Episode 041 「向かうべき場所」
電車がホームに到着し、多くの人々が改札へと流れていく。
同学年の男子の姿が視界から外れるまで、悠香はその場に立ち尽くしていた。価値観に大きな溝があることを意識しながら、自らの位置関係を再確認する。
「共通してる部分はあるんだろうけど……それでも、由美奈とは違ったタイプだなあ」
笹原と和島は似た者同士である、と早川は評していた。
他人が近づくことを避けようとする側面は同様なのかもしれない。しかし、言動を形作る感情や心理には大きな違いがある。
笹原は他人に対して強い警戒心を持っている。抜きん出た容姿に注目する者たちがどのような感情に基づいて距離を詰めようとしているのか、誤らずに見極める必要があるからだ。一方で、邪な気持ちを有さない相手とは柔らかい物腰で接することが増えていく。善意を肯定的に受け取ろうとしている。
だが、和島の態度には様々なものを遠ざけようとする節があった。適切な間隔を踏まえれば比較的前向きな姿勢で応じようとする。真っ向から否定することはない。けれど特定の領域へ干渉することを執拗に拒む。たとえそれが良心によるものであっても、許すことができていなかった。まるで、人と密に寄り合うことを恐れるように。
悠香は理解することができない。自らの意思で人との関わりを避ける、そのような在り方について共感することが適わないのだ。経験上、誰かと一緒に過ごしたいという欲求を積極的に否定する理由はなかった。集団生活を謳歌できる者にとっては馴染みのない代物である。
個性の一つだとして割り切ることもまた、人間関係を円滑に進める方法なのだろう。しかし、同じ目線に立たなければ他人に見えている景色は望めない。異なった価値観をより身近に感じるためには、既存の尺度だけでは足りなかった。
そこまでを意識して、ようやく悠香はあることに気づく。すっかり失念していた人物の姿を探すために、急いで辺りを見回した。
和島の視界に入ることを嫌ったのか、笹原は少し離れた壁際に背を預けて待っていた。
「ごめんね、後先考えずに思いつきで行動しちゃって」
「慣れてきたから構わないわ。で、もう終わったの?」
「一応言いたいことは言えた……のかな。うん」
「そう、良かったじゃない」
駆け寄った悠香に対して、笹原は苛立つでもなく穏やかに答える。
身勝手が許された安堵からか、余分な文句が付け足された。
「今回は無効試合だね」
「つまらないこと言ってると置いてくわよ」
「あ、ちょっ、待って由美奈!」
早足で改札へと踏み出す笹原。
その背中を悠香は慌てて追いかけた。
次の電車が来るまでに十分弱の時間がある。
駅のホームに設置されている椅子に腰掛け待つ二人の女子高校生は、暇を持て余していた。会話は自然と直前までの出来事をなぞる。
「いつか途中まで一緒に帰ろうって誘ってみたけど、断られちゃった」
「でしょうね」
特別な驚きもなく笹原は受け答える。悠香にとっては面白い展開ではない。
「男子と一緒にいるところを誰かに見られたら変な誤解を与えかねないって、由美奈に対して気を遣ってたよ」
「単純に自分が巻き込まれたくないだけなんじゃないの?」
「それだけじゃないと思うよ。余所見してないで由美奈のほうを見てやれ、だってさ」
「自分のこともままならないくせに、そんなこと言えるんだ……」
悠香が言われた通りの内容を伝えると、笹原はそっと下を向いた。
ただ反目し合うだけの二人であれば、物憂げな顔を作ることもなかっただろう。
それでも、返ってくる言葉は味気のないものだった。
「いいんじゃない? 本当にそれを望んでいるんなら。間接的に伝えようとして、その上本人から直接言われたら否定なんてできないでしょ。悠香も少しは自重したら?」
「わたしがすることには散々注意するのに、由美奈は和島くんの気持ちを尊重するんだ?」
「別に、そういうわけじゃない。……綾乃だってこの前言ってたでしょ、『自分が望まない関係性は長続きしない』って」
「ふうん。『徹底的に叩きのめしたい』って息巻いてた人の発言とは思えないなあ」
日頃の言動に対する指摘において、遅れをとることの多い悠香が攻勢に出る。
笹原の弁明には物事を順番に並べて確認するような丁寧さがあった。
「確かに、口喧嘩するなら負かしてやりたいって、そう考えることはある。効果的な一撃を与えてしまえば、無駄な小競り合いも今後は起こらなくなるのかもしれない。だけど、再起不能になるまで追い込むのは違う……でしょ?」
自身の頭で組み上げた結論であるはずなのに、迷いを隠せていない。
それでいて、一度紡いだ言葉を慌てて訂正することはなかった。
不明瞭な部分をも余さず含めて、ここにある気持ちのすべてだと、笹原は言う。
だからこそ、悠香は安堵を零すのだ。
「やっぱり。友達になることを、諦めなくて良かった」
高校二年生となり、クラス替えを経て笹原のことを間近で知る機会が増えた。進級以前に小耳に挟んだ噂話は、美化されたものか蹴落とすような内容が多かった。百聞は一見にしかず。悠香は風評を払い除け、自らの感性で相手を見定めようとしたのである。
そして、思い知る。
笹原由美奈は現実を受け入れていた。
反感を買うことがある自分の容姿や言動も、敵意を隠さない同性の嫉妬や陰口も、仕方のないことなのだと割り切っていた。耐えようとする寂しそうな横顔を、他人には見せまいとしていた。
誰も傍にいないから。
それが――悠香が友達になりたいと願うようになった理由。
