Episode 045 「平行線が行き着く先」

「あたしは彼に、初めてだってあげたのに――!」



 身を焼くような情動が、空気を震わせた。

 ただ、その残響は静寂へと消える。

 この場にいる他三人は堪らず言葉を失っていた。

 杉山の啖呵たんかを耳にして、その表現の意味を量り損ねた者はいなかった。暗に示すものは一つである。親しい間柄であればまだしも、初対面の相手に対して公言するには難しい内容のはずだった。

 未成年らしい安直さや女性としてのプライド。それらが杉山の中で渦巻いている。生々しい愛憎こそが偽れない本心なのだろう。いくら他人に意見されたとしても、簡単には曲げられない重たい情念。自分勝手なその気持ちは、あるいは智史や笹原が持ち得ない好意の形かもしれなかった。少なくとも二人には、取り乱すほど誰かを好きになったことがない。


 傍聴するに留まっていた智史は自ずと視線を逸らした。異性による踏み込んだ発言の前で、どのような顔をすればいいのかさえ分からなかったからだ。早川も同様で、デリケートな物言いに対する態度を迷っていた。不安定な精神を鎮めるためにはどう応じることが望ましいか、逡巡してしまう。

 躊躇うことなく口を開いたのは、一人だけだった。


「結果としてなら、先輩は私よりも多くのことを知っているのかもしれない。駆け足で進んだ分だけ、他人よりも先に見つけられたものがあるのかもしれない。でも……」


 遠慮をせず容赦もなかった女子が真正面から相対する。

 その問いは、決定的なものとなる。


「――それで、得られたものはあったの?」


 空気が止まる。

 声に抑揚はなく、投げかけられたのは淡々とした言葉のみ。

 糾弾するために感情を荒らげたわけではない。

 嘲笑するように表情を歪ませたわけでもない。

 誰よりも抜きん出て、笹原は冷静そのものだった。激しさに囚われないからこそ、鋭く問題の核心を突くことができたのだ。

 目を見張った杉山が遅れながらに体を震わせる。

 口を開き、息を吐いて、声に意味を与えようとして、指摘に沿った返事を組み立てようとして、射抜くような双眸に気圧けおされて、また息を吐き出して、そして。


 三十秒が経ち。

 一分が過ぎる。


 黙していた智史は呼吸さえ忘れそうになる。壁時計の秒針が刻む音と微かな息遣いが耳に入ってくるばかり。

 笹原は杉山への眼差しを逸らそうとしなかった。理知の瞳はこの場から逃れることを容認しない。その様は、個人の思想を通じて、人間という生き物の在り方を問うているかのようだった。思春期の中で形成される主義や人生観の是非を確かめるために、粛々と返答を待っていた。

 短くも長い一刻の間、杉山は残ったものを改めて数えていた。だが、それは言い訳にさえ届かない。内情を省みるにつれて著しかった熱が散る。漠然とした焦燥、止めどない不満は悔恨へと成り代わり、重々しく降り積もる。痛切に心をさいなんでいく。

 ついに唇は硬く閉ざされたまま、意味のある文言は生まれなかった。

 残酷なまでに、はっきりとした結論が浮き彫りとなる。

 立ち尽くして俯く杉山は、嗚咽を零し、涙を流し始めてしまう。


 見かねた早川がようやく行動に移る。傍に寄り添って宥めることに注力していた。抱きかかえるように両腕で包み込んで背中をさする。

 けれど、それ以上のことを施せずにいた。カウンセラーとして、生徒の味方として、早川は杉山を慰めなければならないと思っていた。それでも、安易な言葉を絞り出すことさえ難しいようだ。

 笹原を知る人間はおおよその予見ができていた。どのような心持ちで臨むのか。どのような点に着目するのか。そして、どのような顛末を迎えるのかを。

 智史に並び早川も、そうなることを止めることができなかった。


「…………」


 苦々しく唇を噛む笹原も同じである。譲れないものを譲らず、突き進むことしかできない。自身が招いた状況に直面し、だからこそ口を噤んでいた。

 やがて大人は判断を下す。


「どっちが正しいとか、何が間違ってるとか、そんなことを言うつもりはないの」


 恋愛沙汰という個人の観念を軸とする問題である以上、共通する明確な決まりはない。環境や時代によっても、それらは多岐に渡って変質するものだ。

 心は感じた通りにしか動かないようになっている。

 それを親身になってケアするのがカウンセラーの役割である。


「ただ、今だけはこの子を優先させて」

「……分かったわ」


 笹原は承諾して席を立つ。


「ごめんなさい。和島くんも今日のところは……」

「そうですね。長居したって何もできないし」


 智史も鞄を手に腰を上げた。

 二人が揃って退室しようとする。その寸前に、掠れた声が力なく告げた。


「あんたはさ、本気で人を好きになったことがないんだろうね」


 杉山の口から出たのは、最後まで他人に関することだった。

 自己と向き合うことが厳しいあまり、意識は余所へと向けられた。端から見る限り、それは苦し紛れの負け惜しみのようなセリフだっただろう。この八つ当たりこそが現実逃避の証なのだと、そう自覚した杉山の表情が歪む。

 かくも痛々しい様相を、一人の女子生徒は晒してしまった。


 盲目の恋が人を愚かにするという。

 対して智史と笹原は、比較的正確に落ち着いて物事を捉えることができている。間違いを間違いだと分析する力に長けている。自制心、あるいは自意識と呼べるものが精神を根強く縛っていた。良くも悪くも二人は自分を見失うことがなかった。

