4th Chapter

June : Day 01

Episode 052 「次への兆し」

 黒板にはチョークによって記された文章や語句と化学式が並んでいる。

 それらを薄ぼんやりと眺めながら、智史は脳裏に浮かんだ哲学的な命題に取り組んでいた。


 理数科目は基本を押さえて正しい手順に従えば正確な解答を算出することができる。共通する普遍の理論にのっとり、一定の結果が示される。その構造を覚えさえすれば、例外に当たらない限りは極端に誤ることもないだろう。世界の大多数が物理的な要因によって成立している。

 しかし、人間の言動はその軸から外れた領域に据えられている。物理的な肉体を土台にして、流動的な精神が主となり意思を決定する。数値ではなく気分がすべてを左右する。

 物事を感情的にではなく理性的に進めたい、という感情が優先されるのである。理性とは、人間が持つ精神性の一側面でしかないのだ。


 すなわち、想定外の無秩序を排するためにはヒトから脱しなくてはならない。魂を有しない機械だけが既定のすべてを把握することができる。心の動く人間である以上、そこそこの整合性を保つまでが関の山。人類が備えた叡智と資本に条約や教典も、安寧を求める平静が築き上げ、変革を叫ぶ激情が打ち崩すことになる。

 第一に人間が従うのは合理的な規則でも賢人の知恵でもない。そこに何かを求める心こそが最初の原動力。それ以外のものは目的を達成するための付属品に過ぎないのだろう。


「――言っておくが、これくらいの問題が解けないようじゃ中間テストは厳しいぞ。油断して赤点にならないよう、ちゃんと復習するように」


 教壇に立つ化学の先生がチョークで黒板を叩いた。

 数十秒後には授業の終了を知らせるチャイムが流れる。教師の姿が廊下のほうへ消えると、足早に雑音が広がっていく。中間考査が近づいていることへの不満や焦りが散らばった。口を開くことが少ない生徒も、表に現れない思考は雑念で溢れているのかもしれない。


 問題を解いた残りの時間の中で無為な思索に耽ってしまう程度には、智史の心も忙しなく動き回っていた。延々と続く迷路に右往左往しながら歩いては巡る。

 自分という特色を持った一人の人間について。

 結果的に関わることとなった人たちについて。

 偏りのある思考と他者を知ることで生じた気持ち。

 何を目的に定めて、どのように日々を過ごすべきなのか。

 今日もまた出口は見つからない。

 だとして、今の智史は外へと繋がる活路を探そうとしていた。




 クラスメイトとの関係性を築き上げていない智史には教室に留まる理由がない。今日も前例に違わずいつもの場所へ。校内で唯一気を休めることができる空間に向かおうとする。

 しかし、弁当の入った鞄を持って席を立とうとしたところ、横にいる一人の男子生徒から声をかけられた。


「今日も早川さんのところへ行くのか?」


 隣に座る藤沢和成である。在籍するクラスの中で智史との個人的な接点を持つ唯一の人物。日常的に言葉を交わし合うような間柄にはなっていないのだが、目が合えば挨拶程度のことはしている。時折思い出したように話しかけられる日もあった。

 二人の間で言葉数こそ増えているが、智史のほうから口を開く機会は少ない。


「まあ、そうなるな」

「騒がしい教室で昼を終えるより、綺麗な女性二人がいる空間のほうが飯も進むってもんだ」


 続く内容にはあからさまな含みがある。


「確か前も言ったと思うが、俺と笹原の間には何もないぞ。そもそも笹原は恋愛を重視するような性格じゃない。早川先生も彼氏がいるそうだから、高校生相手に何をするでもない。つまりは特別なことなんて起こらないはずだ」


 智史は思春期の少年少女が好む事態には発展しないことを伝えようとする。

 しかし、藤沢は感心するように唸った。


「やっぱり、今も変わらず昼休みは三人で過ごしてるんだな」

「……どこかおかしかったか?」

「おれの彼女は笹原と同じ中学校に通ってたらしいんだ。だから当時の話を少しだけ聞かせてもらったことがある。一対一じゃないとはいえ、あの笹原が自分の自由意志で男子と一緒の空間にいるなんてことは殆どなかったそうだ」

