第一話「起」
(1)正常と異常の境目についての供述
花崎は、一昨年の春に教員として採用された地方公務員の一人だ。大学で教育学を学び、安定した道だと思い採用試験を受けたところ、たまたま通ってしまった。教師という職業は世間的に見てもイメージは良いような気がしたし、地方公務員で安定した収入もあるということで意気揚々と就職を決めた。それがそもそもの間違いであったわけだが、彼はこうなるまでその間違いに気づけなかった。
実際に就労してみると、教師と言うものはイメージだけでつくられた職業であり、実態はそれほどよいものではなかった。校務分掌、テスト作り、学級経営、親睦会行事、我の強い人間が集まっているが故の対人関係の複雑さ。生徒が登校している期間の昼休みは皆無に等しく、同じように新卒で民間大手企業に就職した同期が都会で優雅にランチだなんて話すのとは遠い世界だった。毎日、休憩時間とはいえない休憩時間を取り、夜遅くまで仕事をして、家に帰っては倒れこむように寝る。こんなはずではなかったのに、という言葉が毎晩頭をかすめていった。
そのうちに、その言葉は飲酒欲へと変わっていった。最初はビール一缶だった。しかも一番小さいものだった。それが三五〇ミリリットル缶になり、しばしばロング缶が現れるようになった。時として焼酎にもなり、日本酒にもなり、ワインにも変わる。限界が来るたびに胃液と酒が混じったものを口から滝のように吐く。いくら飲んでも吐いても酔った気にならず、ひらすら飲んでは吐き続ける日々。部屋はアルコールの匂いがこびりつき、嘔吐する場所は選ばれなくなっていた。たまに来る宅配業者が最初は女性だったのに、最近ではいかつい男しか来なくなった。
(こんなはずではなかったのに)
その日、花崎がけたたましい目覚ましの音で目を覚ましたのは午前五時のことであった。薄暗い部屋の中を這うように動きながら電気をつけ、適当にカーテンレールに吊ってあるワイシャツを着る。アイロンをかけていないのでくたくただが、それは気にならない。玄関先に脱ぎっぱなしにしたスーツの上着を着て、踵が潰れた革靴を履く。今日も昨日同様、酔っているのか酔っていないのか、正常なのか正常でないのか分からない頭の加減だ。視界は定まらず足元はおぼつく。いつものように玄関扉を開ければ、ぐしゃり、と玄関のコンクリート床に捨ててあったビール缶が足で潰れた音がした。わずかに残っていた液体が吹き出し足を濡らす。そんなことは気にならない。否、気にできない。
(俺は正常だ)
花崎は自分に言い聞かせるように足を進める。毎朝の恒例行事となった、祈りにも似た自己暗示。俺は正常。俺はおかしくない。おかしいのは今の職場。おかしいのは俺じゃない。心の中で独白を繰り返していた。そして彼は、いつものように駅にたどり着き、いつものように改札をくぐり、いつものようにホームに立っていた。そのはずだった。
それなのに。
花崎はふと気づくと視線の高さがおかしいことに気がついた。背中が痛く、手に持っているはずのビジネスバッグの感触もない。朝聞いた目覚ましよりも、けたたましい警報音が耳に鳴り響く。ざわめく周囲。自分を見下す人、人、人、人。自分が何をしているのか、どういう状況にいるのかわからなかった。
(俺はなにをしているんだ?)
