○ 都会人
「ドライヤーを貸してくれまいか」と、男は言った。
男は瀟洒な背広を着ている。本当はさぞパリッとしているのだろうけれど今はずぶ濡れである。頭にはシルクハット。滝から落ちる時は飛ばないように手で押さえていたのだろう。
「ドライヤーはないのかね」と、男は重ねて言った。
蓮太郎は、男がびしょ濡れの白いハンカチで自分の顔を拭っているのに見とれて、返事をし忘れていたのであった。ハンカチを絞るという発想はないらしい。拭いても拭きとれないどころか、むしろ余計に濡れている。しかし動作はあくまでも優雅。その様は一枚の風刺画のようであった。
「ドライヤーはありません」と蓮太郎は言った。ドライヤーなどないことは一目瞭然ではないかと思ったが、そうは言わなかった。
「ドライヤーがないだと?」と、男は心から意外そうに言った。「まぁ、ないものは仕方ない。では、ここから一番近い量販店はどこかね?」
「りょうはんてん?」
「たくさんの品物を売っている店さ。そこにドライヤーもあるはずだ」
「店……と呼べるようなものはこのあたりにはありません」見ればわかるだろうと思ったが、やはりそこまでは言わずにおいた。
「店がないだって?」と、男は目を丸くした。「とんでもないところに来てしまったようだ。ここはとんだ田舎だな……」
「お座りになりますか」と、蓮太郎は椅子をすすめた。何もないところだと思われるのが少々癪だったのである。
「どうもご親切に。では遠慮なく」と、男は椅子に腰かけた。
「これはいい椅子だ!」という声を蓮太郎は期待したが、男はやれやれといった顔をしているだけであった。
ランプが言った。「椅子を二個にするかい?」
それはなかなか悪くない考えだが。「いや、大丈夫だよ」
「でも、二個にしたら君も座れるよ」
「この椅子は一個きりの方がいいと思うんだ」
「そうなのかい?」と、ランプは残念そうに言った。
男が言った。「しばらくここで待たせてもらってもいいかね」
ランプが喋ったことについては特に気にしていないようだ。
「構いませんけれど、何を待つのですか?」
「タクシーが通りかかるのをね」
一瞬の沈黙の後、「んひんひんひ」とロバが鳴いた。
「タクシーは通らないと思います」
「タクシーが通らないだって?」叫びながら男は立ち上がった。「恐ろしい。ここは魔境か? 一刻も早く脱出しなければ。電話を貸してくれたまえ」
「電話はありません」見ればわかるはずだが、彼は一切見ないのだ。
「電話がない? じゃあ一体どうやってタクシーを呼ぶんだ?」
蓮太郎は地面に広げた旗を指さして「それを振ってみますか?」と言った。
男は頭を振りながら「いやいや、ヘリコプターを呼びたいわけじゃないんだ」と言い、がっくりとうなだれた。
「君はこんなところにいて、不便ではないのかね?」
「便利だとは思いませんが、特に不便とも思いません」
「そうか……」
男は自分の口もとに拳を当て、何事かぶつぶつと呟きながら、川に近づいていった。
「世話になったね」
「いえ、何のおかまいもできず」
「そんなことはない。椅子に座らせてくれた。なかなかの座り心地だった」
男は椅子の良さを理解していたのだ。蓮太郎は嬉しくなった。
「この礼はいつか必ず」と言って、男はどぼんと川に身を投げた。
川を流れてゆく男に向かって、蓮太郎はしばらく手を振り続けた。
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