えない少女のためにここまで骨を折っているのか。

「出せない事情でもあるんじゃないんですか。僕は知りませんけど」

油井のその言葉が、なぜだか米田の頭から離れなかった。


 何か月たっても、油井が発した「出せない事情でもあるんじゃないんですか」という言葉は一向に米田の頭から消える気配を見せなかった。もしかすると、元々疑問に思っていたことを封じ込めていたのかもしれない。それが、あの言葉がきっかけとなって浮き出てきたのならば、全てに合点がいく。

 その内、幸田の補佐である三江が一人の男を連れてきた。最近話題の飲酒教師だったことは、名前を聴けば明らかだった。最初は愚か者、とバカにしていたが、話してみれば素直で人当たりのいい青年だった。この青年ならまともに取り合ってくれるかもしれない。そう思って、飲み会の時に思い切って聞いてみたのだ。何も知らない風を装って。

「そういえば、幸田さんから少女のことは聞いたかい?」

「ええ、聞きましたよ。よくわかりませんでしたけど」

暇つぶしで入ったようなもんですし、と彼は笑いながらお茶を飲んでいた。アルコール依存症は酒が飲めないのだ。彼のコップにはいつもソフトドリンクが注がれている。

「気にならんか?一度も人目に触れてないんだぞ、それに、」

肩透かしのような返事に、火がついて思わず身を乗り出す。

「全然気になりませんね。そもそも、あんまり偶像崇拝に興味がないんですよ。それに今は、こうして皆さんとお話できているのがとても楽しいです」

そう笑いながら模範的な答えを言う花崎の顔に、偽りの空気は見えなかった。

 少女は実在するのだろうか。そう考え始めて既に数か月が経過していた。少女のことに深入りしてはいけない。そう考えていたのに、無意識に米田は少女に関する情報を集め始めていた。どういう容姿なのか。性格は。どこにいるのか。幸田との関係は。そして、なぜこのような団体を立ち上げたのか―――。それと並行するように、彼の中では見えない少女の像が膨れあがっていた。今まで何も肉がつけられていなかった針金細工に、少しずつ紙粘土で肉を付けていくように。着色されていなかった人形に、少しずつ色を塗っていくように。それは段々と米田の中で現実的なものとなっていった。髪は長く黒く、肌は白く、透けるようにきれいで肌触りは大理石のように滑らかだ。切れ長の眼は褐色の瞳をしている。少しずつ膨らんだ妄想は、米田の頭の中に一人の少女を作りだした。今では手にとるようにわかってしまう。それが例え、真実とは違う少女の像だったとしても。

そして、米田の中の彼女は小鳥のような声で鳴くのだ。米田に向かって縋るような声で。

『ねぇ、米田さん、どうして会いに来てくれないの』

夢の中で、彼女は確かにそう言った。

だから会いに行ったのだ。


 本部の中は薄暗く、埃っぽかった。住んでいるのは幸田だけだと聞いたことがある。集会の準備がある時は三江や由良が泊まり込んでいることもあるらしいが、ちょうど今はその時期ではない。この屋敷の中は幸田だけのはずだ。

 女一人。こんな夜中に広い屋敷をうろついているはずもない。そう思っていたのに。

「なにをしているの」と、どこかで声がした。

声がした方向を振りむけば、死に装束のような白い服を着た幸田が立っている。手には懐中電灯を持ち、もう片方の手には細長い棒きれのようなものを持っていた。

「なにをしているの。米田さん。許可も得ずに本部に入ることは不法侵入とみなすことになっているはずでしょう」

そうだったか、と会則を思い出すが、小さな文字の羅列は年老いた頭には全く入っていなかった。

「少し忘れ物をしたので……」

言ったあとで気が付いた。普段の集会で本部に入ることなど皆無であるのに。本部に忘れ物をしたなどあり得ないのだ。変な目的で侵入したのがばればれではないか。焦る米田を前に、幸田は表情を一つ変えず懐中電灯で一方向を照らし出した。そこにあったのは、逆さ十字の張り付けられた部屋の扉。

「あなたは、ここに用事があったんでしょう?少し前から報告は受けていたの。あなたがここのことを知りたがっていると」

「え?」

血の気が引いた。自分としては世間話をしているつもりだった。少女がどんな子か知らないか。どんな風貌なのか知らないか。普段なにをしているのか知らないか。どこにいるか知っているか―――。