「大丈夫ですか?!」
制服を着た、駅の職員らしき男が花崎に近寄ってきて声をかける。そこで自分が線路に倒れているのだと気がついた。この微妙な凹凸は線路の架線か、と呑気なことを思いながら、ゆっくりと体を起こす。
「ええ、大丈夫です、が」
「本当ですか、」
そこまで言った駅員は花崎の顔を見て口をつぐんだ。一瞬だけ顔がゆがむ。
「……外傷はないようですが、頭を打っているかもしれませんので、医務室へ行きましょう」
「いや、大丈夫です。僕、仕事に行かないと、」
医務室へなど行っていられない。花崎は職場に出勤しないといけないのだ。大丈夫です、と譫言のように繰り返していると、駅員はとうとう頭をかかえた。周りの人間も心配と呆れが混じった顔でこちらを見ている。
「俺は正常です。大丈夫です。これから仕事に行くんです。本当にご迷惑をおかけしました。ごめんなさい」
そう言うと、もう我慢ならない、という雰囲気の駅員が放った言葉に、花崎は閉口した。
「あなた、すごい、お酒の匂いがしますよ」
教職公務員が二日酔いで駅のホームから転落したというニュースは、マスコミにとって格好の餌食となった。自宅には連日報道陣が押しかけ、勤務先も対応に追われた。カーテンを完全に締め切った部屋にうずくまり、鳴りやまないインターホンの呼び鈴を聞く。お話だけでも、お話だけでも、花崎さん、お元気ですか、という、悲壮感を装いながら、隠しきれない興味をにじませる老若男女の声が、鉄製のドア越しに響く。外にでたくても出られず、宅配を利用しようにも恐怖から決算ボタンを押せない日々が続く内に、食料も日用品も底をつこうとしていた。
(こんなはずではなかったのに)
その言葉だけが頭を回る延長線。唯一光を放つ携帯電話の呼び出し音が鳴った。
『まさか出てくれるとは思わなかったよ。花崎先生、』
疲れ切った声で管理職は花崎の名前を呼んだ。先生、という敬称に酷く違和感を覚えた。先生って誰だ。誰のことを言っている。
誰でしたっけ、という言葉が口をついて出そうになったが、寸でのところで押し留まった。電話口で沈黙を続ける花崎に、管理職がやんわりと語りかける。
『ところでな。教育委員会と面談をした結果だが、』
無意識に出ていた相槌に、話を聞き取れたと判断したのか、管理職はそのまま話を続ける。面談のスケジュールから、その経緯、面談の内容まで事細かに説明をするが、頭がぼんやりとして全く頭に入って来ない。叱咤激励を繰り返してくれた管理職の、悲しみにも似た声が頭をひびくだけだ。
『―――そういうことで、花崎先生、よい機会だと思って、しばらく休みなさい』
「……そうですか」
世間は彼を見放した。
(2)勧誘についての供述
××駅で非常ボタンが押されたため、電車が詰まっています―――その放送を聴いたのは、三江がめったに乗らない電車に乗っている時だった。普段は車で通勤しているというのに、なぜだか今日は電車に乗ってみたくなったのである。そんなことを思うなんて一月に一回あるかないかだというのに、どうしてめったにしないことをした時に限って、こんなことになるのか。三江は内心イライラしながら、先ほどとほぼ風景が変わっていない車窓を見やる。すると、傍の道路を歩いているサラリーマンや女子高生が次々と自分の乗っている電車を追い越して行くのが見えた。そんなことなら、一個前の駅で降りて歩けばよかった。ここら辺の駅間は狭く、一駅だったら誤差の範囲内なのだ。もうどうしようもない後悔をしていると、カメのようなスピードだった電車は完全に止まってしまった。
周囲は落胆と疲弊で皆がつかれた顔をしていた。そりゃそうだ。皆が好きでこんな満員に近い列車に閉じ込められているわけではないのである。気づけば、周りがいそいそと携帯電話を取りだして遅刻の連絡を始めた。この路線で遅延は珍しくない。電話をかける者は大体手慣れたような雰囲気で、三江はため息をつきながら、周囲と同じように携帯電話を取り出して最近、マネージャーとしてスケジュール管理をしている女性へ電話をかけた。自分も就業時間に遅れる旨連絡をしなければならなかったからだ。
最近、というのはここ一、二年の話だ。別に転職をしたわけでもなく、もともと三江はフリーランスのライターだ。副職として定職に就くわけでもなく、ある時は飲食店で働き、ある時は深夜のコンビニにいた。一時期は日雇い労働者だったこともある。今はマネージャー兼秘書としてとある女性に雇われている。今までで一番やりがいのある仕事だった。
「もしもし……幸田さんですか。三江です。電車が止まってしまいまして。……そうですね。午後の集会には間に合うかとは思うんですが。すみません」
電話の向こうで了解された旨の返事を聴くと、三江は電話を切った。
『線路に人が侵入したため、安全確認作業を行っています。そのため、この列車は運転を見合わせています。ご乗車の皆様には大変ご迷惑をおかけしています。繰り返します―――』
改めて車内に響く無機質でこもった男性の声。
(災難だ、)
あれまで半年を切っている。大事な時期だというのに。
夜になって三江が自宅に戻り、テレビを付けてみると、どういうことか各局のニュース番組が今朝の転落事故で持ちきりだった。なんだ、いつもの転落事故では報道なんてされないじゃないか。不審に思いながらまじまじとニュースを見ていると、その転落した客が公務員で、しかも教師であったこと、そして、酒気帯びの可能性があることが示唆されていた。
『転落したのは、市内に勤務する中学教師で―――教育委員会は処分を検討しています。中学教師は仕事熱心で評判もよく、特に問題はなかったということです。中学教師の勤務する中学校では、本日、緊急の保護者会が開かれ―――』
その時、よくありがちなぼかしを入れた状態で、渦中の中学教師が勤務する中学校が映し出された。
(あれ?)
