Episode 057 「向き合うために」
午後の授業が開始するまで残り十分弱といったところである。
カウンセリングルームを後にした智史は、自分の教室へ戻るために廊下を進んでいた。上階へ続く階段に差し掛かり、足許の段差を確認しながら上っていく。
当人にその気はなかったとしても、他人からは消沈して俯いているように見えただろう。関心を寄せている人間であれば心配して声をかけるかもしれない。
「和島か。……どうだ、調子は? クラスメイトとは馴染めてきたか?」
降ってきたのは男性の言葉だ。智史のクラスを受け持っている担任の教師である。次の授業を行うために階段を下っている最中だった。
「さあ、どうでしょう。可もなく不可もなくって感じです」
この場にいるのは二人だけ。無視をするわけにもいかないが、前向きな返事をすることも難しい。だから、答えは要領を得ない曖昧な表現に終止する。
「今のクラスに変わってからもう六月だ。二ヶ月近く経ったが……友達はできそうか?」
「…………」
質問に対処するための思考はあった。
クラスメイトの中で唯一まともに会話をしたことのある藤沢の顔を思い起こす。だからといって、友人として名を挙げられるほど結びつきは強くないだろう。
些か、嬉々として報告できそうな内容は出てこない。
「たまに早川さんと話す機会があってな。多少のことは耳にしてる。今日の昼休みもカウンセリングルームに行ってたのか?」
「はい。まあ……」
「和島にとって、あの教室は、居心地が悪いか?」
暗所を手で探るような慎重な言葉運び。傷つける意図はなく、けれど踏み込まなければ真意に近づけないとすれば。担任は放置を選ばない。
後退りしそうになった智史は、ここが足場の狭い階段であることを再認識する。
「そんなことはないんです。嫌いな奴がいるってほど関わってもいないし、誰かから嫌がらせを受けているわけでもない。環境についての不満はこれと言ってない。けど、ただ……」
智史は一度しっかりと目線を上げて担任の顔を捉える。早川と同じ、子供の選択を見守ろうと努める大人の姿がある。一人の生徒と誠心誠意向き合おうとしているのだ。
そこには嘘も偽りもない。
だからこそ、本気で拒めば無理に問い詰められることもないのだろう。始業までの時間も僅かである。後日に改めてという建て前を使うこともできた。
けれども。
――そんな同情するような優しさには、頼れない。
智史は本心を明かす決断をした。
「ずっと違和感があるんです。自分なんかが、ここにいてもいいのかなって」
「つまり、他人じゃなくて自分自身に問題があると、そう考えてるわけだ」
「そうなりますね」
確認を経て担任は溜め息を吐く。
得心したのか、共感するように頷いていた。
「おれも似たようなことを思ったことがある。教師を務め始めてから多くの生徒を見てきたが、正直に言えば、苦手な接し方をしてくる奴もいた。新任の頃なんて、ちょっとしたことで笑いものにされて随分と悩んだ日もあった。自分で選んだ職場なのに、どうしてここにいなくちゃならないのかってさ」
「それ、先生として言葉にしていいものなんですか?」
唐突に聞かされる身の上話に困惑を覚える智史。
しかし、歳上の男性は力強く訴えた。
「いいんだよ。おれも教師である前に、大人である前に、ちっぽけな一人の人間なんだから。大人数を相手にする以上、感性の合わない奴がいて当然なんだ」
予想外の主張である。反応することも忘れて、智史は立場も思考も違うはずの人間のことを見ていた。自らが行った告白を肯定されるとは思ってもいなかったからだ。
「そうは言ってもおれが教師である以上、どんな生徒に対しても関わっていくつもりだ。だけど、生徒同士は違う。嘘を前提にした関係は簡単に崩れるものだ。だから無理に友達を作れと言うつもりはない。ちゃんと向き合った上で反りが合わなかったのなら、それでも構わないと思う」
決して一人の生徒の価値観を軽視しない。闇雲に正しさを振りかざすこともない。その見識はおそらく、何度も反芻された思考に基づいている。堅く無骨な口調ではあるものの、担任は真剣に子供を導こうとしていた。
「試行錯誤して出した結論がそれなら文句は言わない。……だけど、色々なものを早々に切り捨てて簡単に諦めてしまうのは、勿体ないんじゃないか?」
問いは優しく諭すようだった。
社会の中で生きていくには他人の存在を前提とする。関わり合いが確実なものであるならば、苦手意識を払拭して滞りなくコミュニケーションを図れるように努めるべきだろう。これ自体は智史も同意するところである。
ただ、脳内の理想が勝手に現実を書き換えてはくれない。立ち止まった足場から、上にも下にも体と心は動かないままだ。
