Episode 037 「許容できる範囲」
「二人ともいつもより遅い時間に入ってきたけど、ひょっとして先に来てた子との相談が終わるまで待ってたの?」
ケトルのお湯をカップに注ぎながら早川は思いついたことを尋ねた。
笹原が簡素に答える。
「そうなるわね」
「少しだけ長話になっちゃってたけど、その間は廊下で二人一緒に待ってたわけ?」
智史も端的に返す。
「まあ、そうですね」
「二人でねえ…………ふーん」
「何か?」
具体性のない早川の相槌に笹原は目を向ける。
「いいえ。なるほどと思っただけよ」
言外に含まれているものがあることについて、二人は深追いしなかった。
全員が席に着き、それぞれ自前の弁当がテーブルに並ぶ。三人で過ごす昼休みの定番となった光景である。
「いただきます」
「いただきます」
「……いただきます」
最初に早川が、それに続く揃わない挨拶が食事の合図になる。
「この部屋の前に来た時にはもう和島君の姿があった。私はただ、それに倣っただけなの」
笹原はおかずを箸で運びながら前置きもなく呟いた。
あえてその事実を公言することにどのような意味があるのか。
「そうだったんだ。ありがとう、気を遣わせてしまったみたいね」
早川は人の良さそうな笑顔を見せる。
感謝されることが不得手な智史は表情を隠すように食事と向き合った。
「別にそんなんじゃないですよ」
「謙遜しなくてもいいのに。相談に来た彼女にとっても、和島くんの優しさは無駄じゃなかったでしょうから」
「生温かい眼差しを向けないでください……」
智史の食事のペースが早まっていく。
話題を挙げた笹原は淡々と続けた。否定するのではなく、半ば肯定するように。
「まあ余計なプレッシャーを与えなかったわけだから悪くはないんじゃない? 私はちょっとしか目にしてないけど、心配事の多そうな子だったし」
二人がその女子生徒に対して抱いたのは、人に迷惑をかけまいとする控えめな印象である。
直接対面して言葉を交えた早川も同意見だった。
「実際そうだったわ。部活の話なんだけど、他の子から推薦されて部長を引き受けたみたいなの。加えて新入部員の相手もしないといけないから、最近は精神的にも余裕がないんだって。夏休み中の本格的な活動に向けてやれることをしたいって言ってた」
世間話程度に耳を傾ける智史に反して、笹原はこの話題に関心があるようだ。
「部長かあ。なったことないけどそういうのって大変そうよね。人の前に出るようなタイプじゃなさそうだったけど……大丈夫なの?」
「少しの助言をするだけで不安が晴れるなら楽でしょうけど、そう簡単にはいかないから……放課後に一対一で会うことになってるわ。誠実そうな子だったから、一度軌道に乗ってしまえばもっと堂々と振る舞えるようになると思う」
「へえ、そういう感じなんだ」
カウンセラーが口にした通り、結果として廊下で待つことを選んだ智史の判断は間違っていなかったのだろう。
早川の分析が腑に落ちたのか、笹原の瞳は智史の姿を捉えた。
「なんだよ」
「別に。いつも通り生意気そうな顔してるって思っただけ」
「……それはあれか、自分の顔を鏡で見た時の感想か?」
智史と笹原の視線が衝突する。
もはや二人にとっての立派なコミュニケーションである軽口の応酬が始まる。
「私が君を一目見るたびに繰り返し思うことのすべてよ」
「そっくりそのまま返したいセリフだな」
「返品は受け付けておりませんのであしからず」
「もし部活でこういう後輩が入部してきたら大変だろうな。アドバイスの一つや二つ貰いたくなるってもんだ」
「そうね、君みたいな新入部員が相手でも部長としての責務を果たそうとしているなら、さっきの子はとても偉いと思う。君みたいな小賢しい部員の相手とか、私は苦手だわ」
「俺もだ、聞かれるのを前提に嫌味を挟んでくる性根の曲がった奴なんて特に」
「逆に考えてみて。不満を陰で拡散しないのはその人なりの優しさかもしれない」
「もしお前が何かしらのグループのリーダーになったら、下手をやらかした人間から躊躇なく切り捨てていきそうだな」
「その場合、きっと君の首から落とすことになるわね」