既視感があった。中学校の周辺住民、そして、中学教師の自宅周辺に住む人々へのインタビューを見るに、どうも知り合いが勤務している中学校、そして住んでいる家の周辺によく似ていた。以前に冷やかしで一度見に行かせてもらった。その時の記憶が鮮明によみがえる。
よくある鉄格子の校門。ブロック塀で囲まれた敷地。どこのランドスケープデザイナーが設計したんだというような、ありがちな植物の配置。植え方。そして、彼の家はそこから電車に乗って三駅ほどのところにあった。歩くのには遠く、自転車だと雨の日に不便だ。そういう理由で、彼は電車通勤をしていたはずだった。そう、今朝三江が乗ったのと同じ路線で。
『―――このように、自宅のカーテンは堅く閉ざされており、インターホンを押す記者たちへの応答もありませんでした。教員だけではなく、公務員全体の信頼を失いかねない今回の事案です。さて、今日はスタジオにゲストをお迎えしておりますので、その方々のお話を伺ってみましょう。では、心理学者の逢坂先生から。では先生、今回のこの事件ですが―――』
似ている。似すぎている。三江は仕事でフル回転させていたはずの頭をもう一度揺り起こし、その人物との記憶を探っていた。根はまじめ、無趣味、思い詰めるタイプの、それは大学時代の友人にほぼ当てはまる。根はまじめだから手をぬくことができない、無趣味だからストレスのはけ口がない、そして、正常な生活を送ることができない自分にイライラする―――。
「花崎……?」
この教師は日々のストレスに追われていた、そしてそれを吐き出すことができず、アルコール依存症に陥ってしまった―――朝から似たようなことを繰り返す心理学者は、腹話術師が動かす人形のように、表情筋をひとつも動かさなかった。
花崎が三江に呼び出されたのは小汚いラーメン屋だった。花崎と三江は大学時代からの友人で、花崎は堅実に就職したが、三江は「一か所に留まるのは何かが違う気がする」と言って、小さい出版社のライターになった。その内にフリーランスとなった三江は、小遣い稼ぎのようなバイトを転々としながらライターを続けていた。その仕事は多岐に及び、映画の批評、風俗の体験レポート、対談記事の編集まで行っていた。家に遊びに行けば、数えきれないゲラが床に散らばり、ノートパソコンは何台も点けっぱなしになっている有様だった。目に隈を作り、ふらふらと歩く三江を見た時は流石に、安いギャランティの仕事は請け負わなければいいのではないかと言ってしまったが、「書けと言われたんだから書くしかないだろ」と彼は自嘲気味に言ったのをよく覚えている。
そんな彼に、今は逆に気を掛けてもらうはめになろうとは。
「三江、」
「ああ、早かったな。ニュース見たよ。ご愁傷様」
食えば、と言いながら差し出された餃子とコーラの瓶。
「アルコール依存症は飲んだら終わりだからな」
笑いながら電子メモ帳に文字を叩きつける三江をにらむ。そうだ。自分はアルコール依存症。アルコール以外に依存できなかったたちの悪い輩。
「何の用事で?」
「暇してると思って」
「バカにすんなよ」
ふつうの病人には優しい公僕という社会の犬は、その信用性を保つために罪人には厳しくできている。謹慎処分になれば給料も減額される。花崎は今、念のためにとかけておいた保険金でなんとか食べている状態だった。
「おまえ、なんか趣味とかあんの?」
「……趣味?」
「そうそう、趣味。音楽、読書、アウトドア、風俗でもなんでもいい。ストレスを発散できるような趣味」
「ないな、そういえば」
元はといえばそれが発端だった。ストレスの吐き出し場もなくただただため込むだけの生活。気づけば一年が経ち二年が経った。ストレスが原因で暴飲暴食に走り体調をくずしたり、生活自体が破たんしてしまった人間は大勢いる。健康な時はバカにしていたが、今や自分もその人間のうちの一人になってしまった。
「そんな人間が集まってるんだ。俺の今の職場」
「はぁ」
言われてもピンとこない。趣味のない人間が集まる職場なんてきいたことがない。自己啓発や体力維持を謳って金を巻き上げるスポーツクラブかカルチャークラブでもやってるんだろうか。
