Episode 038 「根底に深々と」
昼食を済ませてからは女性二人を中心にして談笑に耽っていた。
不意に笹原が立ち上がる。
「ちょっとお手洗いに行ってくるわ」
「そう、行ってらっしゃい」
ソファから離れる姿を見ながら早川は声をかける。智史は黙ってドアが閉まるまでを横目に見ていた。
継続的だった話し声が途切れてカウンセリングルームは静けさを思い出す。
けれど、それは束の間のことだった。
「すっかり由美奈に先を越される形になっちゃったわね」
「なんの話ですか? トイレなら別に我慢してませんよ」
「あの子の場合は相性の問題だったから。偏見の少ない相手と巡り会えさえすれば、あとは背中を押してあげるだけで充分だった。少し屈折しているところはあるけど、コミュニケーション能力に不自由しているわけでもなかったし」
前置きも補足も踏まえず、早川はお構いなしに続けた。
耳を傾けつつ智史は内容を理解する。
「自分のせいで面倒事に巻き込んだらとかどうとか言ってましたけど、今のところは問題なさそうですね」
「そうね。少なくとも由美奈のほうは順調に進んでいるんでしょうね」
言い方には含みがあった。この場にいない人物のことを挙げるにしても、違う存在に意識が向けられているようである。
早川が居住まいを正す。眼差しは誤らずに一人の男子生徒へと注がれていた。
「最初は自然な成り行きに任せるつもりだったけど、それだけじゃ難しいのかしら。その辺りどう思う、智史くん?」
「なんですか急に。あと名前で呼ぶの、慣れないんでやめてくださいって」
早川は改めて確認するように智史の反応を観察していた。困ったように笑いながら、それでも切り込むために問いを投げる。
「――それは本当に、名前で呼ばれることを拒んでいるからなの?」
「……どういう意味ですか、それは」
「誰かと親しい間柄になるのは怖い?」
「親しいって……先生には彼氏いるでしょ。そうじゃなくたって今の俺には――」
「色恋の話じゃなくて一般的な人間関係の話よ。解ってるんでしょう?」
逃げ込んだ道は簡単に塞がれてしまった。
柔らかくも鋭さがある口調は安易な誤魔化しを認めない。
「和島くんには今ある以上の繋がりを築くことに抵抗があるみたいだから」
「そんなふうに、見えますか」
「ええ。自分で閉じ籠もった殻を破りもせずに維持して、心の脆い部分を守ろうとしてるように見える」
誰に伝えることもなかったはずの側面が、カウンセラーの手によって暴かれてしまう。
観念した智史は、自分自身の精神性についての議論を受け入れることに努めた。
それに近い指摘を数十分前にも受けている。
「廊下で待ってた時も、笹原に似たようなことを聞かれました」
「そうなの? あの由美奈がねえ……」
興味深そうにその事実を捉えようとする早川。
智史にとっては容易く呑み込めるような内容ではない。
「同じ時間をそれなりに過ごしていれば、嫌でも分かられてしまうものなんですかね」
「まあ多少はね。わたしと由美奈じゃ捉え方も着眼点も違うだろうけど、時間をかけて見逃しさえしなければある程度の予測はできるものよ。人間の行動は過去の経験に左右されやすいから、今の様子を窺うことが昔の姿を知ることにも繋がるってわけ。……それに何より、わたしは和島くんが問題を抱えた時の心理状態を知ってるからね」
一昔前を思い返すように、早川は一度だけ俯いた。
「でも俺は、自分がしたことに納得してます」
「二月のことは確かにそうかもしれない。その点については立ち直れているのかもしれない。だけど和島くんは、未だに問題を抱え続けてる」
智史が、逸らしていた視線をカウンセラーに向け直す。
早川は終始、真っ直ぐな瞳に智史の姿を映している。
「本当に気にしていることはもっと昔に起きたことなんでしょ? 高校生になる以前から、ずっと何かを後悔し続けているんじゃないの? だから、ああいう状態に陥ってしまった」
「悩みを抱えてる人間なんて沢山いる。それらがすべて解決できるようなものとは限らない。翼を持たない人間には自力で空を飛ぶ選択肢がないように、できないことはできないと割り切るしかないんですよ」