「俺が前例に当て嵌まらないっていう点だけを見て、笹原が特別な感情を抱くようになった、とでも?」


 極端な飛躍に対して、話題に挙げた当人が否を述べる。


「そこまで邪推するつもりはないって。でも昔に比べてちょっとずつ変化はしてるみたいだったから。おれがカウンセリングルームに出向いた時のことを彼女に話したら、なんか凄い意外そうな顔してたよ」

「相手に加減しないと決めたら本当に容赦しないからな、あいつは」


 呆れながら両手を持ち上げる身振りをする智史。

 平素とは異なる顔を目にして、藤沢が穏やかに笑う。


「それはそれとして、退屈はしてないみたいで良かった」

「だからって生き生きと他人を言葉責めにするのどうかと、俺はいつも……」

「違うよ。和島、おまえのことだ」


 会話の主語が入れ替わる。流れに乗れず智史は戸惑いを露わにした。


「どういう意味だ?」

「授業中はともかく、昼休みの前後だと最近の和島は表情が柔らかいなと思いまして」

「……それはそれはご忠告どうも。これからは気を引き締めることにする」

「なんでそうなるんだよ。別に悪いことじゃないだろ? どんな理由であれ、堅苦しくしてるより今のほうが自然体でいいじゃん」

「緩みすぎてるのもどうかと思うぞ」


 素直に頷かない態度を見せられ、藤沢は訝しげに腕を組む。


「和島って割とストイックなところあるよな。なんていうか、無駄な期待はしないみたいな。必要以上に欲張らない感じ?」

「理想が高すぎても身の丈に合わないんじゃ最後に破綻する。きっと、何事にも自分にあった水準っていうのがあるんだ」


 決めつけるように提示される、個人の内側で練られた価値観。

 納得に及ばなかったのか、藤沢は疑問を抱いた。


「和島は、…………。もう少し、人並みを目指しても大丈夫だと思うのに」

「別に、今の俺に不満はないんだけどな……」


 次は智史が悩ましげな表情をする。

 淡々と学校生活を済ませようとしている人間からすれば想像しにくい話である。勉学が主目的となっている現状では充足を得ようとする精神から離れた場所に位置している。平穏のままやり過ごすことが第一目標となってしまっているのだ。もし仮にどこかで変化を望んでいたとして、それだけで改善がなされるほど過去の蓄積は容易なものではない。


 たとえ簡単なきっかけで二転三転することがあったとしても、逆を言えば、その簡単なきっかけ一つが欠けてしまうだけで物事は能動的な働きを失う。

 希望的な観測だけで常態化した習慣を覆すのは難しい。宝くじが当たることを夢見るのは自由だが、一歩踏み出して実際に宝くじを購入しなければ大金は舞い降りてこないのだから。

 選択肢の数と実行力の幅とには大きな溝がある。

 だから、智史は自分の手が届く話題に頼ろうとした。


「お前こそどうなんだ。俺なんかと仲良くするより、彼女との親睦を深めたほうが有意義なんじゃないのか?」

「普段ならそうするんだけどな。残念ながら今日は彼氏のことより友達を優先するそうだ。だからおれもそれに倣うことにした」

「そ、そうなのか」

「なんだったら和島も混ざってみるか? フォローならしてやるぞ? クラスの勢い任せの連中に付き合えない男子の集まりだからな。相性はいいと思う。どうだ?」

「…………」


 飛び込んだ逃げ道は先のない行き止まりだった。相手の口を開かせ、聞き手に回ることに失敗する。

 智史の結論は初めから決まっていた。槙野から友達になろうと誘われた時も、早川から笹原を紹介された時も。いくら口数が増えて互いを知るに至ったとして、その先へ踏み出すことはできない。


「悪い悪い、冗談だよ。いきなり済まなかった。困らせるつもりじゃなかったんだけど……謝るよ、ごめん」

「いや、気にするな。人付き合いに関しては俺のほうに問題があるんだから……。謝らなくていい」

「そっか。変な気を回したな。忘れてくれ」


 無言による態度の硬化を藤沢は気にしていた。クラスメイトとの交流が極端に少ないとはいえ、それでも和島の心中を察してくれる人物である。話す頻度こそ微々たるものだが、悪い人間でないことは智史も理解している。

