Episode 054 「ここにないもの」
「今日は由美奈、槙野さんと一緒に教室でご飯食べるんだって」
カウンセリングルームに入室した智史がソファに座ると、早川は開口一番に連絡事項を述べた。その目的は伝達をすることよりも、言外の反応を期待するようだった。
「……へえ」
「残念?」
「何がですか」
「由美奈の顔を見れないこと」
「友達を優先したいなら、それでいいんじゃないですか?」
手慣れた所作で昼食の準備を進めつつ、智史はぞんざいに返す。
「相変わらず淡白ねえ。面白くないなあ」
「他人の人間関係を面白いかどうかで評価しないでください」
「じゃあ退屈なほうがいい?」
「どうしてそう極端な……。特別不満に思うようなことはないですよ、今のところは」
「本当に、このままでいいと思ってる? このまま大人しく高校生活を終えて、卒業できさえすれば、それで満足なの?」
世間話のような気軽さとは裏腹に、その内容は少しずつ重みを増していく。
友人としての顔ではない。早川のこれはカウンセラーとしてのものだ。
智史は弁当に伸ばした箸を止める。
「なんか、辛気臭い話が始まりそうですね」
「答えたくないなら無理しなくてもいいけど。でも、目を逸らし続けるにも限界があるんじゃないかなって」
日常をやり過ごそうとしている人間にとっては耳の痛い話である。
何事もなければ良いとする思考と、何も残らないのは寂しいという感傷。二人の方針は正反対を指しているのだ。対立とは行かないまでも、心理的な食い違いが場の空気を重くする。目前で柔和に笑む大人が絶えず視線を注ぎ続ける。
智史は口を開くまでに幾度も思考を整理した。
自覚があったからである。内側で生じた疑問は消えることなく燻っていた。
「さっきも言いましたけど、今にそれほど不満はないんです。このまま時間が過ぎていっても、俺はそれで構わない。可もなく不可もない平凡な日々で充分だ、これでいいんだって思ってた。……でも、最近になって色んなことを考えるんです」
一字一句を逃さぬように、早川は姿勢を正す。子供の変化を見極めようとする。
智史は少し前の岸谷との会話の中で曖昧な感情表現を認めるようになった。だから、綯い交ぜの気持ちを極力感じた通りの言葉に訳していく。
「自分がもし、もっと違う行動を選んでいたらどんな未来があったのかなって。こんな妄想を繰り返しても、現実を変えることなんてできないって知ってるのに。それでも、気がつくと可能性を追いかけてる自分がいるんです。失ったはずの光景を思い描いてしまう。折り合いをつけて見ないようにしてきたのに、視界に飛び込んできたそれは余りにも眩しくて、どうしたらいいか分からなくなる……」
冷めていたはずの心が熱に惹かれて脈を打つ。素通りしてきた分かれ道の前で、どう進むべきかを苦慮している。誰かのように、自分を信じて行動できるような精神性こそが重要だという理解だけはあるのだ。
昔の智史は、それを正直に吐露することもできなかった。
「最初は随分と毛嫌いしてたけど、こんなにも変わるのね」
語る雰囲気から滲むものを掬い取り、早川は表情を綻ばせた。
「何が言いたいんですか」
「さあね、何を言いたいんだと思う?」
問いを交わし合って、二人は一度閉口する。具体的な言及を介さずとも、該当する人物は一人しかいないと知っていた。目を逸らす智史の無愛想な顔を見ながら、引き合わせた張本人は静かに微笑む。
一人遅れていた昼食の用意を済ませた早川が先に箸を口へ運んだ。思い出したように智史も手を動かし始める。
「由美奈も和島くんも、出会った頃よりはお互いを認められるようになったのかしら」
「まあ、初期の頃に比べたらそうでしょうけど」
「ふうん。意外と肯定的なんだ?」
「存在を認めることと好きか嫌いかは別問題ですよ」
「確かに。本気で拒絶する意思があったらここに来る頻度も少なかっただろうし。……そもそも和島くんは、他人に悪意を向けるのが苦手だもんね」
「…………」
何気ない指摘が智史を俯かせた。
その気配の移り変わりを早川は取り上げない。本人はそれを気にしている様子だったが、カウンセラーはこれを美徳として解釈しているからである。
反発と対立を重ね嫌いだとさえ伝えたこともあった。けれど智史に笹原を恨む理由はない。啀み合っていたのは無知を前提にした感性の不和によるもの。干渉するから齟齬が生まれるのであって接していなければ波風も立たない。