「だとしても、凝り固まってしまった感情が消えることはなくて、その延長線の上にある考え方が孤独を肯定しようとしている。違う?」
反論が飛び出すことさえなく、智史は思わず歯噛みする。
「他人と関わらなければ複雑な問題は生まれないのかもしれない。だけど、和島くんは自分の気持ちを騙し続けられるの?」
「それは……」
真摯なカウンセラーは懸念していることを明確に指摘する。手助けとなるための糸口を探るように。
気遣うような物腰を前にして、智史は堪らず気を緩めそうになる。
「由美奈と初めて会った日に言ってたよね、由美奈に友達がいないのはおかしいって。それってつまり『環境や条件が整っているなら友達はできて当たり前』のことで、裏を返せば『納得できる状態じゃなければ友達ができなくても仕方ない』って、そう考えてるんじゃない?」
「…………」
「和島くん、あなたはいつも一人で行動しようとしてる。他人を割り込ませようとしない。だから何が起きても、他人に責任を押し付けられない。でも外へ向かわない感情は内側に残り続けてしまう。このままじゃあなたは」
「先生」
たった一言が会話の流れを
穏やかに発せられる声には、過度の優しさを遠ざけようとする隔絶がある。
自らの弱さを排するための、頑なで、冷たい壁。
「これは、自分で決めたことだから」
表へ出ていく吐息に混じり、留めるべき熱が零れ落ちていく。
すべては覚悟の上だと言うように。まるで全部を諦めてしまったかのように。智史は早川の推論を覆そうとしない。心配されていると知りながら、他人を頼ろうともしない。
「また同じ失敗を繰り返すことになるとしても?」
「……俺はどうしたって、今の在り方しか選べないから」
違った道を歩くのは許されないことなのか。自己完結した精神は核心に秘めるものだけを重要視しようとする。
閉鎖的な心理こそ、カウンセラーが最も忌避する思考の一つだった。
「選択肢が少ないのは自分の狭まった視点だけで物事を判断してるからでしょう? 他の誰かの考え方に触れていけば、今まで思いもしなかった生き方を見出せるかもしれない。高校生にとっての十数年を軽いだなんて言うつもりはないけど、その経験だけですべてが決まるわけじゃないのよ?」
それは、大人として先を生きる早川だからこその助言である。
異なった角度からの一理ある提案に対して、智史は否定も迂回もできない。渋面を作り悩ましげな素振りを見せた。十代の子供からすれば筋が通っていても実感に欠ける言葉だからだ。
「ごめんなさい。一息で語るには少し重たい内容だったわね」
「いえ、まあ……そうですね。ちょっと難しいかも、です」
早川が駆け足気味だった問答に区切りを付けた。人知れず強張っていた智史の体から力が抜けていく。確かに存在する大きな壁を前に、二人は一度距離を空けた。
人が持つ既存の価値観や固定概念を改めるには相応の時間を要することになるだろう。
正しい見解を提示されれば自身の内に潜む難点が浮き彫りになる。その事実を自覚するほどに、間違っているのだから直さなければならないというプレッシャーが生まれ、それは時に大きなストレスへと変わる。反省することは大切だが、自責の念も度を越してしまえば自尊心を損なってしまう。
智史には内罰的な側面があった。兼ね備えられた謙虚さには自らを軽んじる傾向が隠れている。前向きな姿勢ではない。一番に大切にすべきものを置き去りにすればどうなるか。後ろ向きな否定が積み重なった先に待ついくつかのパターンを、カウンセラーは知っていた。
だから早川は早急な解決を望まない。着実な前進のために必要なのは相手のペースを極力乱さないようにする気配りである。問題点を挙げて考える場を確保しつつ、結論までは催促せずに留意する。焦ったところで心が追いつかなければ何も変わらないからだ。
個人の本質に迫る重大な雰囲気は次へと一転する。
「それじゃ話題を変えましょうか。……もう一ヶ月以上が経ったけど、由美奈に対する認識は変わった?」
「どちらにせよ愉快なテーマじゃないんですけど」
「不満なの? 別にわたしはさっきのを続けてもいいんだよ?」
