Episode 026 「素直ではいられない」

 閉まったドアを眺めながら、気の抜けた智史は大きな溜め息を吐いた。



「ごめんなさいね。余計なことに巻き込んでしまって」

「まったくだよ、本当に」

「なんて言うか……由美奈も和島くんもお疲れ様。遅くなっちゃったけど、お昼ご飯にしましょうか」


 早川が言うと、智史は忘れていた空腹感を思い出す。

 ようやくテーブルに弁当やお茶などが並んだ。

 揃って三人は食べ始める。

 食事中に珍しく、智史から話題を切り出した。


「先生は、岸谷先生と面識はあったんですか?」

「ん、急ね。……ええと、彼女がここに赴任した時からの付き合いよ。教師になってからの歴は浅いって言ってたから、色々と悩むことも多かったみたい。初年度はよく相談を受けたわ。最近は落ち着いてたみたいだけど」


 一同は昨日の昼休みのことを思い返していた。


「それがどうかしたの?」

「いえ。今日の授業で会ったので、少し気になって。それと、現状は特に問題なく対応できているそうです」

「良かったわ、……きっと和島くんのお陰ね」


 なんの迷いもなく早川はそう解釈している。

 智史は疑問に感じることがあった。


「先生だったら、俺たちに頼らなくても一人で対処できたんじゃないですか?」


 生徒視点も参考にできると早川は提案した。

 しかし、それは欠いてはいけないものだったのか。一定の効果があったとしても、絶対に必要なものだったのだろうか。

 スクールカウンセラーであれば、個人でも岸谷の相談を解決できたはずなのだ。

 早川も特別な否定はしなかった。


「大人のわたしが生徒について語るより、生徒であるあなたたちが話したほうがいいって思ったの。そうしたほうがきっと、素直に受け止められたはずだから」

「そういうものなんですか?」

「大人が持ってる子供の印象って、自分の当時の記憶に引っ張られがちだからね。その上、時間が経ってるから忘れてることも多い。現役世代の子たちとのギャップだってある。子供のことは、できる限り子供に聞いたほうが確かなのよ。同じ内容でも言う人が違えば受け止め方も変わるでしょ?」

「確かに……。そんな意図があったんですね」


 食事に専念しつつ頷きながら聞いていた笹原が、うんざりといった不満を零した。


「それで言うと、さっきの彼も口だけは達者だったわね」

「お前の周りの男子ってあんなのばっかなのか?」

「一部の人間だけよ、あれくらい押しが強いのは。……槙野さんと仲良くするようになってから、それに便乗して話しかけてくるクラスメイトが増えてきたの。さっきのは極端な例なんだけどさ」

「随分と熱心だったな。外見はともかく、中身はこれだっていうのに」

「ふうん、どんな中身だと思われてるのかしら。ぜひご高説願いたいものね」

「同級生に恵まれない憐れな奴」

「……予想外の角度から地味に突き刺さる言葉だったわ」


 智史が思う以上に、笹原はダメージを負っていた。

 絶えず動かしていた箸が止まり、妙なスイッチが入る。


「本当に恵まれないのよねえ、私って。綾乃や槙野さんみたいにいい人もいるってことは分かってるんだけどなあ……。私の周りっていつもこんな感じだし。今は比較的悪くないけど、一年の時はやらかしちゃったからなあ。憂鬱だわ……」


 口調も表情も暗くなり、淡々と愚痴を吐き出していた。

 智史の前で、笹原がこれほど弱い部分を晒すのは初めてのことである。加えて、耳に残る言葉があった。先程まで同席していた男子も似たような事例を挙げていた。笹原には高校一年生の時、なんらかの出来事があったらしい。二人の発言からして、それは決して喜ばしいことではないようだ。

 それが原因で今の性格になってしまったのか、今のような性格だから問題が起こったのか。男子が指摘した際に興味本位から尋ねてはみたものの、詳細は伏せられてしまった。


「…………」


 ――本当に興味を持ったのだろうか。

 ――笹原の過去、パーソナルな側面を知りたいと思ったのだろうか。


 疑念が渦を巻いて、智史は思考に呑まれそうになる。

 頭の中を空にしようとするだけ、余計な問答が浮かんでは消える。

 脳内葛藤を余所に、笹原と早川はやり取りをしていた。


「槙野さん以外のクラスメイトとは、難しそう?」

「どうだろう。全員のことを詳しく知れたわけじゃないけど、可能性のある人は数人いる……かな。逆を言うと、絶対に仲良くできない人はもうはっきりしちゃってるんだよね。一年の時のこと、結構広まってたみたいだから。……はあ、やんなっちゃうなあ」

「ちょっと由美奈、しっかりしてよ。ね?」


 苛烈な態度や容赦のない物言いの多かった笹原が、いじけて、しょぼくれていた。弁当に入っているおかずの卵焼きを俯きながら箸でつついている。憂いながら「んー」「あー」と溜め息を吐いている。


「…………ぷっ」


 気づいた時には笑っていた。

 どのようにして現在の状態をからかうことが正解と言えるだろう。いつもの大人びた一面が逆転して子供っぽい言動に走っている。第一印象や見た目とのギャップが大きすぎて、対応に迷う光景だ。

