ハッピーターン
中学を卒業すると、ぼくは私立の高校に進んだ。
自分の学力レベルと照らし合わせると、割と頑張ったほうだと思う。
そこの高校は映画研究部が有名なのだ。
自主制作映画のコンクールなどへの出品も意欲的で、むしろそれだけが理由で高校を決めたようなものだった。
芹沢直哉の作品は、もうすべて見尽くしていた。
やはりぼくが一番好きなのは、“彼女”の出ていた映画だ。
彼女の名前は、谷川紫音という名前だった。
ドラマなどには殆ど出ることがなく、子役時代から映画にばかり出ている。
当時はそうとうな人気だったらしい。
主演映画もたくさんあった。
それでもやはり、あの映画ほど彼女の可憐な輝きを引き出しているものはない。
彼女の持つ透明な輝きと、彼女から滲み出る憂いを帯びたミステリアスな美しさを見事に引き出していた。
やはり芹沢直哉は天才だ。
ミステリーだけじゃなく、彼の作品にはいつも驚きと情感が詰まっていた。
自分もいつか彼のような作品を作ってみたい。
ぼくはそう思うようになった。
映画研究部ではやはり脚本を担当した。
中学の時とは違い、映像の中に収めるため、ロケ場所を考慮したり、登場人物の年齢などにも配慮しなければいけなかった。
ロケ場所が見つからなければそのたびに脚本も書き直さなければいけなかった。
今までは脚本も監督も部長の敷島さんがやっていたそうだ。
ぼくが入ってからは、敷島さんとテーマや撮りたい映像やシーンなどを事前に打ち合わせて、ぼくが脚本を書いていた。
「桜井が入って映像の方に集中出来るようになった」と言われた。
彼の求めている水準に応えられているだろうことに、ぼくは満足していた。
敷島さんの作品は、とても高校生レベルではないのだ。
そんな敷島さんも大学受験のため、2学期からは部長を引き継ぐことになった。
新しく部長になったのはカメラと編集を担当していた2年の前田さんだった。
敷島さんの美しい映像美が実現できるのは、彼女抜きでは語れない。
もちろん敷島さんの構成もテーマの描き方、カット割りなど、彼の才能は1年時から注目されてたに違いない。
だけど、編集に彼女が加わってからの作品の出来映えはそれ以前のものと比べようが無かった。
実際に撮った映像をパソコンに取り込んで加工を施すのだ。
従来の編集といえば、リニア編集といって編集用の機材を使ってフィルムを編集するのが主流だった。
しかし高校生がそんな高い機材を揃えてはもらえない。
今はノンリニア編集といって、デジタルカメラで撮った映像をパソコンで編集するのが主流だ。
プロの世界でも主流になりつつある。
前田さんはそういったプロが使うソフトをいくつも持っていて、それらを使ってまるで不思議な敷島ワールドをカタチにするスペシャリストのような存在だった。
しかし、前田さんという人物は、作り出す作品の多彩な印象とは裏腹に、いつも部室の隅で淡々と作業をしていた。
前田さんは美人と言っていい容姿の持ち主だった。
しかし男子生徒からモテたり告白されるようなタイプでは無かった。
存在感があるようで、全く存在感がないとも言える人だった。
無口で必要以上には話さない。
かといってぶっきらぼうという訳でもない。
何か自分が作業していれば隣に彼女がいることすら忘れてしまう。
しかし彼女から醸し出されている雰囲気は、何か特別なものを感じさせた。
“変人”という言葉がもっともしっくりくる人だった。
いかにもリーダータイプの敷島さんとはまるで違う人だった。
前田さんが部長になってしばらくして、彼女がぼくのクラスにやってきた。
「桜井くんいますか?」
1年に敬語を使うあたりも彼女らしかった。
ぼくはドアにもたれかかる彼女に気付いて、顔を上げた。
ちょうど新しい脚本を個人的に書いているところだった。
1年の女子の隣に立つ前田さんは、やはり大人っぼくて美人であった。
「あっ…」
ぼくはなんとなく書いていた脚本を手にして、彼女のもとに向かった。
「あの…」
なんですか?というのは失礼かと思い彼女の言葉を待った。
「桜井くん、今昼休みでしょ? ご飯まだだったら一諸にどお? 部活のことで話があるんだけど」
「あ、はい。まだです」
内心ぼくはちょっと驚いていた。
それまでに実際に二人で会話をしたことは、ほとんど無かったのだ。
高校1年の秋だった。
校舎の裏側にあるテニスコートの先の空き地のようなスペース。
そこには大きな落葉樹がある。
落葉樹の葉は、まだ落ち葉になるには早かった。
彼女は大きな木の下の雑草の生い茂る地面に、そのまま腰を下ろした。
その戸惑いのない行動に、彼女がいつもここに来ているんだということが分かった。
いったい何の話だろう…。
期待というよりは不安の方が強かった。
目の前のテニスコートでは、テニス部の人たちが昼休みだというのにテニスをしている風景が広がっていた。
ぼくは遠慮がちに彼女から少し離れた場所に腰を下ろした。
前田さんは持っていたビニール袋からカロリーメイトのチョコ味とお菓子と缶コーヒーを取り出した。
おもむろにカロリーメイトの包装を剥いて彼女は口に頬張った。
「あの…」
「…ん?」
カロリーメイトを口にしながら彼女はぼくの方を向いた。
どうしたの?といった表情だ。
「あの…ここでお昼食べるんですか?」
「…あれ、いや?」
「あの…いやとかじゃないんですけど…、てっきりカフェテリアに行くんだと思って…」
「あぁ、そうなんだ。どうりで何も持ってないなって思ってたんだ」
