ラムコーク

「話って何かしら?」


 玲子さんがようやく控え室に来たのは、深夜の12時頃だった。


「とぼけるのもいい加減にしたらどうですか?」


 アタシはタバコに火をつけた。


「何の話かさっぱり分からないわね」

 先ほどとはまるで違った酒やけした鈍い声で玲子さんは答えた。


「人の客に手を出さないでください。あなたにはもう十分客がいるでしょ? な、が、く、この世界で働いてるんですから」


 鼻で笑うように笑みを浮かべながら言った。


「調子に乗るのもいい加減にしなさいよ」

 苛立ちをあらわにして、声を荒げる。


「調子に乗ってるのはどっちですか? いい年してみっともないですよ」

 まるで同情するかのような表情を作ってやった。


 バシン


 激しい音とともに、衝撃的な痛みが頬に走る。


 持っていたタバコは指先から弧を描いて、こぼれ落ちた。


「たかが2ヶ月くらいナンバーワンだからって調子に乗るんじゃないわよ! あんたはただ若いだけ。ちょっと可愛い新人が入ったから、相手にされてるだけ。

 いい気になんじゃないわよ!」

 全身を震わせながら叫んでいるが、そんなことに怖気づくアタシではない。


「暴力ですか? “元”ナンバーワンがこれじゃ、売り上げも上がりませんよね。いいですよ。辞めてあげても、アタシどこの店でもナンバーワンになる自信ありますから。でも…坂崎さんがなんて言うかしら?」


 坂崎は先ほど話しかけてきた、フロアマネージャーのオッサンだ。


 みるみる玲子さんの顔は真っ赤になった。


「あんたね…あんたね…」


 玲子さんはアタシに掴みかかると綺麗にセットしてある髪を握りしめて、床に叩きつけた。


 その物音の大きさに、坂崎さんが控え室の扉を開けた。


「おい。どうしたんだよ!」


 頭から生ぬるい感触が伝わった。


 その様子を見て坂崎さんは事情を一気に飲み込んだらしかった。


「おい。玲子! いったい何事なんだ! 説明しろ」


 玲子さんはアタシから手を離し、タバコを掴むとそのまま控え室から出ていってしまった。


「ミサキ何があった?」

 アタシを抱き起こしながら、険しい顔で聞いてくる。


「玲子さん、アタシが気に入らないらしいです。だから、アタシここ辞めますよ。それでいいでしょ?」


 もうどうでもいい。


「ミサキ、落ち着いて。玲子には俺から話すから。今日は取りあえず病院にでも行って来いよ、な?」



 くだらない。


 こんな仕事。


 ただ酒飲んで、にこにこしてるだけでいくらでも金が入るし。


 来るのは女を金で買えると信じてる人間しかいないし。


 別にどこで働いても変わらない。


 アタシは店から飛び出した。


 頭がズキズキと痛んだ。幸い傷は深くなく、血もすぐに止まった。


 ケータイのアドレス帳のあの行から順番に見やる。


『コウタ』


 今日はこいつにするか。


 別に、行くとことヤれる男はいくらでもいる。


 ヤってやれば男なんて、いくらでも金を出す。


 それでいい。


 アタシの価値なんて、生まれた時から、これっぽっちだって無かったんだから。


 親にさえ大切にされないのに、自分を大切にしろなんて言う大人は馬鹿げてる。


 アタシなんていつ死んだっていい。


 文句言うヤツがいたら、そいつも死ねばいい。


 だって、生きてる意味がある人なんているの?


 そんなに価値のある人なんていないでしょ?


 だから、アタシはアタシらしく好きに生きる。


 誰にも何も言わせない。


 アタシはコウタの家で朝までラムコークを飲み続けた。


 ラムコークはアタシが初めてうまいと思えたお酒だった。


 ちょっと苦くて甘いラムの芳香が体を包む。


 コークの安っぽい泡と甘味が体を駆け巡り、その後にはラムの高級な芳香が体の中に残る。


 途中コウタの友人が遊びに来たが、覚えてない。


 ヤッたかもしれないし、そうじゃないかもしれない。


 だけど、もうどうだっていい。


 明日、芹沢直哉の新作映画でも見に行くか。


 あの人の映画はいい。


 ハッピーエンドの映画なんてくだらない。


 ハッピーエンドなんて世の中にはないのだから——。



 昼過ぎに目が覚めるとコウタと友人は大学にでも行ったらしい。


『鍵閉めとけよー』


 テーブルの上に殴り書きのメモが置いてあった。


 いつも通り鍵を閉めてポストに投げ込んでマンションを出た。


 頭がズキズキと痛んだ。


 二日酔いなんて珍しいな、と思ったが、すぐに昨日のことを思い出した。


 そうか、昨日、頭切ったんだっけ。


 てゆうか、頭のおかしい女にやられたんだった。


 アタシは有楽町に向かった。


 新宿には行きたくない。


 渋谷なんてもっと嫌だし。


 誰にも合わずに済むだろう有楽町のマリオンで映画を一人で見るのがアタシのお気に入りなのだ。


 映画館に入ると、斜め前の席には中学生らしいカップルが座っていた。


 アタシとは違う世界の住人だった。



 中学2年の秋だった。


 落ち葉がひらひらと舞い落ちる歩道を一人で歩いた。


 口には色鮮やかな口紅をつけて


 アイラインを極太で引いて


 巻き髪を揺らして


 ミニスカートを履いて


 ピンヒールの音を鳴らして


 怖いものは何も無かった。


 アタシには何もなくて、何のために生きているのかも、分からなかった。


 初恋がいつだったかなんて覚えてないし、恋なんてアタシには無関係だと思ってた。


 泣いていた里香のためには、何かしてやりたいと思ってた。


 だけど、もうその理由すら無くなった。


 子供は、親に堕ろさせられたらしい。


 朝、メールが来てた。


 里香には、どんな顔をして会えばいいのか分からなかった。


 それは、ラムコークの泡と一緒に体に刻み込まれた記憶。


 中学2年の秋だった。


 明日世界が終わってもいいと、思ってた。

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