Episode 056 「曲がらない決意」
「――そんなに自分のことが嫌い?」
途端に和島の表情が強ばる。装おうとする顔色はその険しさを塗り潰せない。指先は震え、瞬きは増え、肩は上下していた。波立つ精神が安定するまで、それは繰り返される。
やがて長かった深呼吸が終わる。
綾乃の耳に届いたのは、一人の男子生徒が絞り出す、重たい声。隠せないことへの諦めと伝えるための決意が交じる。
「……先生は、強烈な自己嫌悪を抱いたことが、ありますか?」
自らが求めた問いへの反応といえど、綾乃は僅かに気後れした。しかし、スクールカウンセラーが生徒から目を逸らしてはならないだろう。
「上手にできない自分を責めたことはあるけど、嫌うほどではなかったと思う」
「そうですか……。じゃあ、今までに出会った人たちの中で、大嫌いになった奴はいますか? イエスかノーだけでいいです」
「いるよ、わたしにだって。憎い相手の一人や二人、いる」
今の綾乃にできるのは正直な言葉を紡ぐことだ。好ましくない流れで真意を暴く以上、同等の重みを背負うつもりがあった。行動を縛る古い傷跡に触れてでも和島の思考の手助けをする。
次の言葉が発せられるまで、綾乃は覚悟を固めていた。カウンセラーとして、一人の友人として、生徒の心情を受け止めるために。
そして、自らが招いた結果と相対する。
「一番嫌いだった奴と自分との間に共通点がある。そんな事実を知った時、人はどんな行動を起こすと思いますか?」
和島は根底にある論拠の一端を打ち明けた。控えめな呼吸と悲しげな双眸。陰のある佇まいは、これから起こるであろう感情の変化を見越してのものだった。
「……まさか、あれは望んだ出来事だって言うの?」
欠けていたピースの一つが埋まる。
推測の域を出なかった予想は提示された動機によって補完される。
どうしても。
どうしたって。
綾乃は、信じたくなかった。
「あんな仕打ちを自らの意思で選んだの? 他人を利用した自傷行為に過ぎないって、そう思ってるの?」
「どちらにしても、俺には逃げる選択肢なんてなかったから」
「違う。きみはできたのにしなかったんだ。方法なんていくらでもあったのに。……初めから、救われる気なんてなかったんでしょう?」
捲し立てて思いを吐き出す綾乃。
和島は自身の代わりに心を苛んでいる人の言葉を、ただ黙って聞いていた。
「前々から思ってたけど、きみには自尊心が欠けてるよ。なんでそんなふうになるまで、自分の気持ちを蔑ろにできるの?」
申し訳なさそうに、和島が俯く。
心配から生まれた文句は弱さを糾弾しているようだった。
「苦しむ必要なんてなかったはずで。他人のことを気遣える懐の広さもあるくせに。それでも、きみが手にしてきたものは、痛みと孤独なんだね」
綾乃と和島の二人にも類似する部分があった。他人の苦しみに敏感であることだ。辛い経験を糧にして誰かの負担を減らそうと試みる。この一点を掻い摘むだけなら善良な精神性を褒めることもできただろう。その目的が異なってさえいなければ。
一人は理想の自分のために他人を助けてきた。
一人は最低な自分がために他人を遠ざけてきた。
苦しんで欲しくないから支えることを常とするか、押し付けたくはないから離れることを良しとするか。同じ性質であろうと当事者の意識次第で様々な顛末を引き寄せる。
和島が望んだ未来の形は、他者の幸福だった。
ここに本人の立ち入る余地はない。
「早川先生。これは自業自得なんですよ。自分でそうだと納得してるんだから、もう俺なんかのことでそこまで苦しまないでください」
そう表現することで、被る実害を受け入れようとする。
――自分自身が傷つく理由を探している。
「どうして、簡単に自分のことを諦めてしまうの? なんで、なんであなたたちはそんなになるまで背負い込んでしまうのよ……」
ついに、綾乃は我慢することができなかった。
子供の傷みに耐えかねて、大人は身を震わせた。心から溢れ出した熱はやがて肌から滑り落ち、濡れた跡を作る。
大人が痛みに沈む姿を捉えながら、子供は口を開いた。だというのに、穏やかな物言いは両者の決裂を意味していた。
「誰かと一緒にいても、一人だったとしても。自分を大切にできない人間が最初に切り捨てるのは……言うまでもないことですよね」
そして、二人を突き放すように音が割り込んだ。昼休みが終わるまで残り数刻であることを告げる。時間がすべてのことに線を引き、区切りをつけてしまう。
綾乃は目許に溜まった滴を指先で拭っている。