大抵『嫌う』という働きは受動的な感覚である。一方の『悪意』は能動的に現れる。単独行動が主であり他者との関わりが薄ければ、悪意を抱くこと自体も少なくなっていく。
「好ましくない相手だと知った上でお昼を一緒に食べられるんだから、当時のわたしも感心したわ」
笹原は男子への敵意を隠さないが、それが行われるのは実害を伴った場合が殆どだ。大人しい異性にまで睨みを効かせる必要はない。男性不信は護身のための反応である。適切な距離を誤らなければ余計な問題は避けることができる。
つまり智史と笹原の確執は、男女の差異ではなく価値観に端を発していたことになる。加えて、単一の人間性だけを踏まえれば決してミスマッチというわけでもなかった。結果として早川の観察眼は的を得ていたと言えるだろう。
「三人だったから、ですよ。そうでなきゃ……多分こうはならなかった」
人付き合いの乏しい智史と男性を忌避している笹原。両者を繋いだ功労者は間違いなく早川である。その仲介人は、二人の間を取り持つことができて嬉しそうだった。
「今の和島くんは、由美奈のことをどう思ってるの?」
パーソナルな気持ちを問われる。
智史は不思議と狼狽も動揺もしなかった。心が乱れるのは確信を持てないから。どのような邪推が差し向けられようとも、当人に疑問の余地がなければ平静は崩さずに済む。
呼吸によって雑念が吐き出され、言語化は簡潔に進んでいく。
「外見と内面にギャップがある生意気な女子で、周りに流されて主張を曲げたりしなくて、対人関係について人一倍考えてたり、精神的な潔癖のせいで息苦しそうに見える。ざっと大まかに言えばこういう感じですかね」
「潔癖で息苦しい……か。わたしもそれは否定できないかな」
笹原の内情を知る友人が苦笑する。言葉の応酬でそれを感じ取った智史の認識は概ね正しいものだった。淀みない返答はその場凌ぎのための代物とは違う、中身のある評価。
予想外の素直さは喜ばしいものだ。しかし、早川が期待していたのは思春期の子供らしい葛藤の発露であった。
「他にさ、もっとこう……あったりしない?」
「どんな発言を引き出したいのか知りませんけど、これ以上を俺に求められても困ります。それは――先生が一番解ってるはずですよ」
悟ったような、淡々とした口振り。
歳相応の少年少女であれば、何かを期待して色めき立つこともあっただろう。容姿の優れた異性に対して関心を抱くこと、それ自体は責められたことではない。
ただ、返答はその可能性すらも押しのけた。
示唆されたのは笹原に限った話ではない。智史が抱えるのは全般的な女子との接し方に関する問題だった。校内で詳細を知る人間は僅かである。
「そうだね。いくら立ち直れても、それですべてが元通りになるわけじゃない」
強要はせず、気持ちを知り受け入れるのがカウンセラーの役割。
しかし、早川綾乃という人間は、悲観的な自制心を見過ごすことができない。
「でも、何もしないままでいいの?」
「こればっかりは気持ち次第ですから。行動しなかったからといって、誰に実害があるわけでもないし。急ぐようなことじゃないと思ってます」
「由美奈が相手でも変わらない?」
「……先生は俺と笹原が恋仲になればいい、とでも考えてるんですか?」
智史は暗黙の中にあった観点を浮き彫りにする。あくまでも、他者からの少なからぬ邪推を否定するために。
早川の願いは、前向きな未来を思い描く意思、これを再起させることにあった。
「一つの可能性だとは思ってる。もちろん、わたしの勝手なお節介だってことは自覚してるけどね。だから二人の意見を蔑ろにするつもりはない。……ただ、もしそんな未来があったら、きっと楽しいよ?」
青春を夢見るような無邪気さが色褪せた心に刺さる。染みついてしまった負のイメージを安々と手放せたなら、苛立ちを覚えることもなかったはずだ。
「他人だからそう思えるってだけで、本人がそうとは――」
「今の二人なら大丈夫だよ」
根拠もない見解を、第三者の早川が断言する。
欠片の迷いもない瞳が少年の幼さに激励を送る。
眩しさから逃れるようにして、智史は堪らず目を伏せた。
臆病な口は震えていた。音を出すまでに時間が必要だった。