「全員が味方だと思ったら大間違いよ」

 今日だってそうだった。誰かが言っていたのだ。本部の邸に逆さ十字の部屋があると。その中に少女がいると言っていたのだ。だから会いにきたのだ。真黒な長い髪の、透き通るような白い肌の、小鳥のような可憐な声を持った、そんな少女に。



 『会いに来て。私のことが好きなら会いに来て』

 『誰にも言わないで。私とあなたの秘密だもの』


 そう彼女がささやくから、自分は会いに来たのに。

「どうして来たの。悪いことは言わないから帰りなさい」

そう冷たく言い放つ幸田に、カチリ、と米田の頭の中にある導火線に火が付いた。相変わらず口は動くが、全く体を微動だにさせない幸田を前に、今まで溜まってきた塵のような闇が噴出する。

「あの子が会いに来てっていうから来たんだよ!この子が!この中にいる子が!どうしてもって言うから!そういうお前だってひどいじゃないか?こんな薄暗い、埃っぽい屋敷に!こんなかわいい女の子を一人閉じ込めて!」

そうわめき散らしていると、幸田がくす、と笑ったのが聴こえた。艶めかしい女が吐く息のような声だった。ふと我に返って幸田の方を見れば、突き出された刃物が見えた。棒きれのようなものはナイフだったのだ。

「会則の大原則を、あなたは分かっているかしら?」

「……え?」

「“我々は少女を信仰する。ただし、決して恋慕を抱いてはいけない”」

「は……」


 我々は少女を信仰する。

少女を奉り、崇め、彼女を守るために。


 ただし、決して少女に恋慕を抱いてはいけない。

少女を穢し、理想化し、欲望の下に置かないために。


 かつて人生でこれほど怖いことがあっただろうか。どんなに上司に怒鳴られても部下にないがしろにされても動じなかった自分が、自分の子ども、下手をすれば孫くらいの女にナイフを突きつけられて震えているのだ。確かに、今まで何の見返りも求めてこなかった幸田と、自分のために団員を集めてきた米田は、それはそれで良いの関係だったのだ。あの日、あの団員が発した言葉から膨らんでいった米田の欲は今、両者の均衡を崩そうとしている。

「我々は団員に求めない。団員も我々に求めない。あなたは自分の話し相手が欲しいために団員を集めているけれど、我々は何もそんなことは望んでいない。我々はあなたたちに集会や礼拝で会話の場を提供したけれど、あなた方はそんなことは望んでいない。でも、それを楽しんでいた。そうして我々は均衡を保ってきたのに」

ゆっくりと幸田が近づいてくる。今までに感じたことのない殺気を持って。

「ゆ、ゆるして、くれ……一瞬の気の迷いじゃないか、一瞬の……!そ、それにおかしいだろ……これだけ長く在籍しているのに、お、俺は少女の像も、写真も、見たことがないんだぞ!おかしいだろ!それに疑問を持って何が悪い!?」

「見えない少女を信仰することを了承したのはあなたよ、米田」

恐怖で足が震えて動かない。一歩ずつ近づいてくる幸田をよけようとして重心が後ろに傾いた。ぐらり、と体が揺れて頭から床に激突する。

「さよなら、」

次の瞬間、腹に鋭利な何かがうずもれる感覚がした。その次に襲ってきたのは痛み。そして、生ぬるい液体の感触。暖かな液体は、支流へ流れる川の水のように、背中へ、腕へ、足へ広がっていく。ああ、死ぬのか。遠のいていく意識の中で米田は、屠畜される豚の気持ちがよくわかったでしょ、という嘲笑に混じった言葉を聴いた。


 小鳥のような、高い声だった。



三江さん、という悲鳴にも似た由良の声がしたのは、三江が本部へ出勤してきた時だった。彼女の顔からは血の気が引いており、そして、小刻みに震えていた。

「なんだ、風邪でもひいたのかね」

照明をつけ、自動掃除機を起動させる。出勤時の恒例行事だ。ブーンというモーターの音と共に、床を徘徊する円盤状のロボットを見ながら、三江は呑気に言った。

「違う、違うんです、“部屋”の前で、」

「うん?」

「米田さんが、」

死んでいました、と力のない声で言うと、由良は膝から崩れ堕ちた。

「米田が?」

顔色一つ変えずに三江は反復すると、着ていた上着を震える由良に掛け、玄関のすぐ傍にある元は来客用の控室として使われていたのであろう部屋に入れて座らせた。背後では相変わらず自動掃除機は音を立てながら掃除をしているが、それ以外に人の気配は感じられない。

