ストロベリーミルクティ

 有楽町の駅前で待ち合わせをした。


 有楽町という大人の街に来たのも初めてだったし、何より、女のコと二人で出掛けることすら初めてだった。


 なんだかとても、異空間だった。


 周りの人間が、ドラマの中のエキストラのように、さまざまな動きで通り過ぎてゆく。


 そのざわめく街の中にただ一人、立ち止まっているぼく。


 まるで舞台に立つ、主役のような気分だ。


 幕が静かに上がる前の、緊張と期待。


 時計に目をやる。


 約束よりも、ずいぶん早い時間に来てしまった。


 なんか、すごく期待しているように見られてしまいそうだ。


 初めて来る場所だから、遅れないように早めに出ただけなんだ。


 どこかで時間を潰した方が良かったんだろうか。


 それで迷ってしまったら、もっと格好悪い。


 ぼくは、いろいろと余計なことを考えてしまう頭をシャットダウンし、読みかけの推理小説を開いた。


 こうやって誰かを待つのが、一番自分らしい。


 物語はクライマックスを迎え、最後にして最大のトリックが明かされようとしている。


「桜井くん」


 横から聞き覚えのある声がした。


 視界に入る彼女に、顔を向ける。


 スカートは見慣れてる。


 制服だってスカートなんだから。


 けど、足元のウエスタンブーツのせいか、彼女はいつもよりずいぶん大人に見えた。


 ぼくは、すぐに本に視線を戻してカバンにしまい込む。


「ごめんね。待った?」


「…待ってないよ。本…読んでたから」


 もう一度彼女を見上げると、うっすらと口元には艶やかなピンク色のリップをつけているようだった。


 ぼくは恥ずかしくなり、無言のままうつむいた。


 学校で見る彼女とはまるで別人のようだった。


 心臓が口から出そうなほど、緊張していた。


「私…なんかヘンだったかな?」

 天童さんが、困ったように呟いた。


「ヘンじゃないよ…」


 可愛い。



 そう言いたかったけど、言えなかった。


「なんか…まだ、映画まで時間あるから、カフェでも行こうか?」


 天童さんははにかんで、ぼくに提案した。


「う、うん」


 先に歩き出した彼女についてゆく。


「あそこにしよ」


 天童さんは近くのカフェを指差すと、慣れたように入ってゆく。


 ぼくは、カフェなんてほとんど入ったことがない。


 小さいころには、お父さんと喫茶店に入ったことがある。


 こんなオシャレなとこじゃなくて、家の近所の、マスターが一人でコーヒーをいれているようなとこだ。


 まるで未知の世界の扉を開くようだった。


 東京のコは、みんなこんなオシャレなカフェに入ったりするんだろうか。


 横浜だって田舎じゃないけど…、ぼくのいた街は静かな住宅街だった。


 すべてがずいぶんと大人びて見えた。


 窓側の席に座り、注文を選ぶ。


 知らない名前の飲み物がたくさんあった。


 ぼくは無難に、ブレンドコーヒーを頼む。


 ぼくはコーヒーのほろ苦い感じがたまらなく好きだ。


「私は、ストロベリーミルクティをください」


「はい。少々お待ちください」


 店員はにっこりと微笑んで、立ち去ってゆく。


 ぼくはこの時に初めて、世の中にストロベリーミルクティというものがあることを知った。


 ミルクティの中に苺が入ってるものを想像した。


「ママと買い物に来ると、よくここに来るの。私ね、ここのストロベリーミルクティが大好きなんだ」


「有楽町に買い物に来るの?」


「ううん。銀座」


「ここって銀座なの?」


「うん。もうすぐ銀座だよ」


「そうなんだ。知らなかった」


 ぼくは今銀座で女のコとカフェでお茶をしている。


 まるでいつもの休日とは違う休日。


 とても非現実的なのに、気分は穏やかな幸福に包まれた。


 ストロベリーミルクティが彼女の前に運ばれて来る。


 甘い苺の香りが漂う。


 彼女はその紅褐色の液体にミルクを注ぐと、それは淡くピンクベージュ色に染まった。


 苺は入っていないようだ。


「なに?」

 じっと彼女の仕草に見入っていたぼくは、慌てて自分のコーヒーに砂糖を入れた。