「聴くからに怪しいな。それ」
「宗教なんだ」
「は?」
絶句していると、三江は電子メモ帳を畳み、低反発素材でできたスポンジ素材のケースにそれをつっこんだ。黒くて、中の布は赤かった。まるで人間の身体みたいだろ、と三江がぼそっと言ったのを、あえて花崎は無視をした。
「宗教みたいなもの、と言った方がいいな。一人の少女を偶像化し、その少女に心酔する輩の集まりだ。アイドルの熱狂的なファンと変わらない。ただ、我々には一つだけ掟がある」
「それは?」
「恋をしてはいけない」
「少女に?」
「そうだ。少女に恋をしてはいけない。恋慕を抱いてはいけない。心酔したり崇拝するのと恋をするのは違うんだ。この違いが何か分かるか」
「……は?」
言っている意味がよくわからない。
「心酔したり崇拝することは、相手に自分を支配してほしいという欲求の現れだと俺は考えているし、コウダもそう考えている。でもな。恋は相手を支配したい欲が出る。この差だ」
「……コウダ、って」
「そのグルーヴァーの代表だな。ヘンなやつだよ。見た目はいい方だし頭も回るが、はずれてはいけないねじがはずれている感じだな。どうだ。話すだけなら、おもしろいし暇つぶしにもなる。一回会ってみないかね」
薄く笑った三江は最後の餃子を食べきると、もう一生花崎が口にすることができない黄色い液体を飲み干した。
(3)Mについての供述
我々の仲間になりませんか、と細く高い声で彼女は言った。
幸田、とだけその女は名乗った。見た目は二十歳に届かないくらい、髪の毛は顎で切りそろえられ、前髪は眉毛の上できっちりと真っ直ぐに切られているのが印象的だった。白い肌と細い腕をしており、綺麗に並んだ歯は、彼女が育ちがいいことを表していた。
彼女と知り合ったのは、たまたま入った喫茶店だ。いくつかの長机とカウンター席で構成されたその喫茶店は、時間帯によっては嫌がおうにも相席にならざるを得ない。三江が喫茶店に入ったのはちょうど三時のお茶の時間で、店内は案の定混んでいた。その時に相席になったのが幸田だった。真黒な仕立てのよいブラウスに、プリーツの膝丈のスカートを履き、ストッキングに黒いエナメルのパンプスを履いていた。手には読み慣れたような文庫本があり、首からは逆さ十字のネックレスがかかっている。こんな場所に常日頃から来るような人間ではない、と三江は直感した。俺たちの場所を取らないでくれるか、と説教したい気持ちに捕らわれながら、三江は煙草に火をつける。
「おじさん、何の仕事してるんですか?」
「え?」
「何の、お仕事をしているんですか?」
ふと見れば、女がこちらを向いて小首を傾げている。さらりとした髪が重力に逆らって斜めに揺れる。どきりとした。性的な意味ではない。何かを見すかされているような、そんな気がしたのだ。
「今は、雑誌にちょろちょろと書いて食ってるよ。まぁまぁ楽しい」
「へぇ。なんていうお名前で?」
女は読んでいた本を閉じると、三江に向き合って質問を続ける。
「名前を出して書けるライターなんて、ほぼほぼいないよ」
「じゃぁ私が読んでいる雑誌にもかいているかもしれないんですね」
ふふふ、と笑ってから、彼女は唐突に言った。
「ねぇ、おじさん、わたしのお友達になってくれないかしら?」
ごくり、と息をのんだ。わたしのお友達、とは何なのか。本能が危機を察知したのか、額に汗がにじむ。
「わたしのともだちと仲良くしてほしいの。それだけなの」
有無を言わさず、煙草を持っていないもう片方の手を握られた。
今からおうちに来ませんか、とコンビニに買い物をしに行くような風情で言われたので思わず了解の旨を出してしまったが、よくよく考えれば妙齢の女性の家に行くわけだ、ということに気づいたのは、三江が幸田と一緒に沿線の駅に降りた時だった。おうちに、と言われた場所は山奥にあり、沿線の駅から三十分ほど歩かねばならなかった。ここまでくると最寄り駅という概念が滑稽に思えてくる。幽霊屋敷にでも連れていかれるのか、とも思うが、書くネタが増えるのならば、三十分の徒歩もこの奇妙な女の話も苦痛ではない。しかしながらリンチされる可能性もある。非常時用に用意している胸元のバタフライナイフがこんなにも心強く感じることは、今までもなかったし、これからもないであろう。
