Episode 053 「あの浮き雲まで」
午前の授業の一通りが終わり、昼休みに入ろうとしている。緊張感から解放された生徒たちは限られた時間を各々のために使おうとしていた。友人と席を寄せ合う者、食堂へと急ぐ者、別の教室へ足を運ぶ者、多種の様相が窺える。
クラス替えが行われてから二ヶ月が経つ。六月ともなれば、クラスメイトの性格や行動に戸惑うことも少なくなっていく。新たに成り立った関係性を楽しむ余裕が生まれる頃。互いの共通点や類似する嗜好を起点にすることで、人は他人と親しくなることができる。
しかし、どのようなことにも個人差がある。和気藹々とした空気の中で、誰もが能動的に関わり合えるとは限らない。
笹原由美奈も、従来は人付き合いから離れようとする人間のはずだった。
「ほら、わたしたちも早く食べよ。体育があったからお腹空いちゃった」
「そうね。小テストの最中にお腹の音が鳴っちゃうような人もいるみたいだしね、悠香?」
「……そうだよねー待ち遠しくなる気持ちも分かるなーあはは」
「あんな形でみんなから注目されたら顔を真赤にしても無理ないわよね? 焦って消しゴムを落としたり、それを拾ってくれた先生に同情されることになっても、まったくもって仕方のないことよね?」
「やめて由美奈、それ以上傷口を抉らないで!」
「はいはい。とっととお弁当出しなさい」
軽いじゃれ合いを織り交ぜながら由美奈と槙野は机を二つ繋げ用意を済ませると、向かい合って食事を始める。今日はカウンセリングルームへ向かうのではなく、友人との時間を優先していた。
誰もが同じようにしていることを行う二人の女子生徒。第三者がその姿だけを見れば、変哲のない当たり前のような光景だろう。
「わたしは……まあ中学の時からこんな感じだったけど、今の学校生活は楽しいよ。最近の由美奈はどう? 悪くないって、思えてる?」
なんでもないはずの日常会話に、僅かなぎこちなさが覗く。
「悠香とこうして友達をやれるようになってからは、随分と楽になったかな。過ぎていくだけだった休み時間を待ち遠しく感じることも増えたし」
当たり前しか知らない少女の問いに、一歩引いた立ち位置から放たれる声。
当たり前という特別を得た心は客観的に現状を考察していた。
「友達をやれる……かあ」
「何かおかしい表現だった?」
「ううん。由美奈らしい言い回しだなって」
他人との接点を減らしていた由美奈にとっては自分自身の感覚だけが頼りであった。それは馴れ合うことができない人間の防衛手段であり、周囲からの理解や賛同を貰うための行動原理ではない。
「信用してくれるのは素直に嬉しいけどさ、わたしとしてはもっと多くの人と仲良くなって欲しい、そんなふうに思っちゃうんだよね」
「気持ちだけで充分よ。相性が合わないのに会話を続けても、この前みたいな微妙な空気になるだけだから」
槙野が仲介役となり、由美奈はクラスメイトの女子三人と一緒に昼食をとったことがある。結果、聴きたい話題と伝えたい返事が合致することはなかった。その後に新しい申し出もなく、槙野が伝言を預かることはあっても由美奈と直接話そうとする同性は現れていない。
「ごめんね。あの子たちも悪気があったわけじゃないんだけど……」
「それ何度も聞いた。私は気にしてないって何回も言ってるのに」
「そうだね……」
目線を落とす槙野の額を、由美奈が指先で弾く。
「痛っ! 急に何? わたし変なことした?」
「顔が謝ってたから」
「表情はどうしようもなくない? 自然とそうなっちゃうんだから」
「いいじゃない。スキンシップが増えて」
「……こっちの身にもなってよ。ペットの躾じゃないんだからね」
「え?」
「え?」
小さな認識の違いから二人は互いの顔を見つめた。だが瞳による探り合いに関しては由美奈のほうに分がある。
やがて槙野は溜め息を零した。
「常々思うんだけど、由美奈って意地悪だよ」
「ごめんなさいね、こんな性格で。……こういうの、クラスメイトと一緒にいて楽しいのは久しぶりだから、少し調子に乗っちゃうの」
自分を省みながら問題点を挙げる由美奈に沈むような暗さはなかった。良い出来事の副産物を持て余しつつ、友人との日常を謳歌している。
もう一度、槙野が大きく息を吐き出した。
「そういうところも、ほんと……ずるい」
「ん? どういうところ?」
「教えてあげませーん」
槙野は仕返しに由美奈の頬を摘む。
噛む動きに合わせて頬が動く。
「食事中なんですが」
「聞き分けのないペットにはこれくらいが丁度いいんですー」
「食べにくい……」
不満を口にしても由美奈は邪魔になる手を払いのけなかった。マッサージをするような優しい加減で、槙野は摘んだ指を上下左右する。無抵抗のまま、それは数十秒続いた。
由美奈はぼんやりと、他人の温度について考える。