「警察に、連絡を、」

「救急車じゃないのか?」

「血が、」

「血?」

「血が溢れてたんです。米田さんの、身体から、血が、」

あふれ出るくらいの血の量ということは、それは殺人以外にありえない。失血死に必要なのは全身を流れる血液量の半分が目安だ。六十キロの人間には平均して四〇〇〇ミリリットルの血が流れている。米田は目視ではあるが恐らく八十キロ程度であることは見て取れた。概算すれば六五〇〇ミリリットルの血液が彼の生命を保ち、そして二六〇〇ミリリットル以上の出血をして絶命したと考えれば、現場に残っている血の量は容易に想像できる。

「警察……警察を、呼びましょう、ねぇ、三江さん、」

「……由良、」

呑気に米田の出血量を考えながら、由良の話を反芻していた三江は一つだけ引っかかったことがあった。

「米田が倒れていたのはどこだと言った?」

そう。米田が倒れていた場所だった。

「“部屋”の前です。……“逆さ十字の部屋”の前です」

由良の言葉を聴いた時、ふと以前米田としゃべった時の会話が思い出された。


『ねぇ、三江さん。総長は何をかくしてるんでしょうねぇ』


 ぞくり、と背筋が泡立った。恐怖や悲しみからではない。ああ、そういうことか、という納得からくる、快感、悦楽、そして優越感、なんともいえない興奮が全身を駆け巡った。

「由良」

「何、です」

「警察は呼ばないよ。由良」

「どうして、」

「いいから俺の言うとおりにしなさいな」

 これがジャーナリズムってやつだろう。三江は確信をした。


(3)人物Aについて

『負傷者が出たため、レクレーションは中止となりました』

各班長が持っていた携帯電話には、そう短い一文だけが送られてきた。負傷者、と書いていたため、米田があんな状態で発見されたと知るのは油井と花崎がいたグループの者だけだった。

「負傷者、ねぇ」

 誰のものかわからない声が木霊した。


油井が三江に呼び止められたのは、レクレーションの撤収作業を終えて今日の住処へ帰る時だった。陽が傾き、辺りを橙色に染めている。いつもならば飲み会に行くところだが、“負傷者”が出て行事が中止になったせいか、誰もそんな気が起きなかったらしく、どの人もかの人も今日は大人しく帰ってしまったのだ。油井もそんな団員の内の一人で、手持無沙汰になってしまい気の向くままに撤収作業の手伝いをしていたらこんな時間になってしまったのである。

「なんですかね」

「米田さんが何であんなことになったか知らないですかね」

油田は三江の言葉に思わず瞬きをしてしまう。この男は何を言っているんだこの男は。

「知りませんよ」

「じゃぁ聞き方を変えましょう。彼が何を知りたがっていたか知りませんか」

改めて三江の眼を見る。あいかわらず、彼の眼から感情は読み取れなかった。幸田に連れられてここへやってきて、初めて会った時からこうだった。何を考えているのか分からない。何を思っているのか分からない。何を欲しているのか分からない。だから連れてきたのだと幸田は言っていたが。

 何もわからない。彼の眼からは、何も。

 目は口ほどにものをいう、とはよく言ったものである。じゃぁ何も分からない彼の眼は一体なんなのだろう。本当に何も考えていないのかもしれない。ただ、長く三江とつきあう内に一つだけわかったことがある。彼は表に分かるところでは何も求めていない。そのかわり、自分の考えにあう真実が手に入るまで走り続けるということだ。

『信念は正義でもなんでもないんだなぁ』

そう、珍しく三江が飲み会に参加した時に言っていた。信念を押し通す人は正しい、努力をつづける人はえらい。そんなことをみんな言うけれど、本当はそんなことではないんだ、と言っていた。長くつづけている内に、それが真実となり、正義となってしまっただけだと。

彼は今、それを欲している。

自分が持っている真実を探している。

レクレーションが行われていた広場。太陽は既に半分ほど沈んでいて、オレンジ色とグレーのグラデーションが目に鮮やかだった。段々と暗がりで三江の顔が隠れていく。その奇妙な空間の中で、三江がゆっくりと口を開くのを、油井は半笑いで見つめていた。