「誰かを大切に思うとか、そういうの、俺には向いてないですから」
「そんなふうに考えてしまうのは二月の一件があったから? それとも、自分を押し殺そうとする理由が他にあるとか?」
拒むような沈黙が続く。
尋ねた者は、ただただ優しく見守っている。
答える者にとっては、温もりこそが毒だった。
浅い呼吸だけが零れていく重々しさの中で、小さな咳払いが流れを区切る。
「この手のことは何度も質問してるけど、やっぱり話してはくれないんだね」
「…………」
「答えられないのを責めるつもりはないよ。誰だって相手にどこまで伝えるべきかを決める自由がある。話せないことは無理に話さなくてもいい。これは前にも言ったよね」
智史は無言で首肯だけを返す。
「まだ『許せる相手がいない』ってことは判ったから。今日のところは、いいよ」
頑なに閉ざされた弱さの前で、カウンセラーは進むことなく足踏みをする。
見逃されたことによる安堵が大きな溜め息を生んだ。
「ごめんなさい。先生のことを疑ってるわけじゃないのに、俺は……」
「駄目」
珍しく、早川が人の話を遮った。
立てた人差し指を唇に添えて、智史の言動を先回りする。
「言ったでしょ、責めたりしないって。土足で踏み込んだわたしが悪いの。だから謝らないで欲しい。……ね?」
最後の声色が明るく彩る。大人の子供らしい茶目っ気が空気を少しずつ和らげていく。あどけない所作は精神的な余裕によって表れたものだ。
「自分が未熟だってことを痛感させられるなあ。……どうやったら先生みたいに振る舞えるようになるんでしょう」
成人と未成年、両者の経験値の違いは如実に現れている。
しかし、智史の心境とは裏腹に不満そうな眼差しがあった。
「それはこっちのセリフなんだけど? わたしがちょっと上目遣いしてあげるだけで、そこらの男子高校生くらいなら一発で落とせるのに。和島くんって相当捻くれ者よね」
「先生こそ高校生相手に何言ってるんですか」
「きみが素直じゃないって話をしてるのよ。どんな形であれ、誰かに好意を寄せることは悪いことじゃないのに」
「俺は思ってることを口にしただけですよ」
「ふうん。……じゃあ、わたしに対しても好きとは言えないの?」
唐突な要求が耳に届いたことで、智史は咳き込んでしまう。
「交際中の相手がいる大人のくせに、子供に何を言わせるつもりですか!」
「無理かー。いつもわたしのところへ来てるっていうのに、素直じゃないねえ」
慌てふためく姿を見ながら早川はにやついていた。
まるで先程とのバランスを取るように、いつになく気を抜いている。意地の悪い笑みだ。まともに張り合っても勝ち目はないだろう。
「そりゃ嫌いじゃないですよ。ええ、まあ……。好き……ですけど」
智史は顔を背け、互いの表情が分からないようにしながら、小声で返事をする。
早川が、心底意外そうに一連の挙動を観ていた。
「言えるんだ。ふーん……。……それは、友人としてよね?」
「当たり前じゃないですか。本気で告白されたって困るでしょう」
笹原と岸谷は以前、興味のない異性からの恋慕は迷惑だと切り捨てた。智史自身にその意向がなかったとしても、判断するのは受け手の感覚に依る。無用の勘違いは防ぐべきである。
けれど、早川は予防線を素通りして、あらぬ仮定を想像していた。残り少ない弁当のおかずを頬張りながら、楽しそうに考えを巡らせている。
「それはさすがにね。未成年との浮気は色々と波風が立っちゃうだろうし」
「冗談にしても悪質ですよ、先生」
注意の声に多少の怒気が混じる。
応える大人の態度はそれこそ本当の子供のようだった。
「ふふっ。ごめんなさい。今日は由美奈がいないから、物足りないんじゃないかと思って。でも、ちょっと加減を間違えたかも」
「そんな心配は要りません」
「遠慮しないでもいいのよ? 寂しかったら強がらずに教えてね。痴話喧嘩だったらいつでも付き合ってあげる」
「なんで言い争う前提なんですか。そもそも喧嘩はやろうと思ってすることじゃないでしょ」
「…………確かにそうね」
珍しい見落としに呆れて智史は笑う。
早川もまた、困ったような仕方のない表情をしていた。
すぐ傍で溢れる木漏れ日を遠く惜しむように。
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