「何よ急に」
「ううん。なんでもないよ」
他人に厳しい笹原が、本来は真面目で優しい人間であることを、今の悠香は知っている。
次いで、人一倍素直な性格ではないことも掴めている。
誰かが引き出さなければ、奥で眠っている代物は鳴りを潜めるばかりだろう。
「和島くんって、最初からあんなふうだったの?」
「……今日は随分と熱心に聞いてくるのね」
「駄目だった?」
「別に。ただ疑問に思ってるだけ」
語ることが少ないわけでもないのに、笹原は和島の話題を率先して深めようとはしない。常に一定の距離が保たれていて、関わり合いを最低限に留めようとする。
「由美奈も和島くんも日頃から顔を合わせてるのに、お互いのことに対して、なんて言うか……冷めてるよね」
「それで不都合ないもの。何か問題でも?」
「問題はないけど…………」
「けど?」
笹原はその続きを促した。
自分の気持ちに正直な悠香が珍しく言い淀む。
「他人が口出しするべきじゃないんだろうけど……ちょっと、モヤモヤする」
曖昧な感情は模糊としたままに吐き出される。
的確な言葉ではなかったが、それが悠香の率直な思いなのだ。
諦めるような一息を挟んでから、笹原は観念したように口を開く。
「初めて会った時からあんな感じだったわよ、彼は」
「え?」
「しつこいから答えてあげたの。知りたかったんでしょ?」
「……うん」
それは先程の質問への回答だった。
不意に、アナウンスが駅構内に響く。もうすぐ電車がやってくる時刻である。
笹原の気が変わる前に、悠香は頭に浮かぶ不可解を取り上げる。
「本人は自分に友達はいないって言うし、早川さんは例外としても、わたしや由美奈にも距離を置いてるし。和島くんは誰が相手でも壁を作ってるのかな」
「教室での立ち回りなんて知らないけど、多分そうなんじゃない?」
「どうして、そんな態度を崩そうともしないんだろう」
「他人を拒む理由、ねえ」
これまで触れたことのない人間性に戸惑いながら、それでも思いを巡らせる悠香。
知らないからこそ理解したいという欲求が生まれているのだろう。善意や悪意といった方向性に関わらず、好奇心は自分の外側にある未確認に対して反応する。
もう一人も、例外ではないのかもしれない。
「きっと……他人が一歩踏み込んでくることに、慣れてないんだと思う」
悠香は声がするほうへ意識を向けた。
笹原の横顔に密やかな
「それはどういう……?」
「人と親しくするってことは、つまり気を許すってこと。ここまでは近づいてもいいって認めるところから始まるでしょ」
「うんうん」
「でも彼の場合は、そもそも人が傍に寄ってくること自体を避けようとしてる。適当な軽口ならいくらでも出てくるのに、自分自身に注目が向くと打って変わって慎重になるの。テリトリーが荒らされるのを嫌がるみたいに」
「なんか、警戒心の強い捨て猫みたいな感じだね」
「そんな可愛らしいものじゃないと思うけど」
二人は控えめに笑った。笑って、溜め息を吐いた。
他人のことであるとはいえ、快く受け止められるような話ではなかったからだ。
遠くからレールを走る金属音が近づいてくる。
「要は人間関係に対してネガティブだってこと?」
「……マイナス思考とは、また少し違う気がするのよね」
昼休みという短い時間を一ヶ月以上繰り返してきた笹原は、和島について多少なりとも固まった見解を持っていた。口論を交わし価値観をぶつけ合えば、否応なく互いの異なる部分を知ることになる。
「そうなの?」
「うーん……。感覚的なことだから断言はできないんだけどさ」
他人の言動を注視してしまう人間にとって、些細な違和感は見逃せないものらしい。
やがて、二人が待っていた電車が到来する。
車輌が完全に停止する前に、悠香は椅子から腰を上げると伸びやかに腕を突き上げた。片や笹原は、重たい荷を背負うような憂いに直面する。
「あれは多分、何かに対する――罪悪感」
沈み込む思考の中、ここにいない人物の内情を推察した。
最低限だと言い張りながら。それでも、気持ちは勝手に動き出してしまう。
槙野悠香と笹原由美奈には大きな違いがある。
笹原は特別な場を設けずに、放課後の通学路で自身の気持ちを言い表していた。
他者に対して抱えている価値観を述べることは、笹原にとって不慣れなことではない。意見を明確に発言しようとする強い精神力があるからである。
そして、自他の感覚を整理して考察することは笹原の習慣となっている。様々な眼差しを向けられるからこそ、あらゆる可能性を考慮し把握する必要性があった。
そのため、心の中にあるものをすらすらと言葉へ変えることができた。平素から馴染みのある行いは、改まった環境へ移動することを必要としなかった。
常日頃から何事かについて思考を巡らせること。
切り替えようと意識するほどに付いて回る自意識の存在。
誰に限らず人間は、しがらみを無用と割り切って、取り払うことが難しいようにできていた。
「――由美奈? 急がないとドア閉まるよ」
「ええ。分かってるわ」
悠香が友人へと呼びかけた。
笹原は、それに応えるために立ち上がる。
呟かれたはずの推し量るような言葉は、誰の耳にも届かなかった。
だからこそ笹原は、胸中を渦巻く感情について否定する機会を失う。
そうして、自分自身の内側で生じたものから逃れることができなくなる。
各々の目指す駅へ向かうために、二人は電車へ乗り込んだ。
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