スキンシップというコミュニケーションを許せるほどの存在は何人いるだろうか。今現在、親族以外の他人に触れられる機会は殆ど無いと言えた。友人である槙野を除いた時、他に思い浮かぶ人物を数えようとする。
真っ先に出てきたのは親友の早川綾乃。
それから、次に頭を過った人物は――。
「由美奈、ねえ由美奈」
「……どうしたの?」
遅れつつ反応を示すと、槙野は小声で起こっていることを報告する。
「時々さ、塚本くんがこっちをちらちら盗み見てくる」
「ああ、なんだ。そのことね」
特別な驚きはなく、由美奈は平然としていた。
「知ってたの?」
「今気づいたんだ?」
「うん。わたしはついさっき」
「ゴールデンウィークにクラスの集まりがあったでしょ? 私は参加しなかったけど。大体その頃からチャンスがあれば様子を窺ってくるようになったかしら」
「そうだったんだ……」
一対一の関係性の中であれば、槙野も相手の細かい部分を捉えられるようになった。しかし、それは頻繁に接する人間に関してだけである。周囲の動向を逐一観察できるほどの注意力は備わっていない。
逆に、由美奈は視野が広いせいで余計な事情まで感づいてしまう時がある。必要のない事柄にまで気を回さなければならない場面に遭遇したこともある。
鈍感であれば他人の気持ちを拾い損ね、鋭敏であれば多勢の空気に押し潰される。過ぎたるは及ばざるが如し。どの程度で落ち着けば良い状態に当たるのか。友人として槙野と一緒に行動するようになってから、由美奈はそういった考え事をする機会が増えていた。
「それで、放っといていいの?」
「最近は必要以上に話しかけてくることも少なくなったし、見るだけなら別に構わないんじゃない?」
当の塚本はクラスメイトたちと談笑しながら弁当を食べている。時折友人の顔を確認する仕草に混ぜて、延長線上にいる意中の存在を捉えていた。以前は一緒に食事をしようと誘ってくることもあったので、直接的なアプローチ自体は減少傾向にある。
「釘を刺さなくても平気?」
「そこまでしなくても、とりあえずは大丈夫じゃないかな」
「ふーん」
「何よ、私の判断間違ってる?」
至極真面目に語る由美奈のことを、槙野は興味深そうに見つめる。
「文句があるとかじゃないけど、なんか……雰囲気変わったね」
「そうかな」
「うん。当たり障りが柔らかくなってる気がする。前だったら多少のことでも嫌そうな顔してたから」
「……なるほど」
自分自身ですら把握していなかった変化を指摘され、由美奈の認識が塗り替わる。
経験上、異性の視線には総じて警戒心を抱くことが多かった。その眼差しの意味合い次第で男子との接し方を改め、女子への応じ方も見直す必要がある。思春期の抜けない集団生活においては、平素から精神的な緊迫を余儀なくされていたのである。
これらを踏まえた上で、現在を見直していく。
心の余裕を持ち合わせていなかったはずの由美奈は、衆目の多い環境の中で落ち着きを払っていた。今までとの決定的な差異があるとすれば、それは独りではないという点に尽きる。友人との交流が余計な思考を削いでいるのだ。一人でも親しい人間が身近にいる、という事実が大きな影響を及ぼしている。
それと同時に、無視できない存在が頭の片隅で見え隠れした。
価値観を左右するような議題にも注力できる、対等に語り合える男子生徒。
「もしかして和島くんと何かあった?」
「どうして彼の名前が出てくるのよ」
「由美奈の周りで特別なことが起こるとすれば、そこかなって」
「…………」
由美奈に驚きはない。槙野であればそういった勘ぐりをするだろうという予感はあった。そして、本人自身も似たような連想をしたところだった。
学校という場所ではクラスメイトである槙野と過ごす割合のほうが高い。味方の少ない状況では何度も助けられている。一方、和島と向き合って言葉を交わすのは基本的に昼休みだけである。移動時間も加味すれば一時間にも満たない。
さりとて、和島との対面は日々の出来事の中でも大きな意味合いを含んでいる。
今までの経験を通して、由美奈が唯一気に留めている男性のこと。
もしも無視ができていたならば、心が強く揺れ動くこともなかっただろう。
「大したことは何もないよ。……これからもそう。なんでもないようなことが、きっとこの先も続いていくだけ」
由美奈はそっと目を細める。
言葉に限っては具体的な内容を表さず。
しかし、掛け替えのない確かな繋がりがあることを見据えている。
先日のカフェでの会話に思いを馳せ、自然と無防備な笑みが咲いた。頬は僅かながらに色づいている。普段は奥に潜んでいる、歳相応の本来の素顔。
「……これじゃ塚本くんが割って入るのは難しそう」
「何もなかったって言ってるんですけど」
「はいはい。これからも和島くんと仲良く痴話喧嘩できるといいね」
「犬も食わないような言い方しないでよ。そんな愉快な間柄じゃないんだから」