 執拗なまでの理性が容易く過ちを認めない。

 周囲への気配りを忘れた盲目の愚か者とは相容れず、対極の位置に立っていた。

 ここに至ってなお、笹原は冷酷に吐き捨てる。


強請ねだるだけで手に入るなら、みんな幸せだったでしょうね」


 二人が抱える女性としての在り方は、断絶を極めた。




 笹原の背を追うようにして廊下へ出た智史は、カウンセリングルームのドアを閉める。そして、深い溜め息を吐く。

 目の前で女の子が泣いていた。

 だというのに、智史は杉山の人間性を肯定することができなかった。好意的な感情を向けることが適わなかった。笹原の考え方にこそ正当性を感じていたのだ。

 早川もどちらに肩入れすることなく中立を維持していた。手心を加えない笹原に対して直接的な非難も肯定もしなかったのは、指摘自体は見当外れでないと思っていたからだろう。


 物事を正確に認識すること、それは生きる上で重要なことだ。感情を適切にコントロールすることで、失敗する確率を下げることができる。

 しかし、それは損得だけを前提に置いた方法論でしかない。偏りが過ぎれば、利益なしでは動かないような冷たい人間になってしまう。客観的な正しさに徹することで、理屈では量れない感情を否定してしまう。倫理とは一つの尺度であって、万人の心を満たすものではないからである。

 智史は迷っていた。女子二人の会話を起点として道理を組み立てる。繰り返し笹原の価値観を支持する方向に終止する。それでも、思考は同じ場所を周回する。

 心の奥底で何かが燻っている。


 気を取り直して智史が顔を上げると、目前に笹原の後ろ姿があった。その背中は歩き出すことなく立ち止まっている。咄嗟に声をかけようとして、言葉を選べないことに気づく。

 雰囲気に圧倒されていたからだ。

 杉山を遠ざけたように、笹原の心理には他者の弱さを排斥する壁がある。その壁は多くの人間のことを阻んでいて、それがある限り近づくことすら容易ではなくなる。

 他愛ない軽口を叩くことさえも、智史は躊躇してしまった。


「……ごめんなさい」


 前触れなく放たれる、弱々しい謝罪。


「なんで謝る」

「急に話を振ったことよ。相手の出方を見るためとはいえ、つまらないことをしてしまったから」


 杉山との言い合いの中で、笹原は唯一の男子に意見を求めた。その理由は分析に役立てるためだったらしい。


「それくらい、別にいいって」

「本当に?」

「ああ」


 智史はぶっきらぼうに言葉を返した。

 日頃から様々な形で文句の応酬を繰り広げている。第三者を交えることになったとしても気遣いは不要だった。


「そっか。……良かった」


 一つ肩の荷が下りたように、吐息は安堵を帯びる。

 けれど、笹原の気配は落ち込んだままだ。


 ――私が何を言おうと見た目の違いがあるってだけで、連中には理解する気も、話を聞く気すらもない。

 ――そうやって、失うの。気づけばみんな離れていくの。


 いつの日か耳にした弱音を、智史はふと思い出す。

 人間関係について、笹原は気を張っていることが多かった。注目を浴びることで余計な摩擦が生じることを憂いていた。これまでに幾度も衝突を繰り返してきたのだろう。今日のような対立も珍しいことではないのかもしれない。

 親しい間柄とは呼べないものの、智史にはそういった繊細な人間性に触れる機会があった。少なからず知っているからこそ、気落ちしている笹原とどう接するべきか、戸惑ってしまう。


「自分の教室に帰りましょうか」

「……そう、だな」


 寂しげな少女は、一人前へ歩き出す。

 遅れてもう片方も歩き出した。

 隣り合うことはなく、二人の間には距離がある。


「――――」


 智史は、それを遠く感じていた。

 縮まらない数メートルをどうにかしたい、そう考えていた。

 無自覚だった思いに気がついて、進めようとした足が止まる。

 近づくには相応の心構えが必要になる。独りでも真っ直ぐに前を目指そうとする揺るぎない意志は、他者を焦がすほどに眩しかったから。

 その輝きは苛烈を極めている。多くを照らし出し、同時に数多の影を落とす。憧憬や嫉妬、善意と悪意も余さず一人の人間へ連なっていく。上手に立ち回れば向けられる感情を快いものに変えることもできただろう。

 笹原は杉山に対して問いかけた。

 だから智史も思わずにはいられなかった。


 あのような生き方を選ぶ笹原由美奈こそ、果たして何を得ていると言うのだろうか。


 立ち止まった智史とは対象的に、笹原は廊下を進み続ける。

 やがてその背中は階段のあるほうへと消えていった。

 姿が見えなくなっても心には残る。

 忘れられないものが智史の脳裏を掠めていく。

 絶えず燻り続けている何か。

 意識してしまったからにはもう、無視をすることはできないだろう。


「正論は誰かの過ちを咎めるばかりだ。あなたの傷を癒やすことはない――だったな」


 智史はかつて目にした言葉を噛み締めるように呟いた。

 正しさを求めるほどに許される範囲は限定的なものとなる。

 一人で歩いていける笹原の後ろには誰もいなかった。

 同じく独りになろうとした男子生徒を除いて。

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