Salut d'amour ~愛のあいさつ~
林桐ルナ
愛のあいさつ
私が生まれたのは、郊外にある小さな家の庭です。
正確には、生まれた場所は違うのでしょうが、私が生を受け名前を受けたのは、その小さな庭だと、思っています。
私がその庭に生を受けた日、玄関にはタクシーが止まっていました。
とても気持ちのいい風が吹く4月のことです。
桜は咲いていたでしょうか。
まだ小さかった私には、桜が咲いているのかどうかさえも計り知ることは出来ませんでした。
家の中からは笑い声と赤ん坊の泣き声が聞こえていました。
しばらくすると、私をここに連れて来てくれた初老の女性が、サンダルを履いてベランダから泣き止んだばかりの赤ん坊を抱えて出てきました。
私の目の前で婦人は立ち止まると、まだ小さい私の背丈に合わせるようにかがみ込みました。
次の瞬間、とても小さな手が私の手元に伸びて来ました。
それはそれは、とても小さな手です。
しかし、小さなその手には似合わないほどの力強さなのです。
私の手は、見事にもぎ取られてしまいました。
痛いことはありませんが、少し驚いてしまいました。
私の生涯で、こんな乱暴な挨拶をされたことは初めてのことだったでしょう。
「ごめんねぇ」
老婦人は私に笑顔でそう言いました。
その赤ん坊は、私からもぎ取った手をじぃっと見つめています。
「どうやら気に入ってくれたみたいだね。まだ赤ちゃんだから、こんな挨拶しか出来ないけど、蓮太朗をよろしくね」
私が生まれた日に、同じ家に赤ん坊がやって来たのです。
名前を『蓮太朗』というのだそうです。
その同じ日、老婦人は私にも名前をつけてくれました。
『レンの木』というのだそうです。
どういう意味かはよく分からなかったのですが、私にも名前があるということは嬉しいことです。
それまで、名前で呼ばれたことなど無かったのですから。
私の見る限り、蓮太朗の成長というのはとても目覚ましいものがあります。
何ヶ月もしないうちにどんどんと大きくなり、1年後には2本の足で歩くようにさえなったのです。
その時には、私もずいぶんと背が伸びて、足元には小さな木陰も出来るようになりました。
彼は危なっかしい足取りで私の足元へやって来ては、私の足元をパンパンと叩きました。
私は、これが彼なりの挨拶なのだということを知るに十分の時を過ごしていました。
私の返事は、彼に聞こえていたでしょうか。
風の中いっぱいに伸ばした手を、彼の頭の上で揺らします。
それが私に出来る精一杯の挨拶だったのです。
蓮太朗が黒いカバンを背中に毎日背負うようになりました。
私はずいぶんと大きくなり、今は塀の上から近くの風景を眺めることも出来るようになりました。
彼は家に帰ると黒いカバンを私の足元に投げ出して、私の体に小さな体を預けます。
たまにはそのまま眠ってしまうこともあるのです。
夏の強い日差しが彼の体を痛めつけないように、私はその上にそっと手を伸ばします。
それは、とても幸せなことです。
私に子守歌を歌える声があったなら、どんなに良かったでしょう。
彼は少しずつ、しかし確実に大きくなっていきました。
庭の中を走り回り、ある時は私の体によじ登ろうとさえするのです。
母親はそんな彼を叱りつけます。
そして叱られた彼は、いつも私の下で涙を流しました。
そんな彼に、私が出来ることは、そこにただいるということだけでした。
そうです。私はようやく気づいたのです。
私が出来ることは、ただ同じ場所に、同じように、いつもいるということだけだったのです。
私には、彼を慰めてあげられる声も、抱きしめてあげられる腕も、一緒に手を繋いで歩くことが出来る足もありませんでした。
しかし、嘆くことはありません。
彼が私を必要とする時は、いつも、彼が私の元へやって来てくれるのですから。
私は、ただそこにいるだけで良かったのです。
彼が紺色の同じ服を毎日着るようになったころです。
帰ってくると、彼は服も着替えないままに、私の下で泣くのです。
また母親に叱られたのでしょうか。それとも父親に叱られたのかもしれません。
私は、理由も分からず泣いている彼のそばで、じっと何時間も彼の泣く声を聞いていました。
ある時、服を泥だらけにした彼が、私の元にやって来ました。
手には、長いロープを持っています。
まだ明るい昼の空には、ぼんやりと、白い月が浮かんでいました。
彼は、そのロープを私の腕にかけると、くるりと輪を作りました。
一体何をするのだろうという疑問は、やがて不安へと変わりました。
そこに彼は自分の首を通すと、目を瞑りました。
そして、私の体をポンポンと叩いたのです。
それは、今まで彼がしてくれたどんな挨拶よりも、優しいものでした。
私に自由に走り回れる足があったのなら、どんなにか良かったでしょう。
誰かに助けを求めることが出来る声があったなら、どんなに良かったでしょう。
