Episode 040 「触れない領域」
最寄り駅まで道半ばを越える。
女子高校生二人の間では無言が長引くことはない。
「私って考えすぎなのかな」
笹原は自らの内心を吐露した。不特定の相手には決して見せない弱気な姿を晒す。
確固たる意思を貫こうとする姿勢を間近で窺ってきた悠香にとって、その口振りは珍しいものだった。
「そんなことないと思うよ。少なくとも能天気で何も考えてないよりは全然いい気がする」
「そう、かな……。だといいんだけど」
前向きな解釈は、しかして懐疑的に受け止められてしまう。他人の善意よりも内側にある自意識が勝ってしまうからだ。
「余計なことばかりが目に入るとさ、物事を純粋に楽しめてないんじゃないかって、たまに考えるんだ」
「余計なことって、周りの反応とか?」
「平たく言えばそうなるのかな。相手の行動を疑う癖がついちゃってるから」
「もしかしてわたし以外のクラスメイトと積極的に関われないのは、それが原因なの?」
「うん。今でこそ悠香とは普通に話せてるけど、私は、最初はあなたのことも簡単に受け入れられなかったくらいだし」
「中学の時もそんな調子?」
「試行錯誤は、したんだけどね」
続きを言葉に変えずとも、力ない微笑が過去の顛末を消極的に語る。笹原の相貌は綺麗である以上に、年齢にそぐわない儚さを秘めていた。
「学年が上がるにつれて、みんなの反応は控えめになるどころか過敏になっていった。身体的にも精神的にも、誰もが私を特別視しようとするの。大人も例外じゃなかった。中身を置き去りにして、重視してるのは見た目ばっかり」
口が矢継ぎ早に当時の心境を詳らかにする。内側に留められていた思いが堰を切ったように溢れていく。
「周りと同じように接して欲しいだけなのに、私に向けられる態度には誤魔化しきれない何かが紛れてる。優遇されることは私にとって都合が良くても、他の人は不満に感じる場合だってある。話したこともない相手から唐突な悪意が飛んでくることだって、まったくないわけじゃない」
笹原の経験上、同世代の友人は貴重な存在だった。
気を許せる相手がいればこそ、閉じていた懐を開くことが適うのだろう。
「今は多少なり発言に気をつけるようにはなったけど、抑え切れない時はある。余計な一言のせいで終わってしまった関係がいくつもあるんだ。それを解ってるのに、私は肝心な場面でその場
奥深くに根ざす個人的な観念が明らかになる。
独白にも似た一連の文句、それらは戒めであり、諦めでもあった。
山積する問題を解決するために導き出された結論は、集団生活における世知辛い現実を多分に表していた。ここに至る笹原の苦悩は他人へ心を気軽に預けられなかったことにある。
積み重ねられた過去は、良くも悪くもその人の生き方を大きく左右する。
けれど、その影響が内側に留まるばかりではないとすれば。
「わたしはこれからも、由美奈の傍にいるつもりだよ」
悠香が無断で笹原の手を取った。触れ合う肌と肌が言葉では伝えきれないものを繋ぐ。抗議の声はない。それは優しく握り返される。
誰かの感情を揺さぶり動かすこともまた、当時を懸命に生きた人間にだけ認められる成果なのだろう。
「そうだね。私もいつか、そんなふうに言えるようになりたいな」
乞い願う眼差しは、けれど遠くを焦がれるように宙を仰いだ。
笹原はその視線の先に何を求めるのか。
「…………あ」
短い吐息が発見を知らせる。悠香も笹原の視線が捉えたものを追った。
会話に集中していたこともあり駅舎までの距離は残り僅かである。放課後になったばかりなので制服姿の高校生も多い。
その中で二人が認めたのは、駅前に位置するコンビニから出てきた一人の男子生徒だった。ビニール袋をぶら下げながら改札のほうへと歩いていく。
「あれって和島くんだよね」
「みたいね」
目に見える事実を口にする悠香。
笹原は我関せずと言わんばかりに瞑目するだけだ。
「いいの?」
「何が」
「基本的に昼休みにしか関わらないんでしょ。折角の偶然なんだから一言二言の挨拶くらいしてみたら?」
「無理して話しかけたって不毛な時間を過ごすだけよ。それに綾乃がいない環境で口を利かなきゃいけない理由もないし。必要最低限で充分じゃない」
「わたしは由美奈を外で見かけたら追いかけるけど?」
「それは友達が相手だからでしょ。特別親しくもない人に対してするようなことじゃないわ」
「……むぬぬ」
悠香は納得できずに閉口する。
都合の良い屁理屈を即興で組み立てたとしても通じることはないだろう。他人に厳しい笹原は相手の言動を分析することに長けている。一度疑いの目を向けてしまえば安易に納得することはない。
つまり、より確実性のある指摘が不可欠だった。