「昼休みに顔を合わせるだけのいけ好かない奴ですよ、笹原は」
間髪入れずに智史は思うままを声にした。
隙きを窺うような眼差しで早川がその態度を見定めようとする。
「またあのカフェに二人で行くようなことはしてないの?」
「してませんよ。あれから放課後に鉢合わせしたことだってないですから」
「進展なしか……つまんないなあ」
「そりゃ面白い題材でもないですからね」
本気で楽しみを見つけ出そうとしていた早川は残念そうに
「それでも共有する時間が少ないだけで、話すことがまったくないわけじゃないのよね?」
「口喧嘩を会話に含めていいならそうなんじゃないですか、知りませんが」
「ここに入ってくる前に、廊下で由美奈とどんな話をしてたのかな」
智史は
初めから狙いはそこにあると言わんばかりの笑顔が咲いていた。
堪えたはずの不満が意図的な溜め息に変わる。
「大したことは、何も」
「なら些細なことでいいよ」
「いつもの軽口ですから……」
「わたしが知りたいのは、そういう二人のなんでもないやり取りなんだけど」
「そんなに気になりますか?」
「もちろん。友達だもの」
当然のことを疑いもしない断言。
早川の口から出たその言葉が智史を悩ませた。
「槙野さんからの申し出を断った理由とかを、聞かれました」
「この間の昼休みの?」
「はい。それで笹原は、俺が積極的になれないことを槙野さんに伝えてくれるそうです」
決して歓迎されるような事の運びではないため、智史の声音は沈みがちである。
早川は静かに口を結んで、目を細める。
客観的な視点は後ろばかりを注視しない。
「そっか……。あの子はそっちに転がるんだ」
カウンセラーは感慨深そうに二人の経過を洞察する。
滲んだのは嬉しそうな笑みであるはずなのに、早川のそれは微かな憂いを帯びていた。
ふと、合図もなしにドアが開く。
笹原が手洗いから戻ってきたようだ。
「あら、おかえりなさい由美奈。……どうしたの、浮かない顔してるけど。体調不良?」
「なんでもないわ。ちょっとそこで同学年の子と話をしただけだから」
「だったらいいんだけど……」
「そういう綾乃はどう? 私がいない間に面白い話でもしてた?」
詮索されることを嫌ったのか、今度は笹原が聞き返した。
早川は笹原がソファに座るのを待ってから、まるで大事のように告げる。
「由美奈のことを話してたのよ、和島くんと」
果たして、笹原は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「それはとってもつまらなそうな話ね」
「だよな。事実その通りだったよ」
不服であることを隠しもせず、二人はそれぞれに落胆を色濃くする。
残る一人だけがこういった状況を楽しむ余裕を持っていた。
「そう? わたしは話し足りないくらいなのに」
「先生はそうでしょうね」
「ええ。由美奈と和島くんが二人っきりになっても口を利ける仲だって知れて安心したわ。なんだかんだ言って、まったく興味関心がないわけじゃないのね」
早川が機嫌良く自身の所感を述べた。
智史は居心地が悪そうに視線を部屋の隅へ逃がす。
具体的な会話の内容を察した笹原は小さく息を吐き捨てる。
「本当に面白みのない話をしてたようね」
「わたしも意外だったわ。二人が多少なり踏み込んだ話をしてるなんて思わなかったから」
笹原は当事者の一人を一瞥した。智史は先程からあらぬ方向を見ている。
「もっと景気のいい話が転がってくればいいんだけどね」
「……俺を見ながら言うな」
視線を感じて口を開くも、智史の抗議には覇気がなかった。
友人との関係を一歩ずつ前進させている者にとって、前を向くことができない人間の姿はどのように映るのだろうか。
少なくとも早川の態度は決まっている。
「また二人で放課後に落ち合うような機会があったら教えてね」
「言っとくけど、そんな珍しいことは早々起こらないから」
「大丈夫よ。気長に待ってるわ」
「ほんと、あなたって人は……」
続く文句を呑み下して、笹原は苦笑いを浮かべた。
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