「そういえば、」
「なんだ?」
大分急な山道だが、幸田は息一つ切らさずエナメルのパンプスで器用に重心を取りながら登って行く。一方で、少しだけ上がり始めた息をしながら、三江は幸田に返事をする。
「あなたが、私のともだちとなかよくできると判断した理由が、知りたいですか?」
彼女はまたしても平坦な声で言う。肺活量が意外とバケモノ級のようだ。
「別に。知ったところでどうこうなるわけでもないでしょう?」
今それを言うか。そんな台詞が口を出そうになって押しとどめる。
「そうですね。そのとおりです」
内心イライラし始めていた。人を敬っているのか毛嫌いしているのかまったく分からない態度にも、先ほどから歩き続けて疲弊している足にも。
「……三江さんは、何も考えなくていいんですよ」
「はい?」
「三江さんは、何も考えなくていいんです。我々はただ一つの目的と規律によって動いている個々の意志の集合体です。あなたはそれに従えばいいだけなのです。どんな組織でもそうでしょう。たとえば、企業は売上をあげるために様々な策を投じ、それに不具合が出る度に規律を作って行く。そうして大規模化していくのです。アリの巣がたった一匹の女王蜂から作られるようにね。あなたがわたしの秘書として、取るべき行動を取れば、あなたは何も考えなくていい。そうすれば組織は自然に周り、私たちの周りには働きアリが集まってくる。それに私は、」
使わなくてもいいことに思考を使わなければならない現代社会が嫌いなのです、と付け足すように言いながら、彼女は数メートルはある鉄格子に手をかけた。
「一日は二十四時間しかないのに、我々はその内三分の一にあたる八時間、もしくはそれ以上の長い時間を、一つ、もしくは複数のことを考えながら生活をしないといけません。けれども、それに異論を唱える者はおかしなものと云われ続ける。それこそがおかしいことではないのですか」
「はぁ」
「あなたは今、何にも縛られない生き方をしています。それはすなわち、あなたが現代社会に数多くある組織に属していないということです。この世の中では組織に縛られていることを由として行動する人が多くて、そういう人間は大体の場合において、我々が目的を果たすことを邪魔しようとします。あなたには、その性質を如何なく発揮していただきたい。そのために、我々の規律を乱さない限りは最低限の生活と身の安全を保障しましょう。それが、我々があなたにできる最大限の報酬です」
ぎり、と嫌な音を立てながら年代物の木製扉が開く。木製の扉から伸びたけもの道が、かろうじてこの屋敷に人が住んでいることを示していた。見たところは年代物の洋館で、レンガ造りの壁面は手入れがあまりされていないのか妙な劣化具合が見られる。曇った硝子には暗い色のカーテンが掛けられ、唯一華やかさを放つものであろう玄関扉のステンドグラスでさえも、この空間では怪しさを引き出す小道具になり下がっていた。黒い塗装がされた屋敷の扉を開けると、薄暗い板張りの廊下。玄関ホールから真っ直ぐに伸びた階段。どうも平屋作りではないようだ。
「二階もありますが、お疲れかと思うので後々ご案内します」
と幸田は言うと、玄関ホールのすぐ傍にあるゲストルームに三江を案内した。
「あなたは今日からここに住むといいです。ああ、ご自宅があるならここを書斎として使ってもいいかもしれませんね。少しほこりっぽいですが、掃除をすれば使えます」
諾の返事をした覚えがないのに、幸田は淡々と三江が任に付くことを前提で話を進めていた。
「……あなたは、勝手にいろいろときめるのが好きなんですね」
「違うわ」
少女は、窓を開け放して枕を外にだしながらはたく。枕は傷んでいるらしく、はたく度に中の羽毛が飛び散った。
「違うって、」
「ああ、もうこれはだめだわ、」
「質問に答えて、」
「あなただから勝手にきめてるのよ」
「はぁ?」
