Episode 025 「優先するべきことは」

 いつもの通り、智史は昼休みの教室を抜け出す。

 廊下の角を曲がるとカウンセリングルームの表札が見えてくる。

 そこで、とある光景が目に留まった。

 カウンセリングルームの前で男女二人が何かを言い合っている。遠目ではあるが、女子のほうは笹原らしいことを確認できる。もう一方の男子は智史の知らない顔だった。

 程なくして、早川がドアを開けて現れた。二人に呼びかけている。室内に招かれたらしく、笹原は渋々といった様子で、男子は早川に頭を下げながら奥へと消えていった。


 状況を飲み込めない智史だったが、面倒な事態であると察することはできた。

 明らかな厄介事に躊躇しつつもカウンセリングルームのドアに手を掛ける。

 寸前のところで、自分の教室に戻るという選択肢が浮かぶ。

 知らず知らずのうちに、この場所の比重は大きなものになっている。

 今日何度目かの自問自答を繰り返す。


 思い出したことが一つあった。

 たとえ、生意気で気に入らない相手が待っているとしても。

 智史には返さなければならないものがあるのだ。

 逡巡を経て、ドアを開ける。


「だから、私は行かないって――あら、よりによって今来たのね。間の悪い人」

「ははは……。和島くん、いらっしゃい。取り込み中だけどね」


 互いのことを知っている女性二人は当然、智史の入室にそれぞれ反応を示す。

 ただ一人、笹原と早川の対面に座る人物は、男子生徒の登場に険のある態度を見せた。

 しかしそれは一瞬のこと。


「彼は、二人の知り合いなんですか?」


 整えられたような笑顔で、その男子は女性陣に問いかけた。

 一見してその姿は感じの良い好青年然としている。


「癪だけど、一応そうなるわね」

「和島智史くんよ。二人と同じ二年生」


 代わって早川が紹介をするので、ひとまず智史は一応の会釈をした。


「……どうも」

「……こちらこそ、よろしく」


 挨拶は形式だけのもの。彼は名乗りもしなかった。

 よろしい空気ではなさそうである。


「邪魔しても悪いから、俺はお暇させてもらおうかな――」

「そんなことないよ。きみも座ったらどうだい?」


 何か狙いでもあるのか、呼び止められてしまう。

 好意的な物言いとは裏腹に、底知れぬ圧が潜んでいる。

 退路を潰された智史は空いているソファの、件の男子の隣に腰を下ろした。


「和島くん……って言ったね。きみはここの常連なのかな? だとしたら、笹原さんとは親しかったりするのかい?」


 議題は笹原を中心に回っているようだ。

 だとすれば、この男子も笹原に好意を寄せているのだろうか。


「そんなわけないでしょ。友達でもなんでもない……。彼は、綾乃の客人よ」


 笹原は関係性を否定する。

 ここでの『親しい』という言い回しは、おそらく『異性としての好意』のニュアンスを伴っている。強く可能性を絶たなければ誤解を与える結果になるだろう。

 事実、智史は疑いの目を向けられていた。


「本当に、そうなのかな?」

「少なくとも、友達って呼べるほど良好な仲じゃないな」

「…………」


 値踏みでもするように、智史のことを見極めようとしている。

 これは敵意のそれだ。


「俺のことなんてどうだっていいだろ。大体お前は何をしに来たんだ?」


 居心地の悪い視線を逸らすために、智史は方向性を切り替える。

 彼は咳払いをして、まるで素晴らしいことのように目的を語った。


「明日からゴールデンウィークが始まるだろう。仲を深めるためにクラスのみんなで集まる予定があるんだ。クラス替えをしてから間もないし、お互いのことを知るのにこの連休を有効に使わない手はないってわけさ」