「いや、どんな味なんだろうって思っただけ」


「飲んでみる?」


「え…」


「一口だけだよ」


 彼女はいたずらっぽく歯を見せて笑った。


「…うん」


 差し出されたストロベリーミルクティを口元に運んだ。


 苺の香りと紅茶の豊かな香りが体中に広がる。


 とても甘かった。


 味ではなく、包みこむ香りが、とても甘かった。


「おいしい」


「ね? 言ったでしょ?」


「うん。不思議な飲み物だね。童話の中の飲み物みたいだ」


 天童さんは声を出して笑った。


「桜井くんって面白い」


 ぼくは笑われて顔が赤くなった。


 でも、嫌じゃなかった。


 ぼくも一緒になって笑った。



 やっぱり、天童さんは素敵だ。


 そう思った。





 ぼくたちはその後カフェを出て、映画館に向かった。


 芹沢監督の最新作は、歴史ロマンの悲しいラブストーリーだった。


 この監督の作品は、悲しいエンディングが多い。


 天童さんは、横で涙を流していた。


 眼鏡を外し、その涙を拭う。


 ぼくは映画よりも、その泣き顔を見つめていた。


 女性の泣き顔は、なんでこんなに愛しいんだろう。


 とても儚くて、可憐だ。


 その涙に、その顔に触れてしまいたくなる。


 エンドロールが終わり、映画館から出る。


 まだ外は明るい。


 彼女の目頭は赤くなっていた。


「大丈夫?」


「うん。すごい悲しいお話だったね」


「うん」


 言葉もなくただ並んで歩いた。


 彼女の手が、時折ぼくの指先に触れた。


 その度に、何度も迷った。


 彼女の手を握ろうか、どうしようか。


 天童さんは、ぼくのこと、なんて思ってるんだろう。


 嫌われてはいないかもしれないけど…。


 別になんとも思っていないかも…な。


 信号の前で立ち止まった。


 温かい感触が、ぼくの手に伝わる。


 鼓動は、苦しいくらいに激しく高鳴った。


 彼女の顔を見ることは、出来なかった。


 ぼくたちは、そのまま駅まで歩いた。




 そして、繋いだ手を、また離した。


「桜井くん、今日は付き合ってくれてありがとう」


 天童さんの頬は赤く染まり、目はキラキラと輝いていた。


「ぼくの方こそ、ありがとう」


「ママと約束してるから、ここで」


「うん」


 彼女は振り返り改札に入っていく。


「天童さん!」


 彼女は驚いて振り返る。


 人生最大の勇気を振り絞った。


「また、一緒に映画来てくれるかな?」


 100年にも感じるほどの時間。


 改札越しに彼女と見つめ合った。


 次の瞬間、彼女は美しい笑顔を作った。


「うん!」


 彼女は、それだけ言うと、階段を駆け上がって行った。


 クリーム色のワンピースの裾が揺れた。


 自分で自分に驚いていた。


 自分のどこにこんな勇気があったんだろう、と。



 中学2年の秋だった。


 すべてがまだ幼くて、すべてが初めてだった。


 物語だったら、きっとなんでもないワンシーン。


 まだ物語が始まりもしないほどの出来事。


 けどぼくは、何度も心の中に焼き付くワンシーンを、巻き戻して眺めた。




 それはストロベリーミルクティの香りとともに、体に刻み込まれた記憶。


 天童さんは、その後すぐにお父さんの転勤のために、私立の学校に転校してしまった。


 ぼくたちが、もう一度映画に行くことは無かった。


 今から思えば都内の学校なんて、いつでも会いにゆける。


 でも中学生だったぼくたちの世界は、とても狭くて、別の学校に行くということは、別の世界に行くことと等しかった。


 寂しいと思ったが、それはぼくたちにはどうしようもないことだった。


 まだ、恋愛だなんて呼べるほどのものじゃない、淡い恋。


 始まってすぐに終わってしまった恋。


 ぼくに人生最高の勇気をくれた恋。


 ストロベリーミルクティの味を教えてくれた恋。


 その記憶は、ぼくの心の映画の一つになった。


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