どこにそんな確証があるというのか。三江は軽く引きながら彼女を見た。線の細いからだ。白い肌。輝く黒髪。そして、誰も信用していない、誰も愛していないというような、感情のこもっていない瞳。
この女は傀儡だ、と三江は背筋に寒気が走るのを感じた。
「あなたはどこへも行かないわ」
だって、あなたはすがるものもすがりたいものもないもの。
彼女はうつろな目で云うと、薄く笑った。
(4)リーダーKについての供述
「いったい、どこなんだよ、ここは!」
先ほどから何度尋ねても、三江は荒れた山道を淡々と歩くだけで返事をしようとしなかった。ちっ、と心の中で舌打ちをしながら、花崎は三江の後ろを着いて行くのがやっとになっている自分の身体を呪った。暫く引きこもっている間に、こんなにも体力が落ちているとは。もちろん、それはそれ以前の不摂生も引き金となっているのだろうが。
「……だいじょうぶか?」
「なん、とか、」
ぜぇぜぇと息をしながら、利き手で木の幹を掴む。ぱきりと足元で小枝が折れる音がした。
「そこだ、あとちょっと耐えろ」
そう言いながら指さした先にあったのは、古びた洋館だった。壁一面が蔦で覆われており、外壁はくすんで元は何色だったかさえ分からない。全く手入れがされていない山だった。周りは樹木で覆われており、かろうじて日光が差し込むくらいである。
「……うつ病になりそうだな」
「お前に言われたかねぇよ」
三江は失笑しながら花崎の方を見た。花崎が追いつくまでみていようとも思ったが、洋館の方から人の気配がして、三江はすぐにそちらの方を向いた。
「……お待ちかねだ」
ぼそりと呟いた、三江の視線の先に女性が立っていた。青白い肌、眉で切りそろえられた髪、髪は漆黒で、顎の位置で切りそろえられ、何も光を映してないような眼をしていた。人形のようだった。
「こんにちは。ようこそいらっしゃいました」
使者、とも言うべき真黒な一枚布でできた服は、教会で神父が着ているそれに似ていた。首には逆さ十字のネックレスが飾られている。
「こん、にちは……」
声を絞り出すのがやっとだった。独特のオーラ。下手なことを言えば、自分は今すぐ殺されてしまうのではないかと言うような眼差し。操り人形。そう呼ぶのがふさわしいのかもしれない。
「怖がらなくてもいいんですよ。我々は、その辺のボランティア団体とは違いますので」
「は、はぁ……」
勾配があるせいもあるが、段々と足が遅くなってきた。何か結界が張られているようだった。この女に近づいてはいけない。そんな気もしてくるが、花崎は歩む足を止められなかった。
「三江、先に入ってお茶を出す準備をしてください」
「わかった」
独りにするな、と言いたかったが、女の視線に遮られて言葉が出ない。頭が段々と痛くなってくる。少し前から出ていたパニック発作の症状だった。
「苦しいですか?……置いて行かれるのは」
何の意味を持つのかわからない女の言葉を聴きながら、花崎は意識を失った。
次に目を覚ましたのは、屋敷の中にあるベッドの上だった。ぼんやりとした視界の中で、二人の男女がこちらを見ていた。
「倒れるだなんてなぁ」
うちわで花崎をパタパタと仰ぎながら、三江は笑って言う。脱水かね、いやパニックか、と呑気に言う三江を横目で見ながら、彼の反対側にいた女性に目を向ける。自分を迎えた時のように、やはり光のない目でこちらを見ていた。すぐに目を合わせることができず、改めて花崎は部屋を見回した。異様な雰囲気だった。真っ黒な壁、真っ黒な天井、真っ黒な床。そして、そこに鎮座する純白の質素な椅子と小さ目のテーブル。無駄な装飾が一切省かれたそれは、一目で高級なものだと分かるほどのオーラを放っていた。自分が寝ているベッドも白いシーツで統一されており、肌触りからこちらも高級なものだと見て取れた。
「花崎さん、」
「はい、」
名前を呼ばれて否応なしに返事をして目を合わせる。やはりその瞳に光は差していない。形の良い薄い唇から、小鳥のような声が発せられた。
「我々の仲間になりませんか」
高くて細い声は、賛美歌のようにも聞こえた。
そして、次の瞬間、花崎は、条件反射のように首を縦に振っていた。
(5)団体の行事に関する調書より
団体にはただの一つだけ、破ってはいけない禁忌があった。