智史が答えに窮していると、チャイムの音が響いた。五時限目の開始時刻を知らせるものである。
「おっと、長話が過ぎたな」
担任は頭を切り替え、次を視野に入れる。
「助言ありがとうございました。その……善処します」
「いいんだよ、これくらい。子供は子供らしく大人を――」
不意に途切れる文句。何かを思い出したように担任は一つ訂正をした。
「いや、年齢は関係ないか。何歳になっても向き不向きに悩まされる。そういう時こそ、人は人を頼っていいんだ。おれだって早川さんにアドバイスを求めることもあるからな」
「そうなんですか?」
「この前はもっと思考を柔軟にしたほうがいいって駄目出しされたよ。どうやら普段から言動が堅苦しく見えるらしい。……まったく、早川さんには頭が下がる」
担任はむず痒そうに笑った。
普段では知ることのない大人の一面に触れて、智史も少しだけ気を楽にする。
「俺も同じです。初めて会った日からずっと、あの人には敵わないから」
「和島もそうだったか。頑張らないとな、お互いに」
「はい」
一つの認識を共有して、二人の話は終わった。
生徒たちが待つ教室へ担任は急ぎ足で歩いていく。
それを、智史はぼんやりと眺めていた。
大きな背中が、届かない場所へと消えるまで。
午後の授業に耳を傾けながら、智史は未来の姿を思い描く。
誰にも迷惑をかけないような生き方を目指していた。個人で完結させることができるのであれば、それが好ましい。本気でそう思っている。
しかし、大人であっても誰かを頼ることはあるのだと言う。立場や年齢は関係なく、人は互いを助け合って前へ進んでいくのだと言う。
一人でいることを望んでいたはずなのに、内心は落ち着かず定まらない。誰かのことを考えている自分がいる。高校二年生になるまでそのように悩むことはなかった。だが今は違う。近頃の智史は誰かと一緒に過ごす機会が増え、自他の関係性に意識を向ける時間が多くなった。環境に合わせて感情の動きが活発になり、過去に囚われる余裕が減っていた。だから油断をしてしまったのだ。
――答えられないのを責めるつもりはないよ。誰だって相手にどこまで伝えるべきかを決める自由がある。話せないことは無理に話さなくてもいい。
早川は逃げ道を用意していた。気持ちを吐き出せと強制されたことはない。言及する主導権は智史にこそあった。だから自らの意思で伝えることを選んだのである。
要因の一端を公言してしまった理由。それはきっと、人と関わることを諦めきれていないから。諦めた振りを継続できていないからだった。
結果は目に見えていて、早川が自分のことのように傷つくと予想できていても。頭の中に留めるべき行動原理を口走ってしまった。
心のどこかで、知って欲しいと願っているのか。
付かず離れずを繰り返しては、けれど遠ざけることもない。
安易な優しさを拒んだくせに、しかし完全に切り捨てることもない。
智史は痛感する。自分を騙すことが難しくなっている。その原因は当人の外にある。他人の言葉に触れることで価値観は変容する。疎かにしてきた過去の行いを塗り替えるように違う選択肢を探す。出し終えた解答を見返しては異なる糸口を求める。何度も理性に阻まれて、なのに感情は模索を続けろと急き立てる。
今のままで良いのかと自問する。
自答は未だ空白のままだ。
これまでは無理のない方法で事態に対処してきた。できないと
智史は振り返ってしまった。
背後には実を結ばなかった多様の景色が溢れている。同世代の人間が得ているものに手を伸ばし、正直な気持ちに従うことができていたら。浮かぶのは現在と異なる仮定の世界。たらればの絵空事に魅力を覚えてしまう。
――いつか、人を頼る日が来るとしたならば。
誰かの助けを乞うような難事が生じなければ問題はない。けれど身動きの取れない状態に陥った際、自分がどのような行動を選ぶのか。和島智史という人間はどうしていくことが正しいのか。
独りでは得られない日常を描いては消して。
自嘲気味な笑みが浮かび、人知れず枯れていく。
妄想を振り払い、智史は授業に身を入れた。生徒の本分は勉学である――それが騙すための方便だと知っていて、取り繕うために学生としての姿勢へと移行する。
心を誤魔化すためには都合の良い建て前が必要だ。
窓の外、青の中を浮き雲がぽつり彷徨う。
強い風に流され、形を変えてどこかを目指す。
空も心も同じ模様ではいられない。
簡単に時は巡る。いずれ梅雨の季節がやってくる。
小さな傘一つで雨風を凌げるならば、誰も困りはしなかった。
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