Episode 046 「足取りは前へ」

 上の空で受ける午後の授業は早く過ぎていく。

 智史のノートにはいくつもの英単語が踊っている。文章に不備はないが、日本語に訳すには時間がかかりそうだった。

 個々の心理状態に関わらず、クラスの空気は平常に回る。英語を担当している岸谷は教師陣の中でも若く、年代も大きく離れていないため生徒の評判は良い。女性としての柔らかい物腰も相まって、特に男子の意欲が向上していた。成績に反映されているのかどうかは別問題である。

 それなりの活気が保たれている中で、智史は一人、自分自身と向き合っていた。無視できない存在のことを考え続けていた。

 何度となく堂々巡りをする。同じ通り道を眺めては潜むものを探し出そうとする。

 しかし、馴染む答えは見つからない。


 定刻のチャイムが五時間目の終わりを知らせる。日直の号令に合わせて礼を済ませると、教室は早々に音で満ち溢れた。

 思索に没頭していた智史は慌てて板書を確認した。抜け落ちている部分を発見して、急いでノートに書き留める。写し終えた内容を比べていると、教卓から離れようとする岸谷と視線が重なった。次いで、向こうから微笑みが返ってくる。

 それはある日の表情に似ていた。

 ――困ったことがあったら気軽に相談してよ。

 岸谷は長居せず教室から去っていく。できることがあるはずなのに、目の前から姿が消えてしまう。好機を逃してしまう。

 再び、繰り返そうとしている。その一点を強く意識する。

 正体不明の何かが、停滞を拒絶した。

 智史は思わず立ち上がる。足が勝手に前へ行くことを急いだ。




 経験で勝る大人の背中に、子供の息遣いが追いつく。


「岸谷先生!」

「……あら、智史くん。きみから声をかけてくるなんて珍しいわね。どうしたの? 今日の授業内容のことで質問に来たのかな?」


 慣れないことへの怯えが迫り、精神的な負荷が口許の動きを鈍らせる。

 だが、智史は引き返さない。


「聞きたいことがあるんです。俺には、頼れる人がそんなにいないから」

「ええと、もしかして勉強とは別のこと?」

「はい。どうすればいいのか、分からなくて」

「次の授業の準備をしなきゃいけないから、手短になっちゃうけど、いい?」

「大丈夫です」

「それで、何があったの?」


 ただならぬ雰囲気に岸谷は身構えつつも、正面から生徒の申し出に耳を傾けた。

 智史は高校二年生に進級してからの出来事を想起する。


「俺はずっと、他人との関わりを最低限に抑えてきました。だけど最近になって、無意味な口喧嘩をしたり、不毛なやり取りを繰り返すことが多くなって。生意気で腹が立つし。考えが噛み合わないこともあるし。お互いがお互いを、友達だと思ってすらいない。……そのはずなのに」


 堂々巡りの中で、何度となく反芻した記憶とカウンセリングルームの情景。確定している過去の言動と、初めて表出した不透明な感傷。

 少ない語彙力の中から、懸命に近しい表現を組み上げる。


「なのに、無視できないんです。あいつの遣る瀬ない姿を見てると、こっちまで調子が狂うんですよ。俺に口出しできることなんてないって知ってるのに、それでもずっと、頭から離れてくれない」


 未だ色のない心の一側面が、脈を打ち続けている。


「自分の気持ちがどういうもので、何をしたらいいのか。自分でも、分からないんです」


 漠然と抱えていたものを、智史は能動的に吐き出した。

 聞き手に回っていた岸谷は複雑な顔をする。

 当然のことながら、人間が他人の感情を完璧に知ることは不可能である。本人が把握できないのであれば、それを解き明かすことは困難を極めるだろう。

 第三者の感想は端的なものだった。 


「そういうナイーブな話こそ、早川さんのほうが詳しく受け答えてくれるんじゃない?」

「……ですよね。こんな話を急にされても迷惑ですよね」

「だけど、そうだなあ」


 自らが力不足だと前置きした上で、誤魔化さずに応えようとする。

 生徒の思いから逃げない。教師である岸谷が、一人の生徒から教わったことだ。


「友達じゃないって言ってたけど、不仲ってほど険悪な関係じゃないんでしょう。でなきゃそこまで悩まないだろうし……。二人での会話がちゃんと成立するなら、一人で考え込まずに話してみたら? 今わたしに伝えてくれたように、正直に説明すればもしかしたら――」

「それじゃ駄目なんです!」


 突然の強張った主張を受けて、岸谷が少し動揺する。

 声を荒らげたのは、妥協できずに苛まれていた理由がそこにあるから。智史と笹原は常に互いの位置を明確にしてきた。些細なことであっても飽きずに文句を交わしてきた。二人には譲れないものがあった。