 変わりつつある今の笹原ならどうしただろうか。害意がないと知れば迎え入れるだろうか。男性だからと一定の距離を置きつつも、拒絶まではしないかもしれない。

 現状、教室内で話しかけてくれる相手がいるのは貴重なことだ。


 これまでの智史であれば、早々に適当なタイミングで離脱する算段を整えていた。無駄に引っ張ろうとはせず、頃合いを見計らって教室から抜け出そうとしたはずである。

 ――けれども。

 改めて智史が行ったのは、違う切り口からの対処だった。

 頭に浮かんでいた、選ぶことを避けたはずの疑念。

 もう一歩、踏み込むための言葉。


「……ちょっと聞きたいんだけどさ、俺なんかを相手にして、楽しいか?」


 互いの個性に詳しく触れていない状態での対話は、探り合うような多少の緊張を帯びる。付くにも離れるにも、精神的に消耗するものだ。今後に活かすため、相手の認識を見極めようと真っ直ぐな視線を向けた。

 問われた藤沢は忌憚のない胸中を語る。


「興味深い存在だとは思ってるかな。笹原のこともそうだし、個人的にも見どころのある奴だって考えてる」

「俺は……、どこにでもいる平凡な存在だよ。注目を集めるような人間じゃない」

「だったらそれでもいいさ。有名人と友達になりたいなら、もっと違う場所に足を運ぶって」


 否定する物言いは、しかし否定されたまま。

 その姿勢さえ受け入れるように、隣の席の男子生徒は朗らかに笑ってみせる。

 自分の意思でクラスメイトの近くにいるのだと、そう主張する。


「物好きだな、藤沢は」

「そんなこと彼女にも言われたっけ。おれってやっぱそうなのかな?」


 藤沢は指摘に既視感を覚え、首を捻っていた。

 心当たりを真面目に探っている様子を見て、智史もおかしそうに笑う。


「そろそろ俺はあっちに行くよ」

「ん? おう」


 延びた世間話もここまで。

 鞄を手にした智史は教室から出ることを決める。

 そして、過去には思い浮かびもしなかった文句を、自分の意思で付け足した。


「もしまた悩み事ができたら、その時はもう一度カウンセリングルームに来ればいい。きっとあの二人がなんとかしてくれるから」

「三人の間違いだろ?」

「馬鹿言え。恋愛事に関して俺は戦力外だよ」

「まあいいや。仮にそうなったとしたら存分に頼らせてもらうさ」

「利用頻度が増えないことを祈ってる」

「そりゃどうも」


 クラス替えが実施されてから三ヶ月、早い者は短期間で友好の輪を広げていく。率先してコミュニケーションを交わせる人と比べれば、これは微々たる前進なのかもしれない。

 だとして、消極的だった心はようやく動き始めたのである。




 智史は自らの決断について、確固たる自信を持てないでいた。だから消去法による取捨選択に頼り、狭い可能性の幅をより限定的なものに変えてしまっていたのだ。

 情動的な人間性よりも論理的な整合性を優先した。充分な満足感を得ようという考えはそもそも浮かんでいなかった。やり過ごすことができれば良いとだけ定め、そこで試行錯誤を終わらせていた。

 けれど、閉じられた精神の中でしか見出せないものも確かに存在したのである。下を向きながら拾い集めてきた個人的な裁量こそが他者の琴線を刺激した。それは恐らく、大勢と関わり輪を広げるだけでは得られなかった種類の共鳴である。多数と分け合うことができなくとも、たった一人とだけ認め合うことができる繋がり。それが万人に理解されるよりも重要な価値を生んだ。


 不安を抱きながら選んできた道のりの果てに、自ずと辿り着いた場所。そこは一つの到達点であり、別の景色を望むための中継地点。

 智史はこれからも同じ道を変わらず歩き続けるのか。

 あるいは、新しい標を辿っていくことができるのか。

 諦めていた未来はきっと、自分が思っているよりもすぐ傍にある。

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