 太陽の光が薄いまぶたを通り抜けてきたら、朝だということが分かる。春の寝床は公園の隅っこ、夏の寝床は駅の地下、秋はまた公園に戻って、冬は商店街の駐車場を間借りする。

 ホームレスになって大分長い時が経つけれども、よいと思うのは四季を体で感じられることくらいだ。ただ、その日はちょっとだけ陽気が過ぎたのだ。ほんの、ちょっとだけ。人間は気候によって体調が変わるというのはよく聞く話だ。低気圧になれば頭痛が起こる人もいれば、雨が降るというのが体調の変化によってわかるという人もいる。冬から春になれば陽気になり、秋から冬になれば気分は沈む。

 季節がちょうど冬から春へ変わっていく頃だった。太陽が昇る時間がだんだん早くなっていく。もう朝か、と思いながら、いつも通り公園に行き、そこにある水道で顔を洗い、歯を磨く。

 今日は何をしようか。役所が提供する自立支援プログラムも魅力的ではなく断り続けている。そして今日も、背広を着た優しい笑顔の彼は自分を更生させるためにやってくるのだろう。弱者を救うという優越感に浸るために。教師もそうだ。自分をだましてきた詐欺師たちもそうだ。弱者を救うため、人を育てるためという名目で、自分を陥れ優位に立ちたいだけなのだ。むしゃくしゃする。こんなにいい天気なのにどうも全くすっきりしなかった。駅で拾った新聞紙には、台風が近づいていると書いていたから、気圧が下がっているのだろう。天気がよかったのが悪いのだ。低気圧が近づいていたのが悪いのだ。

そこに少女がいたのが悪いのだ。

頭痛が治まってきたのは、既に陽が沈み始めた頃だった。オレンジ色の夕陽が辺り一面を染めている。その中を制服姿の少女が一人、うきうきしながら通り過ぎていった。彼女は膝丈のスカートに、白いブラウスを着て、三つ折りのソックスを履いていた。陶器のような白い肌。美しい黒髪。遠めからでもはっきりとわかる、清楚な美少女。先回りをして待ち構えてみれば、自分のような人間がいるとも知らない少女が、呑気にやってきた。

「このあたりに郵便局はありませんか」

はっきりとホームレスとわかる服装でそう聞いた。金のないホームレスに郵便局に用事などあるわけがない。一瞬、少女の顔が怯み、そして、悲鳴をあげようと息を吸ったのを、ホームレスの男は見逃さなかった。

「いいこにしていてよ。悪いようにはしないよ」

そこから先のことは余り覚えていない。ただ、久々に心身ともにすっきりしたような気がしたのと、太もものあたりに筋肉痛が残ったことだけを覚えている。シルクのような少女を使い古された雑巾のようにボロボロにして、自分の寝床から一番遠い公園に運んだ。

 自分がやったのはそれだけだった。悪いなんて思っていない。よくよく考えてみても、自分は悪くないのだ。悪いのは冬から春に変わる微妙な季節だったこと。天気が良すぎたこと。台風が近づいていること。―――それでも、消したと思った記憶というものは頭の隅にこびりついていた。


 それから何か月か経った時だった。大雨が降っていたような気がする。傘の一本も持っていない自分は、ずぶ濡れでいつもの公園にいた。雨に濡れるのは気持ちがいい。自分がやってきたことやされてきたことが少しずつ洗い流されるような気がするからだ。体が冷えれば冷えるほどよく、濡れれば濡れるほど恍惚とした気分になる。このまま寝てしまえば全部が終わるだろうか。自分を助けて優越感に浸ろうとする馬鹿な人間からも、この状況から抜け出せないことに苛々しているもう一人の自分も。自然と瞼が落ちてくる。前髪から落ちた水滴がまつ毛を揺らした時、小鳥のような声がした。

「あなた、暇?」

小鳥のような声がした。もう天国にたどり着いてしまったのか。思ったよりも短い道のりだった。

「生きてるの?」

もう一度、小鳥が鳴いた。さて、天国はどんなところだろう。そう期待して目を開けた彼が見たものは、天国でも地獄でもなんでもなかった。いつもの公園で、古びたベンチに座っていた。そして眼の前には、あの日、羽根を全てむしり取った白鳥と同じ顔をした少女が、目の前に立っていた。

「もし、お暇だったら、私の友達となかよくしてくれませんか?」


全部が悪い夢であればよかったのに。


そう思いながら、油井は反射的に首を縦に振っていた。

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