「曖昧な気持ちのまま向き合ったって、俺も……多分あいつも、納得なんてできない」


 懊悩の根幹にあるのは、対等であろうとする意地だ。笹原が整然としていたように、はっきりとした答えを示せないことが、智史は心苦しかった。

 何かを伝えるためにはそれを形にしなければならない。頭の中に浮かべたものは、表現しない限り個人の内側で完結してしまう。

 それがもどかしくて、智史は拙いながらに自分を語った。

 ほんの僅かに殻が破れる。控えていた歩みを進めようとする。

 新しい行動こそが次への変化を生むのだろう。

 そして、思考を共有できない異なった存在であるからこそ、人は相手との違いを確かめることができる。

 岸谷が根本にある疑問を尋ねる。


「それって許せないようなことなの?」

「自分でも把握できてないようなことを口にするなんて、無責任じゃないですか」

「だけど、その不透明な状態こそが今の素直な気持ちなんでしょ? 偽ったり嘘を吐かれるほうが、わたしは嫌だなあ」


 弾かれたように、智史は岸谷の瞳を捉えた。

 一人では見出せなかった選択肢が現れようとしている。


「ありのままを伝えるだけで充分だと思うけど」

「でも自信がなくて」

「じゃあ、どうしてわたしを呼び止めたの?」


 問われた智史は静かに口を結んだ。

 返事はない。沈黙は岸谷が予想した答えを教えてくれる。


「迷いを解消したいって強く思えるほどの、素通りすることのできない何かを、きみは見つけたんでしょ?」

「…………」

「そんなふうに悩んで考えて、誠実でありたいと願えるなら、きっと大丈夫」

「そう、でしょうか」

「廊下でこんなふうに堂々と話せてるんだし、その行動力があればなんとかなるって」

「え?」


 発破をかけるように、岸谷が朗らかに笑い飛ばした。

 内心の発露に突き動かされ、視野が狭まっていた智史は状況を認識する。級友とであればまだしも、教師と生徒が人目の多い廊下で真剣な立ち話をしていた。加えて一度声を張り上げてしまった場面もある。いくつかの訝るような眼差しが二人に向いている。

 冷静になればなるほど、智史の頬は熱を増した。


「ありがとうございましたっ」


 辛うじて忘れずに礼を言い、逃げるように退散する。


「頑張れ、高校生!」


 若く慌ただしい少年の後ろ姿へ、大人の女性はエールを投げた。




 教室の自席に戻った智史は、放置していた教科書やノートを片付けようとする。


「……あー」


 そして思い出す。岸谷を追ったのは、写した板書を確認している最中のことだった。黒板の文字は日直の手によって綺麗に消されてしまっている。正確さを求めるのであれば、誰かのノートを見せてもらうしかない。

 身構えつつも、智史は再び慣れない行動を取る。

 隣に座っている人物を呼んだ。


「なあ藤沢」

「ん、どうした?」

「英語の……さっきの授業のノートを見せて欲しいんだけど、いいか? すぐに返せるから」

「おう。いいぞ」


 藤沢は気前良く言うと、引き出しからノートを一冊だけ抜き取り、差し出してくる。智史はそれを受け取って今日の内容に目を通した。必要な訂正と蛍光ペンのマークを加え、補完を済ませる。


「ありがとう。助かる」

「これくらいならどうってことないって」


 快活に笑う藤沢は、その後もどういうわけか智史から視線を外そうとしない。


「……なんだよ、俺の顔に何か付いてるのか?」

「そういうのじゃないけど、さ」


 智史は含みのある様子に警戒心を抱く。

 頬を掻きながら、藤沢は述べた。


「珍しいなと思って」

「何が」

「さっきトイレから帰ってくる時に、廊下で和島が岸谷先生と話してるのを見たんだ」


 途端に智史の動きが鈍り、挙動が怪しくなる。


「その、あれだ、忘れてくれ」

「もし困ってることがあるなら相談に乗るけど?」

「いいって。気を遣わなくても」


 藤沢との関わりを持ってから日が浅いため、智史は距離感や応対の仕方をうまく定められない。土台として共有するものが少ないからだ。

 曖昧なものを排し、一つずつ確かめるように、区切るべき領分を決める。


「自分のことは自分でやるよ」

「そっか」

「お前のほうこそ、他人の心配してる暇はあるのか? カウンセリングルームで相談してから数日経ってるだろ」

「ああ、彼女の話な。……ちょっとずつだけど、相手の考えてることが分かってきたような気がするんだ。意識して注目するだけでも、これまでとは違って見えてくるからさ」


 一人の男子生徒の顔には迷いがなかった。


「そんなに変わるものなのか?」

「ああ、意外と違ってくるもんだよ。ぼうっとして過ごすよりも、見ようと思って見てたほうが、ちゃんと理解できるんだと思う」


 誰かのために努力する姿が、智史には眩しく映る。


「あるいは、俺も――」


 他者と関わることで人は変わっていけるのだとしたら。


「和島?」

「いや……、別に」


 呟こうとした言葉の先を呑み下して、閉鎖的な心は今までと同じく内向きであろうとした。

 気まぐれかもしれない。長続きはしないのかもしれない。

 それでも智史は、停滞に縋ろうとする弱さを押し殺す。


「いつか、気兼ねなく話せるようになりたい、……とは思ってる」


 乏しい声量が意思表示のために前へ出る。

 最悪の場合、耳に届いていなくとも構わなかった。智史は自身の気持ちを形にすることができれば良かった。


「まあ、気長に待ってるよ」


 独り言のようなセリフに藤沢が応えた。過度の期待をするでもなく、遅いペースを責めるでもない。それは意思を尊重するという態度の現れである。

 智史は高校生活が二年目に入っても、平坦な毎日を過ごすのだろうと高を括っていた。

 見ようと思わなければ、決して見えてこないものがある。

 自覚をするだけでも、暫定的な方針を決定することができる。

 だから、智史は放課後を活用しようと、スマートフォンの画面に指先を滑らせた。

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