May : Day 04 - Part 1

Episode 036 「望んだ形」

 智史はいつもの通りに学校へと登校し、普段と同じように授業を受けていた。淡々とした態度を維持したまま、特別に誰かと話すこともなく時間が流れていく。

 教科書に載っている数学の設問を解き終えた智史は、ぼんやりと周囲を見回した。自ら輪の中に加わることがないためうろ覚えではあるが、中心に立つ主だったクラスメイトの顔と名前は一致するようになっていた。

 けれど、その情報が活かされたことはない。実現されなかった可能性を妄想することは、昨日見た夢の続きを望むように不確かなことであり、現実が上書きされることはないからだ。


 数式の答え合わせをするまで余ってしまった数分間、智史の頭が不必要な仮定の未来を描き出す。複数の展開を浮かべては噛み合わない現在や自身とのギャップを痛感する。

 もし友達として接するのであればどういった相手が良いのか、その取捨選択だけが繰り返された。隣に座る男子生徒にすら話しかけようとしない智史の精神性は、高校に入学した時から大きく変化していない。

 それでも、同級生との交友について思い巡らせる機会は増えてきている。

 余計な空想が脳裏を過るのは誰のせいであるのか、その答えは明らかだった。




 昼休みになる。

 教室から出ようと、鞄を手にした智史は一人席を立った。


「…………」


 それはある種、必然的な環境を生み出すことに繋がっている。

 過剰な自意識によるものか、一方的な被害妄想か。関わりを持たないという姿勢は集団の中でこそより大きな意味を持つことになる。

 本人が語らないことについて、人は無関心であるか興味本位の関心を寄せる。その少しばかりの関心があれば会話のきっかけとなることもあるだろう。

 集団がそこで生活する以上、口に戸を立てることはできない。噂というものは世間話という風に乗ってどこへでも流れるものだ。

 勉学とは違い、答えのない問題に対して様々な解釈が乱立する。

 廊下へと足を踏み出すまでの合間、刺さる好奇の眼差しを智史は黙殺した。




 智史は歩き慣れた廊下を進む。

 目的地の前には一人の女子生徒が佇んでいた。どこかそわそわとした落ち着きのない様子が窺える。

 何度か部屋の名前が書かれている名札を確認し、中が見えないようになっているドアの曇りガラスから内側の状況を確認しようとする。丁寧な深呼吸を終えて覚悟が決まったのか、少女はおどおどしながらカウンセリングルームの中へと消えていった。

 ドアの前で腕を組み、智史は今後の展開を想像する。

 小さな可能性を考慮した結果、部屋の外で待機することが決まる。入り口から少し離れた壁に寄りかかりスマートフォンを触り始める。

 遅れて笹原がやって来た。珍しい光景を前に怪訝そうな表情をしている。

 数秒間だけ交わされる視線。


「どうかしたの? 中に入れない理由でもあるのかしら」

「俺より先に気の弱そうな女の子が入っていくのを見たんだ。だからってわけじゃないけど、ちょっと待とうかと思って」

「綾乃にそう言われたの?」


 笹原は不思議そうに問いかける。


「いや、頼まれてはいない。ただ、そうしたほうがいいような気がしたから」

「ふーん、そう……」


 ドアのガラス越しからは把握できない室内に、笹原は一度だけ目を遣った。一考を終えると智史の正面を横切り、同じようにして壁に背中を預けた。先例にならうつもりのようだ。

 取り出されたスマートフォンは計二台。目が追いかけるのは画面の中の光のみで、気配を感じ取ることがあっても互いの姿がそれぞれの視界に収まることはなかった。二人の間には二メートルほどの距離がある。遠すぎず、けれど近いというわけでもない。


 昼休みを過ごす多くの生徒たちの賑やかさを余所に、沈黙は音を立てずして自然な姿を表していた。

 会話がなければ無理に軽口を叩くこともない。そもそも二人は積極的に人と関わろうとするタイプでも、他人にちょっかいを出すことが趣味というわけでもなかった。適切な位置に留まりさえすれば、二人は啀み合わずに過ごすことができる。

 しかし、それは口を開かなければの話である。

 躊躇うような吐息と切り替えるための咳払いを、智史は耳にする。


「先日はどうして悠香……槙野さんの申し出を断ったの?」


 習慣になりつつあることが気恥ずかしかったらしく、笹原は呼び方を訂正した。


「その理由を聞いて、お前が得るものなんてないだろ」

「槙野さんは君に興味を持ってる。それがどういった感情によるものかは知らないけど、今後も積極的に関わろうとするかもしれないわよ?」

「なんというか、反応に困る話だな。それ」


 その発言に智史の特別な意図はなかった。

 必然的に生じた疑問に関して、笹原は遠慮をしない。


「誰かと友達になることは、君にとって困るようなことなの?」


 二人が初めて出会った時のことである。智史は笹原に対してどのような感情を向けていたのか。矛の先に立っていた笹原はその敵意を覚えている。


 ――その容姿なら、人と仲良くなれる機会なんていくらでもあったはずなのに。それでも、お前には友達がいないって言うのか?