「そんなに距離を置こうとしてる男の子と二人きりでカフェに行くのは、最低限なの?」
「どうして悠香がそれを、一体誰から――」
如実に顔色が変わる。生徒との会話で笹原がその一件を持ち上げたことはなかった。積極的に吹聴するような出来事ではないからである。だとすれば、悠香へと口外したのは誰か。
知る人間が少ないからこそ、突然の困惑に関する答えは迷いなく浮かび上がる。
「んふふふ。……どんなカウンセラーから聞き出したのかしら。私とっても気になるわ」
不敵な笑みと怪しげな視線を一身に浴びながら、悠香は苦し紛れにおどけてみせた。
「早川さんとはすでに連絡先を交換しているのでした」
「やっぱり。厄介な繋がりができちゃったなあ」
笹原が分かりやすく項垂れている。その二人の間でどのような意見交換が行われるのかを想像したようだ。
「そんなに和島くんのことが嫌い?」
「気に食わない奴ってことは間違いないわね」
「それは、嫌いとは違う感情なの?」
「さあ。少なくとも好きではないし、友達でもないし。一言で表すなら、そうねえ……いつか打倒すべき敵かしら」
至極真面目に考え込んでいる笹原の姿が、悠香には不思議でならなかった。
「何それ? ゲームのボスみたいなもの? そこまで悪い印象はなかったけどなあ」
「奴の小賢しさを甘く見たら駄目よ。やるなら徹底的に叩きのめさないと」
眼光が人混みに混じる前方の背中を射る。そこにあるのは後ろ暗さのない敵対心だ。
和島のことが話題に挙がると、笹原はいつになく舌が回るようになる。
男子との接点を執拗に避けている人間が、能動的な感情を剥き出しにしている。
他と違っていることは疑いようもないことだった。
「だったら今戦ってみる?」
「え」
その一言だけを残して、悠香は軽快に駆けていく。
改札へ続く階段を上る男子高校生の隣に、一人の女子が並んだ。
「偶然だね、和島くん!」
悠香は明るく声音を弾ませる。
対して男子の反応は鈍く、訝るような眼差しを向けた。
「ああ……槙野さんか」
「どうしたの、テンション低くない?」
「え、いや普通だけど」
基本的に個人で行動することを望む和島は淡々としている。
日常的に誰かと会話することを好む悠香は親しげに尋ねた。
「ねえ、何番線の電車に乗るの?」
「……二番線を使ってる」
「そっか、じゃあわたしたちとは反対方向だね。残念」
不一致を惜しむように悠香が息を零す。帰路が途中まで同じであったなら、続く言葉は決まっていただろう。
二人は階段を抜けて改札口があるフロアに出る。
「あいつから、何か聞いてないのか?」
駅のホームへ向かう人の流れに続くより先に、質問があった。
悠香は話が見えずに立ち止まる。行き交う雑踏の邪魔にならないことを確認してから、和島も歩みを中断する。
程なくして、合点したような笑みが生まれた。
「言われたよ。五時間目の体育、女子はバスケだったんだけど、チームに別れて順番に試合するでしょ。由美奈ってば、その休憩中に伝えてきたんだよ。タイミングおかしいと思わない?」
ズレた感覚を思い返しながら、笹原の友人は楽しそうな顔をした。
「なら、なんで……」
「話しかけることまでは否定されてないもん」
それはある種の屁理屈だったが、事実は事実である。
畳みかけるようにコミュニケーションは続く。
「今度さ、時間が合うようだったら一緒に帰らない? この駅まででいいから」
「……もしかしなくても、そこにはあいつも含まれてるんじゃ?」
「絶対とは言わないけど、偶然そうなる場合もあるかもね」
十中八九、三人になることは明白だろう。
早川のように見守ることも選択の一つだと知っていても、大人のように気長に待つことは悠香にとって不得手だった。
和島は嘆息すると、改めて悠香のことを見据える。
「――やめたほうがいいよ」
「どうして?」
「男子と一緒にいるだけで不都合なことが起こるんだとさ。笹原の傍にいるなら分かるんじゃないか?」
「それはっ、そうかも……しれないけど」
「同性が相手のほうが気楽なんだよ。槙野さんだから気を許せてるんだと思う。俺は、そういうのは無理だから。余計なものばかり見てないで、ちゃんと笹原のことを見てやれよ」
あくまでも、気を遣うような体を装いながら。
誰かのことを重要ではないと吐き捨てる。
具体性もなく否定する言葉は、他でもない和島自身を追いやるような響きを帯びていた。
「じゃあ、俺はもう電車が来るから」
他人に対しては優しい声色が、区切るように告げる。
和島は急ぎ足で改札の人混みへと消えていった。
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