購買に行こうかなと思ったが、その前に確認したいことがあった。
「あの…前田さん、それ…お昼ご飯ですか?」
前田さんはその質問にきょとんとして、カロリーメイトを眺めると笑顔をこちらに向けた。
彼女がこんな風に笑うのを、初めて見た。
「私カロリーメイト好きなんだよね」
そう言って今度はフルーツ味と書かれたカロリーメイトをビニール袋から取り出した。
「良かったら、どうぞ」
彼女はその箱をぼくの方へ投げた。
「あっ…はい」
思わずそのフルーツ味と書かれたカロリーメイトを受け取っていた。
「あの…」
「缶コーヒーで良ければもう1本あるよ」
彼女は缶コーヒーを右手に持ちぶらぶらとさせた。
カロリーメイトを飲み物無しじゃさすがに辛いと思い、そのコーヒーを有り難く受け取った。
「あり…がとう…ございます」
ぼくは、半ば諦めて、カロリーメイトの箱を開けた。
「桜井くんさ、監督やんない?」
突然だった。
彼女はテニスコートを見つめたまま、世間話をするような感じでぼくに言った。
ぼくは驚いて彼女の横顔を見上げた。
「あの……」
「監督やりたくない?」
「やりたくないことはないですけど…」
「けど?」
「…ぼくなんかでいいんでしょうか?」
「私は、監督のイメージする世界を作り上げるのが好き。自分で脚本とか書けないし。私桜井くんなら出来ると思うよ、監督」
あまりにも唐突な話に、戸惑っていた。
映画研究部には役者専門の人を入れて、30人ほどはいるのだ。
2年にも敷島班で演出を手がけていた人がいる。
彼もまたカメラも撮るし、編集もぼくよりずっとよく分かっていた。
ぼくはてっきり前田さんが監督をやり、彼がカメラや編集をやることになるのかと思っていた。
「あの、寺島さんは…」
「うん、彼にはまた演出を担当してもらうから」
「あの…」
「撮りたいんでしょ?」
彼女は何気なく発したが、その言葉の意味はその響きよりもずっと重たいものだった。
「…はい」
「なら、迷うことないよ」
本当にぼくでいいんだろうか、という迷いがあった。
ぼくはカメラや編集の知識もあまりない。
実際機材に触れたのは高校に入ってからだった。
「あの…どうしてぼくなんですか?」
「一人でなんでもできちゃう天才っているけどさ、私はそうじゃない人のが多いと思ってる。それぞれの役割ってあると思うんだ。一人で出来ることなんてたかが知れてる」
「それは、ぼくもそう思います」
「敷島さんはさ、みんなが言うみたいに、天才じゃないよ。
すごく努力して、勉強して、何度も練り直して、そうやって自分で手に入れた才能。
ただ自分の映画を撮りたいって気持ちだけで努力を繰り返した。
人の書いた脚本を使ったりしたこともない。
求めるレベルに達する人がいなかったから、全部自分でやるしかなかった。
敷島さんが桜井くんに脚本を任せたこと、最初はすごく驚いた。正直1年に書かせるなんて、ムチャだと思った。それで敷島作品が作れるのかなって。
だけど上がってきた脚本に目を通して、その理由が分かった。
これは面白い1年が入ってきた。みんなそう思ったと思うよ。
だから、桜井くんが監督をやるなら、私は一緒にやりたい。
そう言いにきたんだ、今日」
彼女はようやくぼくの方を向いた。
もう笑顔は無かった。
いつも無表情だった彼女の美しい顔は、緊張の色とともにほんのりと高揚しているようだった。
まるで、自分を使ってくださいとお願いされてるようだった。
敷島さんのような天才でなくぼくのような駆け出しの部員に、彼女のようなすごい人物が真剣な眼差しを向けていた。
この人、本当に映画が好きなんだ。
そして、おそらく…。
彼女にとっての敷島さんは、とても特別な存在だった。
彼女の無表情の下には、こんなにも純粋な情熱が流れていたんだと初めて知った。
「やります。まだまだきっと敷島さんにはほど遠いですけど、ぼくに……ついてきて貰えますか?」
彼女の白い肌が、一瞬にして紅色に染まる。
彼女は急に立ち上がり、手元にあったお菓子の入ったビニール袋をぼくに差し出した。
「残りあげるから! ……よろしくね…監督」
彼女は、そのままテニスコートを横切り、校舎の方へ行ってしまった。
ぼくは呆気にとられていた。
とんでもないことを言ってしまった。
そんな感覚だった。
ビニール袋を覗くとハッピーターンと書かれたお菓子の袋が出てきた。
ようやくぼくにも笑顔がこぼれた。
ハッピーターンは子供の時によくおやつとして食べたことがあった。
一つ手に取ると、その甘くてしょっぱい味わいが病みつきになった。
まだ売ってるんだな。
前田さんとこの懐かしい素朴なお菓子のあまりの不釣り合いな感じに、ぼくは心があたたかくなるのを感じていた。
袋を開けて一つ手に取る。
リボン状に結ばれているフィルムをひねりながら取った。
口に入れるとサクサクといい音を立てて、甘じょっぱいパウダーが口の中に広がった。
谷川紫音も映画の中で食べていたな。
そんな無関係なことを思い出していた。
もうすぐ敷島さんは卒業する。
3学期はおそらくほとんど来ないだろう。
彼女はどんな思いでぼくに監督をやってみないかと言ったんだろう。
春はまだ遠い。
近くて遠い。
彼女のために最高の作品を作ろう。
その決意は、晴れ渡る秋空に溶け込んで行った。
秋の雲がぼくの目に眩しく映っていた。
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