「リストラって意味だよな、そのクビって。討ち取るってほうじゃないだろうな?」
「好きな解釈をしてくれて結構よ」
「敵意を隠さない女って面倒臭い……いや、笹原個人が厄介なだけだな。うん」
「でも良かったわね。余計なことをしなければ由美奈のグループに置いてくれるそうよ?」
一連の流れを微笑ましく眺めていた早川が独自の視点から物を言う。
「集団に属するか打ち首か、悩むなあ……」
「じゃあ私は素振りの練習でもしておこうかしら」
「部活についての話だったのにどうして処刑の話になってるのよ」
笹原の両腕を振り下ろす仕草を見て、早川は呆れていた。
「何がおかしいの? 新入部員という名の問題児をどう処理するかって議題でしょ」
「違います」
「なら改めて、暴君のような部長を退部に追い込むための戦略でも考えますか」
「やめなさい」
二人の真剣な曲解を往なしながら、吐き出される大きな溜め息。
「吹奏楽部にはあなたたちみたいな後輩はいない……といいなあ」
「その子とはまた放課後に会う予定なんでしょ? 綾乃がサポートしてあげればきっと大丈夫よ。……どこかの誰かさんも、綾乃に助けられてるみたいだし」
どうというわけでもない、誰かの過去に関して言及する物言いがあった。
智史は閉口して、静かに笹原を凝視した。
ほんの数秒間、緊張が空気を介して伝播する。
何気ない日常会話の一環として放たれたボールは取り損なわれてしまった。
あるいは配慮が足りなかったのか。もしくは寛容でなければならないのか。人と人との間にある一線は、時間を経たとしても容易に消せるものではないだろう。
けれども、対応の仕方は変わっていく。
加減のない口争いを経て、二人は互いのデリケートな側面に触れている。
オブラートに包んでいては知ることのできないものがあるのだ。
根底にある行動原理が極端な悪意ではないこと、この事実を相手から直接見聞きすることが大きな意味を持つことになる。
沈黙の
遅れて返されたボールが滞った流れを動かし始める。
「それは、お互い様だろ」
「…………否定は、できないかもね」
何度も対立することで、二人の間柄でしか通じないものが確かに形成されている。
智史と笹原を隔てている一線も、同じ時間を過ごすにつれて変容していく。許せなかったはずのことを、少しずつ認められるようになっていく。
カウンセラーは常に一歩下がった立ち位置から子供たちの変化を案じていた。
「なんであれ、不器用だったり素直になれなかったり――わたしはそんな子たちの味方だから」
どのような状況でも早川のスタンスは揺らがない。
芯の通った大人が発するからこそ、そこには確かな重さが生まれる。
一貫して人のために、心に寄り添おうとする優しさがある。言葉に込められた思いの温かさを二人の高校生は知っている。
「敵わないなあ、本当に」
「綾乃がこの学校にいてくれて良かったわ」
早川の朗らかな笑顔の前に、智史は毒気を抜かれてしまった。
「分かってはいますけど、先生がいれば安心ですね」
「どんな人が相手でも寄り添って精神的な支えになってあげるのがカウンセラーの仕事だもの。その子にとってそれが必要なら、何度でも背中を押してあげるつもりよ」
早川は改めて智史と笹原に目を遣った。
「もちろん、あなたたち二人のこともね」
「そうね……、よろしく頼むわ」
笹原は歳の離れた友人に柔らかい笑みを返す。
先を行く同年代の異性とは真逆に、現状に留まるばかりの人物は反応に困っていた。
「和島くんも前に進みたいなら、押してあげるけど?」
「それは……一体何について言っているんでしょうね」
「さあ、なんだろうね」
察してはいるものの、智史も早川も揃って核心に触れようとはしない。
「もし必要なら私に言って? 思い切り背中を蹴り飛ばしてあげる」
「お前の力を借りるくらいなら、いっそ一人で泥沼にでも沈んだほうがマシだよ」
笹原が見せる屈折した気遣いに対して、智史は誠意を持って反発する。
まるで、明かりから目を背けるように。
追いかけもせず後方から眺めるばかりの面持ちは、熱のない乾いたものだった。
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