June : Day 02

Episode 058 「同性ではない隣人と」

 智史は一人、立ち竦んでいた。

 昼のカウンセリングルームでは、通例ならば笹原と早川が並んで座り、テーブルを挟んだ向かい側に智史が座るという位置関係になる。

 しかし、笹原は今までとは異なる場所で三人が集まるのを待っていた。

 早川の隣は今現在空いている。笹原が腰を落ち着けているのは、普段から智史が座っている場所、その隣である。特別な前置きもなく当人は涼しい顔をしている。

 露骨に智史の態度が難色へと染まる。本来座席を固定されているわけでも移動が制限されているわけでもないのだが、これまでの配置に不都合は見られなかった。訝しむ視線があるべき相応の理由を問いかける。

 無言の抗議を受けるも笹原は意に介さない。困惑の中にある智史は第三者にも目で訴えたが、早川は早川で楽しそうな表情をするばかりだった。


「ぼさっとしてないで座ったら?」

「……ああ、そうだよな。うん」


 疑念を隠せないまま智史は一旦ソファに腰を下ろすことを決める。真横にいる存在を意識しつつも、過剰反応を避けようとして自ら言及することを躊躇っていた。


「素直に尋ねてみたらどう?」


 機嫌の良さそうな早川が助言を口にする。


「…………別に。とっとと食べましょうよ」


 一つ長めの溜め息で内心を切り替える智史。自意識の抑制に努めることを念頭に置いた。余計な思考を巡らせてしまう前に鞄から弁当を取り出す。

 意地の悪い囁き声はいつもより近い距離から聞こえた。


「毎日同じだと飽きてくるでしょ? だから少し変化をつけようと思ったの」

「俺は何も言ってないんだが」

「隣でずっとそわそわされたら、こっちも居心地が悪くなるじゃない」

「だったらなんで、こんな――」


 思わず、智史は尋ねてしまった。

 関心を示す態度を引き出せた笹原は蠱惑こわく的に笑む。


「そんなに気になる? 私のこと」


 位置が違えば顔の見え方も変わる。以前より明らかに柔らかい表情は、簡単に智史の平静を揺さぶった。二つ目の溜め息が自然と大きくなる。


「俺が詳しく問い詰めれば笹原の気分は変わるのか?」

「和島君が本気で嫌がるくらいだったら考えなくもないかな」


 隣に座ることが思いつきの行為なのか、智史には判別できない。今日に限ったことなのか、後日も続くようなことなのかも定かではなかった。しかし、最初の一度を許してしまえば前例を作ることになる。笹原当人が言うように正しく伝えれば同じ事態は避けられるかもしれない。テーブルに出してある笹原の弁当箱はまだ蓋がされている。移動に手間はかからないはずである。

 問題は、智史が現状を心苦しく感じているかどうかだ。


「……好きにすればいい」

「そう。じゃあ勝手にさせてもらうわね」


 承諾を得た笹原は自分の弁当に手を伸ばす。早川がそれに倣って用意を済ませる。智史も手許の弁当箱を開けた。そうなったからには昼休みが終わるまで各々がこのポジションのままになるだろう。

 初期の智史は笹原と同じ空間で過ごすことを本意としていなかった。それが今では物理的にも精神的にも距離が縮まっている。気に食わない相手と一緒でも短い時間だから我慢すれば良い、という当時の算段は薄れてしまった。拒もうと思えばカウンセリングルームを訪ねないという選択もできたはずなのにそれもしなかった。だから今日に至っている。


 この結果を招いた要因は何か。親しい早川が仲立ちしたから。美人と評される笹原を視界に収めたいから。三人で交わす会話が楽しいから。教室の居心地に馴染めないから。智史は思い浮かぶ点を精査する。思考を整理する。自分自身の感情を分解して見極めていく。


「お箸止まってるけど、まだ何か気がかりがある?」

「え、ああ……なんでもない」


 不意に真横から指摘の声が届いた。思考に集中していて食事が疎かになっていたからである。


「少しくらい素直になってもバチは当たらないと思うけど」

「なんもねえよ。仮にどんなふうに考えていようと、言葉にするかしないかは俺の自由だろ」


 智史は顔を横に向けようとして、柔らかい感触があることに驚く。

 笹原が、指先で男子の頬を突いていた。

 警戒心を強めた智史は全身を使って距離を空ける。


「……一体、なんのつもりだ?」

「私の好きにしていいんでしょう? だから、好きにしようかなって」


 異性に対して笹原が無防備な姿を晒す。純粋な好奇心と悪戯心の表れなのか、そこに悪意は見受けられない。以前に向けられたような明確な敵意は鳴りを潜めていた。

 だからこそ智史の態度は硬化する。

 平常心を保つためには安心材料が不可欠だった。


「何を企んでる」

「悪いことなんて考えてないわ」

「そうやってとぼけることが俺には効果的だと判断してるわけか」

「もしかして私、あらぬ誤解を受けてる?」

「これまでの経緯からして、疑うなと言うほうが難しいだろ」

「……確かに、そうなるのかもね」


 笹原は指摘を素直に受け止めた。だが、その続きは出てこない。箸を休めて髪の毛先を指で弄っている。まるで自分自身もその理由を探しているようである。

 智史は疑念を払拭するために口を開く。


「槙野さんともこれくらい近いのか?」

「それはまあ、女同士だっていうのもあるし、悠香はスキンシップが好きみたいだから。自然と距離も近くなっちゃうのよね。……悪い気はしないけど」


 思春期における物理的な接触について、異性と同性とでは意味合いに差があるだろう。類似する言動が見られたとしても、実際の精神状態が同種である保証はない。特に笹原の場合、男性に対する懐疑が強く現れることがある。それを自らが行うとなれば明確な意図があって然るべきである。