好意的な解釈を押し出そうとする槙野の口振り。由美奈は不服であることを目で訴える。やがてその視線はゆっくりと違う場所、どこか遠く窓の外へと移された。
晴れ渡っている空の下。澄んだ青の中に点々と雲が漂っている。
その実態を掴むためには、両者の間にある距離を飛び越えなくてはならない。
近そうに見えても、本当に触れられるかどうかは試さなければ未知のままである。
「でも、そういうふうに関われてたら、もっと気軽に話せたのかな」
簡単に素直な性格へと変わることはできない。仮定の話は、すなわち現実とは異なる話であって、夢物語だということを前提に置くようなニュアンスを帯びていた。
欲しかったものは確かに存在する、そのことを今の由美奈は知っている。
早川との出会いに始まり、和島とは口論を重ねた。懐疑的だった異性への認識が変わろうとしている。諦念に染まっていた思考の端には、新しく生まれた検討の余地がある。
だからこそ、由美奈は様々な可能性を踏まえて、悩む。
名のない気持ちは形に
枠に収まらない感情の波が押し寄せている。
好奇心に従ってこれ以上を求めても良いのか。
積み上げた関係性が崩れてしまうことはないのか。
等身大の姿を良しとする和島は、どこまでの我儘を容認するのだろうか。
「――もしかして、迷ってるの?」
槙野の端的な疑問が、由美奈の懐を突くように響いた。その拍子に緩んでしまった口は自ずと内情を声にする。
「どうなのかな。ああいう人は初めてだから」
「分かる。わたしも和島くんみたいなタイプの男子とは会ったことないなあ」
「でしょう? どんな反応が返ってくるか予想しにくくてさ。……雑談をするだけなら退屈しなくていいんだけどね」
節々で弾む声を聞いて、槙野はどこか納得したようだった。
「うんうん。やっぱりそうだ。気難しそうだった美人が、普通の女の子になってる」
「それ、子供っぽいって言いたいの?」
「逆だよ逆。今までが気負いすぎてたんだってば。ちょっと肩の力を抜いてるくらいのほうが、由美奈は可愛いよ」
「か、可愛い?」
耳馴染みのない美辞を受けて、由美奈は数回の瞬きをした。
「仏頂面でいるより、柔らかい表情のほうが和島くんも気楽だろうし」
「それだけでうまくいくかな?」
「何がそんなに不安なのさ」
「友達になろうっていう悠香の申し出を断るような奴だから」
「あー。前にカウンセリングルームにお邪魔した時、そんなこと言われたっけ、わたし」
「単純な男子だったら話は早いんだろうけど、すぐに鼻の下を伸ばすような男だったら相手にもしてなかったと思う。でも、かといって…………、はあ。まったく、偏屈で面倒な人」
うんざりするように零される吐息。
そこにはあるのは煙たがるような煩わしさではなく、他者を気遣い真摯に向き合おうとする温かさだった。男性に関わる事案について、これほど前向きに悩んでいる様を槙野は初めて見る。
「そういう難しい内面を知ってて、それでも一緒にいたいんだね」
「言い方に若干の違和感はあるけど……まあ、そんな感じ」
気恥ずかしさを隠すように由美奈は素っ気なく呟いた。
執拗に異性を毛嫌いしていた人間が、特定の男性と親しくなるために足踏みをしている。その姿を見て、槙野の脳裏に既視感が過った。
「少し前のわたしも試行錯誤したなあ。由美奈と友達になりたくて、積極的に話しかけて、お互いの距離を手探りして。……そういうことがあったから、今は一緒にお弁当を食べれるくらい仲良くなれた」
続く声音は憂う背中を押すような優しさを帯びる。
「わたしには察することもできない事情があるのかもしれないけどさ、由美奈なら大丈夫だよ。人一倍しっかりと相手のことが観えてるんだから。諦めさえしなければ、和島くんともきっとうまくやっていけるよ」
だから心配はないのだと言う。信じているからこそ明るく笑っている。
槙野との考えが噛み合わなかった当時の光景を、由美奈は今一度振り返る。友人として接したい人間と他人を近寄らせない人間。該当する人物を入れ替えると構図は類似していた。
由美奈の抱える悩みと槙野が乗り越えた壁は同種のものなのかもしれない。
二人に共通する側面。感じ方や捉え方、表現や手段が異なっていたとしても。欲しかったものは似ているのだろう。
近しい思いを抱いていたからこそ、大切な友人として打ち解けることができている。
「ふふっ。ありがと」
由美奈はおもむろに手を伸ばした。槙野の頬を摘んで柔らかい感触を楽しむ。
独りでは決して叶わないクラスメイトとの戯れ。
「な、何ふるっ?」
「友達になってくれたお礼? あるいは、さっきのお返しってことで」
「機嫌がいいのか怒ってるのか、どっちらの?」
「さあね。……どちらにしろ、私が楽しいからいいの」
居心地良さそうに声が跳ねる。
由美奈は同性との実りある昼休みを堪能した。
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