崩れ落ちた彼の体を支える腕があったなら、どんなに良かったでしょう。
しかし、私には、そのどれも無かったのです。
その日から彼の姿はなくなりました。
そしてしばらくして、母親と父親の姿もなくなりました。
大きなトラックに荷物をたくさん積んでいった二人は、どこか遠くに行ってしまったのかもしれません。
私はたった一人になりました。
私の足元で眠る人も、私の足元で泣いてくれる人も、私の体をポンポンと叩いてくれる人もいなくなりました。
長い冬を過ごし、春の風が私を優しく揺らすようになったころ、新しい家族がその家にやって来ました。
私の下で楽しそうに遊んでいるのは、二人の小さな姉妹です。
私は照りつける熱い日差しを遮るように手を伸ばします。
いつか彼が彼女たちと同じくらい小さな子供だった時のように。
再び、私には幸福が訪れました。
とても穏やかな幸福です。
そうやって、何十年という月日が経ち、小さな子供たちは大人になって行きました。
今では、私の名前を呼ぶ人はいません。
今は私のことを、人々は『大きな木』と呼びます。
年老いていく体に刻まれたわずかな時間一緒に過ごした少年の記憶を、思い出さなかった日はありません。
誰にも呼ばれなくとも、私の名前が『レンの木』だっということは、私の誇りです。
私の横にずっとあった小さな家もとうとう取り壊される時がやって来ました。
私もずいぶんと年老いて、あまりに大きくなりすぎました。
小さな庭を埋め尽くす老体は、きっと切り倒されてしまうことでしょう。
誰かを守るために広げ続けたこの手も、もう役目はなくなりそうです。
寒い冬を越すだけの力は、もう要らないでしょう。
私は自分の最期の時を感じました。
願わくは、もう一度、大好きだった人に会えることです。
秋も深まり、私の手ははらはらと落ちて行きます。
この最後の一枚が落ちれば、私はもう二度とその手を広げることをしなくていいのです。
玄関にはいつもの工事の車が止まっているのが見えます。
その脇に、一台の車が止まりました。
青い小さな車です。
その後部座席からは、杖をついた老人が体を小さく丸めてやって来ます。
そして、私の足元にやってくると、垂れ下がった私の腕へ、うんと背伸びをして、手を伸ばしました。
老人は、しわしわになったその手で、私の最後の一枚を掴みました。
年老いた私の手をもぎ取るのには、力などもう要らないでしょう。
老人は掴んだ私の手をじぃっと見つめています。
目には涙が溜まって、ポタリと落ちました。
私の返事は、彼に聞こえたでしょうか。
もう風にそよがせるものも私にはありません。
私の愛のあいさつは聞こえていたでしょうか。
私には、彼と同じような声も、足も、腕も、手もありません。
ただ、私には彼の涙の意味を知ることが出来る心だけがあったのです。
これほど穏やかな死というのはあるのでしょうか。
私の生涯は、幸福に満ちていました。
愛する人に愛されているということほど幸福なことはありません。
彼と同じ手も、彼と同じ足も、彼と同じ言葉も要らないのです。
私の足元に彼は腰を下ろしました。
彼の体温を感じながら、私はゆっくりと目を閉じます。
最後のあいさつは、聞こえているでしょうか。
いえ、きっと聞こえています。
あなたの声が、私に聞こえたように。
あなたと出会い、私は多くを望みました。
それはとても、叶わない願いと知りながら。
生涯の最後に叶えられたたった一つの奇跡に、ワガママな望みをもう一つ言わせてらえるのならば、
あなたよりも先に死んでゆくことが出来る幸せを、どうかあなたが悲しまないように。
いつもここからそう願っていたように。
あなたの幸せを、心から願います。
秋風が私を揺らします。
それは、とても気持ちのいい風です。
隣の紅葉の葉があなたの肩に止まります。
あとどのくらいあなたと一緒にいれるのかも分かりません。
ふとあなたは顔を上げると、工事の人に何か囁きます。
工事の男性は私を見上げると、手に持っていたノコギリで私の腕を切り落としました。
すると、とても不思議なことが起こりました。
私の体は、あなたと出会ったその時のように小さな小さな体になってしまったのです。
私の名前は『レンの木』です。
それがどういう意味があるのかは知りません。
郊外にある小さな庭で生まれました。
とても気持ちのいい風が吹く、4月のことです。
目の前には、白い髪をした老紳士が、私の小さな小さな手に、そっとその手を重ねます。
私の返事は聞こえているでしょうか。
Salut d'amour
愛のあいさつを
心より。
Salut d'amour ~愛のあいさつ~ 林桐ルナ @luna_rin
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