 だとして、智史は徐々に落ち着きを取り戻していた。笹原には自分以外にも同等の距離感で関わっている人物が存在する――という事実に安堵を覚えていた。

 誰かにとっての特別になることを恐れているようだ。


「そう……悪い気がしないなんてこと、これまでの私は、すっかり忘れてたんだ」


 一方の笹原は正反対の感覚を掴もうとしている。


「諦めていたはずのものは案外、私が手を伸ばせば届く場所にあるんだって分かってきた。ちゃんと向き合えばしっかりと応えてくれる人がいる。そういう人と関われば、私はもっと自分を深く理解することができる、そう思ったの」

「俺にちょっかいを出すことが、自分を知ることに繋がるのかよ」

「私はこれまで多くの人を、その悪意を毛嫌いしてきたわ。人間の負の側面はそれなりに知ってるつもり。だけど、それ以外のものを私はあまり体感したことがないの。だから折角の機会を無駄にしたくないってわけ」


 発言自体に嘘は含まれていないだろうと智史は認識した。動機についても不自然な部分は見当たらない。しかし、納得するにはもう一つ核心に触れる必要がある。


「その相手が、どうして俺なんだ?」


 隣に座る近しい異性、その横顔を見る勇気が智史にはなかった。弁当箱に視線を落としたまま、次の言葉を待つ。


「…………ふふ」


 男子が耳にしたのは、楽しげに揺れる女子の声だ。そんなことも分からないのかと面白がる女性の吐息だった。

 そして、智史は答えを知る。


「――だって、君は誤解しないでしょ?」


 これこそが笹原にとっての最優先事項。


「言動の一つ一つを疑って、自意識過剰な勘違いもしないで、遠慮なく本音をぶつけ合える。こんなふうに対等でいてくれるのは、男子の中では和島君だけだから」


 譲れない部分であるからこそ笹原は真摯な言葉を並べ連ねる。

 偽りを感じさせない熱量に照らされて、智史は完全に平静を乱した。


「いや、でも……それは過大評価じゃないのか?」

「薄っぺらい『好意』よりも真正面からの『敵意』のほうが、私からすれば何倍も意味があったの。他の安直な男子たちとは違う。等身大の自分を見つけてくれる和島君だったら、私はちゃんと信用できる」

「そ、そうか……」


 あまりにもはっきりと断言する笹原の気持ちを、智史は茶化すこともできない。真剣な思いを受け止めることに精一杯で、どのような態度が好ましいのかも判断がつかなかった。

 他人にここまで称賛されたのは初めてのことである。基本的に自己評価が低い智史にとっては身の丈に合わない文句ばかりであり、すぐには心に馴染まない。けれど、寄せられた期待を噛み砕くにつれて少しずつ冷めていた鼓動が動き始める。


「和島くん、心なしか顔が赤いけど?」

「そんなことないですよ、先生の気のせいでしょ」


 二人の言動を黙って眺めていた早川の横槍を慌てて否定するも、普段より体温が上がっていることを智史も自覚していた。

 一人の人間として認められること。それが学校の中で一番近しい女性からのものであり、加えて美少女である笹原からの好意的な感情だ。どれだけ自制心が強いとはいえ、思春期の男の子を揺さぶるには充分すぎるほどの威力である。

 だが――。


「先生、俺は今、どんな表情をしてますか?」

「うーん。ちょっと緩んでるかもね」

「……そうですか」


 智史は迷わないように自身を戒める。第三者に映る自身の状態を把握して、調子に乗るまいと必死に感情を制御する。呼吸を調節して、内側に燻る熱を鎮める。

 そうやって和島智史は勘違いをしない。笹原が指摘したように、自意識過剰になることを避けている。一つ一つを訝しみ、自分自身を疑っている。

 動揺を察した笹原が確認するように問いかけた。


「こんなこと言われたら、今までみたいに振る舞えなくなっちゃう?」

「うるせえ。この程度でほだされてたまるかよ」

「そっか、それは良かった」


 思う通りの軽口があったことに笹原は安堵する。

 これまでと同じ返しができたことで智史も落ち着きを取り戻す。

 仮に、ここで理性が砕けてしまっていたら、どうなっていただろうか。

 二人の関わりは、現時点では恋愛感情を排した上で成り立つ代物である。どちらかが一線を越えようとしない限り前提は崩れない。繊細なバランスを保つことで二人の男女は笑い合うことができた。暗黙の不文律が両者を繋いでいる。もし築き上げた認識を無視すればこの関係性は瓦解してしまうだろう。


 笹原にとって、それは望ましいことではなかった。

 智史も同じ思いだった。そして、惜しいと思っている自分に気づいた。押し殺してきたはずの欲求が無意識のおりを破って表出する。もう隠せないほどにまで育っていた気持ちがここに存在する。

 失うことを恐れている。

 新しい日常を壊したくない。

 覚えてしまった感情は過去の自分と相反するものだ。大切に抱えてしまえば、いつの日か齟齬を起こすことになる。


 智史は決断を迫られる日の訪れを静かに覚悟した。

 何を諦めて、何を信じるのか。

 優先すべきは過去なのか、未来なのか。

 いずれはどちらかを切り捨てて、選び取らなければならない。

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