”ただし、決して少女に恋慕を抱いてはいけない。”
しかしながら、それが何を意味するのか、おそらく団員はだれも理解をしていなかった。
「週一回の礼拝と、月に一回の集会がある。参加は自由」
本部からの帰り道、タールの高い煙草を含みながら三江は淡々と言う。あの部屋でひと眠りした花崎は大分体調が回復し、幸田と三江と三人で軽く話をして帰った。お布施は要らないこと、団体の実施するイベントに必ず参加する必要はないこと、崇拝するのは“少女”であり、幸田ではないことを言われ、詳しくは帰りに三江から聴くことになった。軽くだが取った睡眠のおかげか、帰り道の花崎は三江に遅れずについていくことができた。
「礼拝は本部の教会に集まって礼拝をする。集会はレクレーションが主だ。礼拝のあとはだいたい自然と集まったグループで飯を食べにいったり、飲み会をしたりしているようだが、俺は残務があってそういうのには顔を出してなくてな。よくわからん」
「大学のサークルみたいなノリなんだな」
花崎は素直に雑感を述べる。
「大学のサークルにせよ、どんなグループの集会にせよ、最初ってそんなもんなんじゃないの。俺はそう思うけどな」
煙草の殻を丁寧に携帯灰皿えもみ消しながら、三江は前を向いたまま言った。そしてまたパキリ、と枝が鳴る。
「で、その……どんな人がいるんだ。その、メンバーっていうか、構成員というか」
「うーん、いろいろだよ。シングルマザーとか。奥さん亡くしちゃったおじいちゃんとか。そういう人。……お前はなんだかんだで石橋を叩いてわたりすぎなんだよ。ぐだぐだ訊く前に、試しに行ってみたらどうかね」
百聞は一見に如かずだよ、と三江は言うと、火の不始末は山火事の元だね、と笑いながら携帯灰皿に仕舞った。
参加をしてみれば確かに、団体のレクレーションはサークルの集会に似ていた。週に一回の礼拝後は、決まった人と昼食を食べに行き、そのまま飲みに行くことも珍しくなかった。ただし、花崎はアルコールを摂取することはなかった。アルコール依存症は、アルコールを「耐える」ことで事態の沈静化を見る。一口飲んだら最後だと思いなさい、と専門外来の医者は笑いながら言った。
「花崎さんは、どうしてここに入ったの?」
そんなことを考えていると、不意に隣に座っていた老人に声をかけられた。米田という名前らしい。今回の飲み会の主催者で、参加するかどうか決めあぐねていた花崎に声をかけた人物でもある。見た目は品のよさそうな初老の男性。もしかすると商社にでも勤めていたのかもしれない。初対面の人との話し方と距離感を心得ている。少なくとも花崎はそう思った。
「え?」
「三江さんが連れてきたっていうから、どんな人かと思ったんだけど、まともでびっくりしちゃって」
そうしわがれた老人は言うと、再び目の前にあるアテに向き合った。
「どんだけ三江さんは信用がないんですかねぇ」
その横から、若い男の声が入る。確か、油井という名前だった。ホームレスで家がないらしい。三江は本部に泊まってもいいと言っているらしいが、野良猫みたいで心地がいい、という理由でホームレス生活を続けている。公園で二日に一回は洗っているという服は丁寧に縫合されていて、そこらの親父よりが着ている服よりはよっぽど清潔そうだった。聴けばたまに三江が要らなくなった服をくれることもあるのだという。
「そうだな、うん、そうだ」
油井の言葉を聴いた米田が納得したようにうなずいた。
「そういえば、今度のレクレーションは何なんでしょうね」
すかさず話題をそらすかのように油井が言う。
「レクレーションって何なんですか。三江からはそうとしか聴かなかったんですけど」
「そうだなぁ。小学校や中学校やらで臨海学校とかなかったか?そこで何だ毎回ゲームだ、オリエンテーリングだやらされただろ。あんな感じだ。なぁ、油井よぉ」
見るからにあんな幼稚なことなんてやってられるか、というような顔で米田は油井に話を振る。
「不満そうに言う割には毎回米田さん楽しそうじゃないですか」
「まぁそうだな。郷に入ってはなんとやらだ。なんだかんで三江さんが作ったクイズが面白くてねぇ……。食わず嫌い……だったのかもしんねぇな!」
