ハッピーターン

 それからのぼくは映画作りに没頭した。


 前田さんの求めるレベルも非常に高いものだった。


 ぼくが監督をやり前田さんが編集をやると知った寺島さんは、あからさまに納得行かない顔をしていた。


 ぼくらの班に入ることには戸惑いがあるようだった。


 しかししばらくして、彼はぼくらの班で演出をやることを承諾してくれた。


 前田さんが何か彼に言っただろうことは明白だった。


 桜井班が動き出す前に、一番最初に前田さんから言われたことがある。


『桜井くん、一つお願いがあるんだ』


『はい…何ですか?』

 放課後の部室には二人きりだった。


 ぼくは彼女の方に顔を上げた。


 胸がドキドキと鳴っているのが自分でもよく分かった。


『私に、敬語は使わないで』


『え…?』


『監督に気を使われてるんじゃ、やりづらいから』


『あ…はい』


『はいじゃないでしょ?』

 たんたんとした口調で彼女は言った。


 パソコンを見つめながら作業を続けていた。


『あ………うん』


『言いたいこと言って。私、気にしないから。違ったら違うって言って欲しい』

 初めてこちらに顔をあげた。


 その眼差しはやはりとても強い意志を感じられた。


『そうするよ』

 ぼくはそれだけ言うと、書きかけの脚本に顔を戻した。


 映画を撮る際には監督が一番偉いのだという彼女の信念が詰まっているようだった。


 そして、彼女の本気がいかに強いものかも、やはり感じた。


 そして間接的に、彼女の監督に対する想いが、そこに込められているような気がした。


 ぼくらはそれから時間があれば、殆どを一緒に映画を作ることに時間を費やした。


 彼女にもぼくにも妥協という言葉は無かった。


 勉強のために一緒に映画を見たりすることもあった。


 最初は緊張もしたりしたこともあるが、それも映画作りの話になれば、一気に消えて行くのが分かった。


 彼女と並んで映画を見ることにも、慣れた。


 ぼくは、彼女のそういう姿勢全てが好きだった。


 そして1月になり、ぼくたちの初めての作品が出来上がった。


 出来映えは、予想以上だった。


 試写上映会には多くの部員以外の人も集まり、敷島さんも見に来ていた。


 彼はぼくに、「やったな。これからも頑張れよ」と言った。


 そして彼は前田さんのもとに向かうと、二人は最高の笑顔で見つめ合った。


 前田さんの頬が赤く染まっているのは、その横顔からでもはっきりと分かった。


 最初から分かっていたことなのに、ぼくの胸は激しく締め付けられるのを感じていた。


 夕日の差し込むホールのロビーに、二人の笑い合うシルエットが長く伸びていた。


 まるで、映画のワンシーン。


 そしてぼくは、それを見つめるスクリーンの前の、観客。


 なんとも言えず、孤独だった。


 手に入らないと分かっているものを、求めることの孤独に、押しつぶされそうだった。


 スクリーンの中の人物は、別の世界の人。


 どんなに心を寄せても、どんなに近くに感じたとしても、そこには絶対に届かない距離がある。


 最初から分かっていたことなのに。


 彼女はぼくの物語の登場人物じゃ…ない、ということ。


 外に出ると、手が千切れそうなほど寒かった。


 それをこすり合わせて息を吹きかける。


 白い湯気のような吐息が目の前に広がる。


 ポケットから一つ、薄いフィルムに包まれたお菓子を取り出す。


 それを口の中に放り込んだ。


 甘くて、しょっぱい味が口の中に広がった。




 甘くて、しょっぱい。


 いつまでも変わらない懐かしい味。


 もう街路樹は、全て葉を落とし、寂しそうに風に揺らぐ。


 ぼくは、マフラーに顔をうずめた。


 溢れてはいけない気持ちが溢れ出る。


 こらえてもこらえても、それは後から後から溢れ出した。


 立ち止まったぼくの肩は、大きく揺れる。


 すべてを吐き出してしまえたら、ここで大きな声をあげて泣きわめくことが出来たら、どんなにいいだろう。


 ぼくがもっと鈍感だったら、どんなに良かっただろう。


 同じ夢を追いかけていなかったら、彼女の無表情の下にあるすべての繊細な感性を知らなかったら、どんなに良かっただろう。


 高校1年の冬。


 ぼくの恋は、果てしなく遠くて、果てしなく苦しかった。


 ハッピーターンの味が、忘れられなかった。