和島は淡々と教室へ戻るための準備を進めていた。
「断念してきた可能性を夢見るようになったのは変化の一つなのかもしれません。だけど、過去があったからこそ……綾乃さんや笹原と出会えた今があるんです。俺はそれだけでも充分で、なのにこれ以上を知ってしまったら……。きっと小さい器じゃ収まり切らなくて、壊れてしまうんですよ」
不幸を知る人間は幸せの価値を大きく見定める。細やかなことにも特別を感じてしまう。それを快く思う者がいれば、慣れない刺激を重荷に感じてしまう者もいる。
特別な関係を日常に落とし込むには、まだまだ日が浅かった。
綾乃が描いた未来の形は実を結ぶことなく解けていく。容易には変えられない。だから、不満の矛先は本筋から外れていた。
「こんな時に限って、名前で呼ぶなんて。……卑怯者」
「そうですね。俺も自分の名前を呼ばれた時、そう思いました」
一貫して、自らのことを他人事のように語った。
支度を終えた和島は鞄を持って立ち上がる。
「…………あのね、わたしは――」
綾乃が途中で息を呑んだのは、早々に気づいてしまったから。続く言葉は届かないのだと発する前に知る。それを酷く理解する。
和島は無言で首を横に振っていた。何事かを察して、心遣いは不要だと伝えている。悲しい笑顔が拒絶を示している。
ここに確かな壁が存在した。
だとしても、カウンセラーの口は閉じることを許さない。
「自分を尊重できないって言うなら、わたしがきみを大切にする」
あるいは職務の領分から逸脱した宣誓である。
しかし、意を決した大人は曲がらずに突き進む。
高校生の男の子は困ったように笑っていた。薄い笑顔を貼り付けて、差し伸べられた優しさには応えぬまま、カウンセリングルームから出ていく。
ドアが閉まっても眼差しはしばらく部屋の外を追いかけていた。
やがて大きな溜め息が落ちる。
「駄目ね、いつもより肩入れしちゃう。慣れないことをした罰が当たったのかしら。やっぱりこういうやり方は得意になれないなあ」
普段の綾乃は自ら率先して個人の心理に踏み込むような手法を除外していた。強引に口を割ってもらうのではなく、自発的な胸中の発露を促すことに専念していた。
だが、それだけで間に合う人間ばかりではない。
「かといって、あの調子だと自力じゃどうにもならないだろうし……」
知って欲しいと思える者は表現することを選ぼうとするが、抱え込む者は極力感情を内側で処理しようとする。他人の介在する隙間がなければ、独自の価値観が先入観という縛りに変わっていく。
考えることは大切だ。自分の頭で思考を繰り返し譲れない答えを導き出す。本来なら歓迎するべきことである。
それと同様に、疑わないこともまた重要なのだ。
勉強をするのは一般的で普通のことだとして。そこに疑問を抱いた場合、自分なりの動機を打ち立てることができれば、それはきっと望ましいことだ。しかし、何も見出すことができなかったならば、周りの人間が積み重ねている当然の学力を失ってしまう可能性もある。
自らの手で確信を得られればこそ、成長し強くなることもできる。裏を返せば、持ちうるべき理由を失った瞬間、人は簡単に立ち止まる。当然のことを、当たり前にできなくなってしまう。
こうなっては一人の力で解決することも困難な問題である。
自己嫌悪を背負っている和島にとって、自身の気持ちは尊重する対象ではないらしい。だから不利益を被ることも厭わない。損をする役回りに甘んじることが容易になる。
放置してしまえば、遠ざけられる不遇を招く結果へと繋がっていくだろう。事実、綾乃は和島の弱った姿を見たことがあった。初めて出会った日に、流れる滴の熱と無防備な心に触れている。
綾乃は改めて状況を認識した。
「まあ、指を咥えて黙ってるなんて今さらできないんだけど」
そもそも見捨てるという選択肢は存在しない。そうでなければカウンセラーを志すこともなかったはずだから。
何より、早川綾乃は覚えている。
記憶は未だ褪せず脳裏に焼き付いている。多くを切り捨てた悲しい笑顔、未来を閉ざした人間の絶望を知っている。また同じことが起こらないよう、日々を生きると誓ったのである。
「本当に手間のかかる子だなあ」
躊躇いはない。根っからの世話焼きは惜しみなく笑う。
どれほど心までが離れていても。力が及ばず誰かの手を借りることになるとしても。いかなる時も、ただ一念のために尽力する。
綾乃は傷を負う男の子の心を救いたいと願った。
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