○ 椅子

 どぼんと落ちてぷかりと浮かび上がったものは、椅子であった。

 椅子が目の前まで流れてきた時、蓮太郎はその足の一本をつかんで、ぐいっと岸辺に引き上げた。軽い。ラタン製である。

 乾くのを待ち切れず、腰掛けてみる。背もたれに丸みがあってとても具合がいい。肘掛けの高さも丁度いい。

 これは素晴らしいものが手に入った……と、蓮太郎は一人で頷いた。今まではずっと草の上に座っていたのである。一休みするぐらいなら草の上も悪いものではないが、じっとそこに居続けるとなると、湿気や虫と無縁ではいられない。

 今までの環境との比較を抜きにしても、それは優れた椅子であった。蓮太郎は一度椅子から降り、数歩離れ、改めて椅子を眺めた。飾り気なし。シートも含め全てラタン製。全体的に丸っこい形をしている。まるでオーダーメイドのようだ……と満足して、蓮太郎は再び椅子に座る。家具屋の店頭に百個の椅子が並んでいても、きっと自分はこれを選ぶだろう。

 椅子に体重を預けながら、蓮太郎は職人に敬意を払う。

 ゆりかごから墓場まで、遥か祖先から恐らく未来永劫、人は必ず座る。一日、あるいは一生のうちに、どれだけの時間を座って過ごすだろう。目覚めていて、立ったり歩いたりする必要のない時、我々は座る。臀部で体を支える。すなわち、椅子の品質は生活の質に直結するものと言える。

 文化や職種にもよるだろう。バッキンガム宮殿の正門で何時間もじっと立ち続ける番兵にとっては、椅子はさほど大切なものではないかも知れない。だが、月に二十本も〆切を抱える人気作家や、そんな人気作家を目指す素人作家にとって、椅子はもう体の一部だ。人座一体。ケンタウルスの下半身。

 蓮太郎も一日のほとんどの時間、滝から何か落ちてくるのを待つことに費やしている。座るところの良し悪しがものを言う生活だ。体に合う椅子が来てくれて本当に良かったと心から思う。

 ただ、蓮太郎は今まで、椅子を欲していたわけではなかった。椅子が現れて初めて椅子の大切さに気付いたのである――この順序は今後も極力守られるべきと思われる。よって、蓮太郎は何も求めない。期待しない。一本の樹が、陽の光も恵みの雨もカラスの糞もキツツキの嘴も稲妻も呪いの五寸釘もくだらない戦争で落とされた爆弾の破片も、全てを受け入れるように、来たものは拒まない。

 蓮太郎は目を閉じて、世界中の椅子職人に感謝を捧げる。バッキンガム宮殿の番兵も、一日の仕事を終えた後は、暖かい暖炉の前でお気に入りの椅子に座って、猫をなでたりチェーホフを読んだりするのが好きなのかも知れないのだ。

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