 智史は無意識でそこまでのことを考えた。そして、意識的にその先のことを考える。

 たった今、どのような感情が湧いて、何をしたいと思ったのか。

 対応が違えば、何かが変わるのか――変化を望んでいるのだろうか。

 芽生えようとした知らない感情を上書きするために、智史は方針を再確認する。


 今までの二人は、互いに譲れないものを譲らずに過ごしてきた。

 過去から続く生き方を貫いてきた。

 だから。

 変える必要も、変わる理由もないのである。そう結論づける。

 することは決まっていた。


「お前のその性格じゃ、敵も多そうだよな」

「……むかつく。友達のいない君に言われたくないんだけど?」


 智史は普段通りの、浅慮な軽口を叩いた。

 笹原が普段通りに、辛辣な反応を返す。


「同級生の親しい知人がいないから、お前の苦労とか分からないんだわ。ごめんな?」

「こいつ! マジで引っぱたいてやりたい……ッ!」


 望まれた形での応酬が交わされる。

 人知れず安堵をしている自分がいることに対して、智史は気づかない振りをする。


「こら、そう喧嘩腰にならないの」

「だって綾乃、この馬鹿が」

「はいはい、由美奈落ち着いて。和島くんも無闇に煽らないこと。いいわね?」

「善処しますよ、できる限りは」

「はあ……。そうだったそうだった、いちいち相手にしてたら切りがないものね」


 不貞腐れている笹原を横目に、早川は智史のほうへと笑いかけた。乱れた調子を取り戻させるために、わざと悪態をついたのだと考えているのだろう。

 苦笑いだけが浮かんだ。

 その内実は誰のためでもない、自分の都合が良いように働きかけただけなのである。そのことを知っているのは唯一、智史本人だけだった。卑怯なやり口だと心の奥底で非難しているのも、ただ一人だけだった。

 早川が雰囲気を変えるために話題を提供する。


「そうだ、さっきも一度だけ話題に挙がったけど、明日からゴールデンウィークよね。二人は連休中に何をしたいとか、そういう予定はないの?」


 笹原が軽く咳払いをした。


「今のところは、特にこれといった用事もないわね。家族で少し遠出するくらいが関の山じゃないかしら」

「俺は家でのんびり過ごすと思います」


 見栄えのしない現実的な想定ばかりで、早川の意に沿うようなものは欠片もなかった。だから余計な彩りを加えようとしてしまう。


「ぱっとしないのね。じゃあいっそのこと、二人で出かけてみるとか――」

「…………」

「…………」

「そんな冗談は言わないから睨まないでよ……」


 たじろぎながらも早川は負けじと伺いを立てる。


「でも昨日は二人でお茶したんでしょう? 途中で抜け出さずに一緒でいられたのよね? だったらもう少しくらい歩み寄ったっていいんじゃない?」

「昨日のことは昨日のことよ。そうちゃんと説明したでしょ」


 笹原は窘めるように言い聞かせた。


「んー。じゃあ、わたしとだったらどう? お出かけましょうよ由美奈。あ、折角だから和島くんも一緒に――」

「行きません」

「私も願い下げよ」

「……本当に二人って、ゴーイングマイウェイ一直線よね」


 早川は心底呆れた様子だった。

 昨日のことについて触れたので、それを契機に智史は確認を取る。


「そういえば先生、俺の連絡先、他の奴には教えてないですよね?」

「ええ。それはもちろん」

「ならいいんですけど……」

「私はいいの? 悪用するかもしれないわよ?」


 本調子を取り戻し、勢いづいた笹原が穿った問いかけをする。


「こんなこと言ってますけど、先生はどう思います?」

「それはさすがにやめてね、人として」

「あ、ご、ごめん……」


 出鼻をくじかれた笹原は平謝りである。早川に注意されて気を落としていた。


「……もう、ほんとに可愛いなあ。わたしもこんな妹が欲しかったわ」

「先生って、割と本気で笹原のことを気に入ってるんですね」

「まあね。頑張って背伸びしたり素直になれなかったり、そういうところがチャーミングだと思わない?」

「そう思えるのは……先生が大人だからですよ」

「年齢は関係ないと思うんだけど」

「仮に褒めるようなことを言ったって棘が刺さるだけなので」

「忘れてた。素直になれないのは一人だけじゃないのよね」


 返す言葉は出てこなかった。

 下手な反発を試みたところで墓穴を掘る結果になりかねない。頭は必死に別の話題を検索していた。

 その時、とある疑念が浮上する。ない可能性だと分かっていても、智史は邪推してしまったことを問わずにはいられない。


「連絡先を教えたのは、何もこいつの肩を持ってるわけじゃないですよね?」


 真剣に尋ねる智史。笹原も関心は寄せていたようで、じっと返答を待っていた。

 砕けていた早川の姿勢が、カウンセラーのそれに早変わりする。


「あくまでもわたしはノータッチでいるつもりよ。二人のことは、二人に任せたい。場合にもよるけど、どちらか一方だけに肩入れするのは控えたいって思ってる。……これじゃ、安心できない?」

「いえ……それを聞けただけで充分です」

「仲を取り持って欲しいならそうしないでもないけど?」


 反応が予測できていて、早川はあえて質問を投げかける。


「結構です」

「それは嫌」

「でしょうね。こうなるって分かってるから、わたしは何もしない。重大な何かが起こった時は別だけど、そういうことも早々起きないだろうし」

「まあ、そういうことなら」


 二人の人柄や関係性を身近で観察しているからこそのスタンスだった。無理に刺激を与えなければ、余分な摩擦は生じないのかもしれない。

 智史は溜飲を下げ、疎かになっていた食事に集中した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る