 友達という個人的な関係を結ぶ場合、相性や好き嫌いが重要視される。一緒にいることが不愉快だと感じられる相手と無理に時間を共有しようとする物好きは少ない。

 笹原は他人に厳しい側面を持っている。親しい存在は限られていて、けれど近づいてくる人間すべてを切り捨てているわけではない。現に槙野との友好は円滑に進んでいた。ごのみすることはあっても純粋な善意を無下にしてはいなかった。


「…………」


 それでは――和島智史という人間は、他人との繋がりに何を求めているのだろうか。

 人と仲良くなれる機会があれば無駄にすべきではない、そう唱えた人間がそれを拒むのはなぜか。どうして自らの意思で巡ってきた好機に背を向けたのか。

 放たれた問いに、されど応える返事はなかった。


「まあいいわ。そうする理由に興味はないの。ただ、もし君が快く思っていないと言うなら、私から槙野さんへ控えるように伝えておくけど?」


 それは今までにない種類の配慮だった。

 申し出の意図を量りきれず、智史が笹原を見る。


「お前からそんな言葉を聞くとは思わなかった」

「別に。君一人に気を回すだけなら傍観していられたんだけど、巻き込まれそうだったから」

「巻き込まれるって、何にだよ?」

「いつも昼休みを一緒に過ごしていても仲が深まるとは限らない。そう教えてるのに、あの子は不満そうな顔をするから」

「ああ、そういう話か」


 心底うんざりするような力のない口調から、智史は余計な気が遣われていることを悟る。


「槙野さんは私が思ってたより人を思い遣ろうとする気持ちが強いみたいなの。空回りしちゃう時もあるけど、そういうところも悪くないと感じられるようにはなってきた。でもそれは槙野さんが同性の友達だからだと思う。異性である君がこの距離感を違和感なく受け止められるかは別問題でしょ」

「それはまあ、一理あるけど……」


 笹原が語った理屈も、智史にとっての間違いではなかった。

 しかし、根本に眠る問題の本質を突いているとは言えない。


「そうだな、今回は素直に頼むよ。伝えておいて欲しい。苦手とか嫌いってわけじゃないんだけど、多分今の俺は――答えを変えられないと思うから」


 昨日の智史は遠回しに新たな関係性が生まれることを避けた。その姿勢が覆るとは考えられないのだと言う。


「他人がどう捉えていたって自分が思えなきゃ友達じゃないものね。君の主張はちゃんと槙野さんに言い聞かせておくから」


 他の誰かが知れば、改めたほうが今後のためになると諭したかもしれない。だが笹原の判断は肯定的なものだった。

 だからなのか、感じたままに智史の口は滑ってしまう。


「なんか、少し意外だった。もっと厳しい文句が返ってくるかと思ってた」

「君は知らないだろうけどね、私は何も毒を吐くだけの女じゃないのよ。分別ふんべつっていうか、弁えるべきところは弁えているつもり」

「そうか、…………ありがとう」


 感謝のセリフを耳した途端、笹原は疑いの眼差しを向けた。


「ふうん。君、お礼言えたんだ?」

「お前こそ知らないだろうがな、俺だって恩を感じる時くらいあるんだよ。気に入らない見てくれだけの相手でも一応はな」

「それはそれは。今日最大の驚きだわ。午後から雪でも――」

「失礼しました。ではまた放課後にお願いします」


 カウンセリングルームのドアが開き、一人の女子生徒が頭を下げていた。

 そして廊下で待機していた二人の姿を目にする。


「え? あ、ごめんなさい! もしかして、わたしのせいで待たせてしまいましたか?」


 より近い位置にいる智史が受け答えた。


「問題ないよ。俺はカウンセリングルームに用事がある友達を待ってるんだ。本人が来ないと何も始まらないからさ。だから気にしなくても大丈夫」

「なら、いいんですけど……」

「あんたの用事は終わったんだろ? そこで突っ立ってたら折角の昼休みが無駄になるぞ」

「そ、そうですね、ありがとうございます。ではわたしはこれで」


 少し話した程度の相手にも丁寧にお辞儀をして、女子生徒は自分の教室へと戻っていった。


「お礼言われるようなことをしたつもりはないんだけどな」

「君に友達がいたなんて知らなかったわ。もし良かったら紹介してくれない? 一目見てみたいから」


 後ろで待っていた笹原が智史の隣から顔を覗かせる。


「はっきり嘘だって分かることをいちいち聞いてくるなよ」

「そうよね。君からすれば直視したくもない現実だったわね」


 わざとらしい挑発の前で智史は言葉を悩んだ。

 次いで、改めずに声へと変える。


「直視ならしてるさ。自分がどういう人間なのかは――自分が一番知ってる」

「…………どうだか」


 笹原が先にカウンセリングルームのドアを開けた。智史はその場に立ち止まったまま俯いている。


「俺が欲しかったものは、もうどこにも無いんだよ」


 ぼそりと呟かれた後ろ向きな文句を誰かが耳にすることはない。

 常に独りである人間は絶えず自分自身を意識することになる。強く望んでいたものの形を、智史は何よりも理解していた。

 どのような状況下に置かれていたとしても、最後の判断を経て実行に移すのは当事者本人の裁量によるものである。他人の責任にできないことが世の中には数多く存在していて、なんでもないような言動が個人の生涯を大きく左右することもある。

 智史は日頃から確定していない未来に変えられない過去を重ねてしまっていた。

 それゆえに、人との距離は遠のくばかりなのかもしれない。

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