 あっという間に春が来て、桜の枝には花の蕾が膨らみ始めた。


 あの大きな木が桜だったということを初めて知った。


 春休みに入ってもぼくは新しい作品の仕上げに追われていた。


 体育館から卒業式の歌が聞こえていた。


 時計を見上げると11時を回ろうとしていた。


 そろそろ卒業式が終わる。


 ぼくは、体育館から出てくる卒業生の中に、目的の人物を見つけると、小走りに走り寄った。


「敷島さん!」


「おぅ桜井か」


「卒業、おめでとうございます」


「うん。ありがとう」


「春から美大生ですね。これからの活躍、楽しみにしてます」


「おぅ。お前らに負けてられねーかんな」


「はい。今年はサン映コンクールに出すつもりです」


「そっか、前田と桜井なら大丈夫だよ。頑張れよ。アイツちょっと変わったヤツだけど、よろしくな」


「……はい」


「信也ぁ」という声が聞こえ、向こうから卒業生の花を胸につけた可愛らしい女性が走り寄ってくるのが見えた。


「写真撮るから、みんなで」


「あぁ、分かった」

 敷島さんは彼女の方を見やり、微笑んだ。


 この可愛らしい女性が、敷島さんの彼女だということを知ったのは、ずいぶん前だ。


 とてもお似合いのカップルだった。


「じゃあなー」

 離れてゆく敷島さんは、こちらを振り返り笑顔を見せた。


 やはり敷島さんは、最高に格好良い。


 前田さんの姿は、どこにも無かった。


 2年は、卒業式に出ていたはず。


 きっと彼女はあそこにいる。


 ぼくは、急いでそこに向かった。


 大きな桜の下にうずくまる小さな女性の姿が見えた。


 ぼくはテニスコートを横切り、その場所に近づいて行った。


「前田さん!」


 彼女はそのまま膝に顔をうずめたまま何も言わない。


「敷島さん、行っちゃうよ!」


 それでも彼女は何も言わない。


「いいの? 言わなくて、いいの?」

 ぼくは、声を振り絞った。


 彼女はさらに固く体を縮める。


 小さく震えているのが、分かった。


「前田さん!!」


「じゃあ、なんて言えばいいの?」


 彼女は、ぼくを見あげた。


 その目は、真っ赤に充血し、大粒の涙がこぼれていた。


 その姿は、せつなくて、苦しくて、儚かった。


「好き……なん…でしょ?」

 ぼくの声は震えていた。


 彼女の目から、さらに大きな涙がこぼれ落ちた。


「好きなんでしょ? 敷島さんのこと」


「だって……、言ったって、どうしょうも…ないじゃない」


「そんなの分かんないだろ?」


「分かるよ! 私だって、そのくらい分かる。……好きな人の好きな人くらい、分かるよ…」


 好きな人の好きな人。


 その言葉に、ぼくはもう何も言えなかった。


 そっと彼女の隣に腰を下ろして、彼女の消え入りそうな泣き声を聞いていた。


 大切な人のために出来ることは、何も無かった。


 ただ、その隣にいることしか出来なかった。


 春だというのに風はまだ冷たくて、テニスコートの隅には忘れられたテニスボールが一つだけ、残っていた。


 好きな人の一番近い隣で、笑うことしか出来なかったせつなさを、よく理解出来た。


 好きな人に好きな人がいることのせつなさを、一番に理解してあげられた。


 そして、それを告げられないという気持ちも、心の底から分かってあげられた。


 高校1年の春。


 ぼくの好きな人には、好きな人がいた。


 それから1年、ぼくたちの関係は、変わることはなかった。


 彼女に、ぼくの気持ちを告げることはなかった。


 ただ彼女の隣に座って、同じ夢を追いかけて笑い合った。


 ハッピーターンの味は、心に焼き付いたが、どこかで見かけても、それを手にとることはもう無かった。


 彼女もまた敷島さんと同じ美大に進んだ。


 ぼくの心に焼き付いたワンシーンは、やはりあの冬の彼女の横顔だった。


 それが、答えだった。


 そして、1年が過ぎ、ぼくも卒業を迎えた。


 青春の色。


 それは、ぼくにとって青や白じゃない。


 ぼくにとっての青春の色。


 それは…


 夕日に染まる、赤。


 柔らかな、赤い色。


 情熱とは違う

 柔らかな赤い色。


 それでいいと、思えた。

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