「なるほど、それで?」

「だから是非とも、笹原さんにもその会に参加して欲しいんだよ」

「……だってさ、参加してやれば?」

「結構よ」


 智史が投げたパスは容赦なく叩き落とされてしまった。早川は苦笑いをしつつも、意外そうな顔はまったくしていなかった。

 笹原のクラスメイトであるらしい男子は果敢に食い下がる。


「どうしても駄目かな?」

「教室でその話が持ち上がった時から、私はそう言ってるでしょう」

「槙野さんともいい関係を築けているんだし、今の笹原さんならクラスメイトのみんなとも歩み寄ることだってできるはずだ。考え直してくれないかな」

「大勢を相手に愛想を振りくことができるほど、私は器用じゃないの。それに、女子の一部は私のこと嫌ってるしね。私がいないほうが彼女たちの気も楽になると思うけど」

「そんなこと――」

「女ってあなたが思うよりも好戦的で陰湿な生き物よ? 綺麗な部分を見てるだけじゃ、いつか痛い目に遭うことになる。そういう事態に巻き込まれたくはないのよね」

「そんな……、ぼくらのクラスの女の子たちは日頃からあんなに人当たりがいいじゃないか。陰でそんなことを考えてるとは思えない」

「あなたみたいな男子が傍にいる時はそうでしょうね。でも、それ以外の時はどうかしら」


 一貫して、笹原の方針は折れも曲がりもしない。

 説得を諦めようとしない男子に関しても中々の気概である。


「少しでも参加できないかな。最悪、もし嫌になったら途中で抜け出したって構わない。一人でその場を離れるのが気まずいなら、付き合うからさ」


 例えば、笹原にその気があれば了承していたのかもしれない。話の運び方はスムーズでさり気なかった。拒んでいる人間の気持ちにも配慮が届いている。

 けれど、本当の狙いを隠しきれてはいないのだ。

 その男子の瞳を、奥に潜む他意を、笹原は盗み見る。


「くどいわ。第一本当にそんなことになったら、それこそクラスの女子たちが黙ってない。分け隔てなく立ち回ろうとしてるあなたと親しくなりたい人は多いみたいだから。彼女たちの好意に気づかないほど鈍感ってわけでもないんでしょう?」


 歯に衣着せぬ文句に、毅然きぜんとしていた男子も押し黙る。

 こういった話の中では笹原が意固地になることを知っているのか、早川は静観するばかりで余計な口を挟まない。智史も同様に何を言える立場でもなかった。


「……一年の冬頃に流れた噂は、本当のことみたいだね」

「あったわね、そんな話も。別に否定はしないわ」


 何事かについての男子の言葉を笹原はそつなく受け流す。早川も反応だけは示していた。

 尋ねても無駄だと知りながら、智史は言及する。


「噂っていうのは?」

「君には関係ないことよ」

「ああ、そう。ならいいんだ、気にしないでくれ」


 入れられた茶々にきつい一瞥を向けるも、彼はクラスメイトである笹原を優先した。


「本当にこのままでいいの?」

「どうして指図されなくちゃいけないわけ?」

「それじゃいつまで経ってもみんなと仲良くなれないからだよ」

「私はそんなこと望んでないし、頼んでもいないんだけど?」

「折角同じクラスの一員になれたのに、勿体ないじゃないか。そうは思わないのかい?」


 価値観の相違というものだろう。根本的な部分で笹原とは意見が異なっている。これ以上話し合いを続けても平行線を辿るだけだった。

 時間を無駄にしないためにも、笹原はしつこいクラスメイトの言い分をばっさりと切り捨てようとした。

 ――もう一人も同じ思いだった。


「そんなのはあくまで、お前個人の意見だろ」


 笹原は、それを発した智史のほうを見つめていた。

 棘のある申し立てを耳にして、男子の顔色が如実に変わる。


「……なんだって?」

「本人がそう望んでいるのなら問題はないんだ。だけど、それは他人が自分の物差しで決めていいことじゃない」

「きみが彼女の何を知ってるって言うんだ」


 端からも判断できるほど彼は苛立っていた。


「何も知らないよ。笹原のことも、お前のことだってな。だからこそ言ってるんだ。自分の身勝手な価値観を当たり前だと思い込んで、人様に無理矢理押し付けるな。不愉快だ」


 今度は強気だった男子がたじろぐ番だ。

 言葉が、態度が、眼差しが、智史の静かな怒りを体現している。

 反論を講じられる前に笹原が追撃する。


「私もまあ、おおむね同意見ってところかしら。関わる相手くらい自分で決めるわ。勝手なことをペラペラと言わないで」


 洗練された刃のように、二人は鋭利な空気を放っていた。

 ようやく彼は説得が困難だと悟ったらしい。


「本当に強情な人だな、笹原さんは。……今日のところは引き下がるよ」


 あくまでも一時的な撤退であるというニュアンスを感じさせるセリフだった。

 強情なのはどちらも変わらないのだろう。

 今回は断念して、立ち上がろうとする――その前に、一言。


「顔、覚えたから」


 束の間の冷たい口調こそ、彼が隠している本質なのだ。

 それだけを残して、好青年のような男子生徒は外へと出ていく。

 閉まったドアを眺めながら、気の抜けた智史は大きな溜め息を吐いた。

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