がはは、と笑う米田を見ながら、花崎はそうですか、と呟くことしかできなかった。この年代の人の、この酔い方にはこうしているのが一番だ。教員として働いていた時、学んだ数少ないことの一つだった。暫くそうしていると、花崎と油井の間に座っていた米田がトイレに立った。それを見計らったかのように、花崎の隣へ油井が詰め寄り、ぼそっと呟いた。
「花崎さんって、あれでしょ?ちょっと前にニュースに出てた人でしょ、」
「……あ」
今それを言うか。変な汗が額を伝って落ちる。
「あ、米田さんは気づいてないから大丈夫ですよ。あの人、あんまり頭よくないし、」
そう言いながら、油井はビールを自らのグラスに注ぎ足す。
「俺も米田さんと一緒ですよ。こんな形で失礼な話ですけどね。三江さんが連れてきたっていうから、なんでだろうってずっと考えてたんです。三江さん、あんまり勧誘には熱心じゃないんですよね。増えることに越したことはないけど、無理やり増やすのもどうか、みたいな考えの方で。……そんな人が連れてきた人でしょう?だからよっぽど訳ありなんじゃないかと思って。ちょっと調べてみたんです。お気を悪くしたらすみません。それ以上もそれ以下もないんです」
「あ、いえ……」
どうしていいか分からず困惑していると、油井は、ふふふ、と微笑んで言葉を続けた。
「米田さん、うちらの団体で一番在籍年数が長いグループにいるじゃないですか。だからちょっと偉そうにしちゃうこともあるんですけど、概ねいい人ですよ」
「そうなんですね。大体何年くらいいらっしゃるんですか、米田さんは」
「十年……そうだ、ちょうど十年ですね。設立当初からいたから、」
そういう俺もですけど、と油井は言うと、ちょうど米田がトイレから戻ってきた。
「おう、何の話してたんだい、二人でこそこそと!」
「雑談ですよ、雑談、」
そろそろお開きにしましょう、そういうと、米田はあっさり、そうだな、と言って、鞄から財布を取り出した。
次に油井と会ったのは、月に一回のレクレーションだった。
「はい、今日のレクレーションは山歩きです。とは言っても、このあたりにある山はそんなに高い山ではありませんので、そんなにつらくはないと思いますが―――」
団員の目の前に立った三江はいつもと違う感じがした。場所が礼拝堂ではなく、その前にある広場だということもあるのかもしれない。
「―――ということで、以上で説明は終わります。くれぐれも無理のないように。けが人、急病人が出ましたらすぐに本部へ連絡をお願いします。それでは、今から始めます」
その声と共に、班ごとにぞろぞろと移動を始めた。ルートが何通りかあって、それぞれが重ならないようになっている仕組みだ。コースは三江と、由良という女性スタッフが二人で考えるらしい。
「……能力の使い道を間違ってないかね」
ぼそっと呟いたが誰も聴いていなかったようで、突込みはされなかった。そもそも、この中の何人が三江の本業を知っているのだろう。もやもやとした気持ちを抱えながら班の後ろを歩いて行くと、ふと米田を見ていないことに気がついた。
「そういえば、今日米田さん見ませんね」
いてもたってもいたられなくなり、同じ班にいた油井に訊く。
「あ、そういえばそうですね」
彼は、はっとした顔で花崎の方を見た。
「こういう行事、あの人欠かしたことなかったんですけどね」
珍しいこともあるもんだ、と油井は言いながら歩を進める。
「欠席の連絡はいってるんですか?」
「行事参加も強制じゃないからね。欠席の連絡も要らないんですよ。あったとしても本部どまりだと思いますし」
あっさりと言い放つ油井に、そういうものなのか、と一人思いながら、先導されるがままに暫く林道を歩いていた時だった。
人が死んでいるぞ、と誰かが言った。
「え?」と声を出すよりも早く、眼がその姿をとらえていた。枯葉にうずもれるようにして倒れている、今日欠席していた小太りの初老の男。
米田が、死んでいた。
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