April : Day 10 - Part 3

Episode 024 「優しさに揺れる」

 今日は四月最後の平日である。

 生徒たちにとっては四月の末というより、ゴールデンウィークを控えた五月の目前といった認識のほうが強いようだった。

 教室という決して大きくはない空間であっても、人間の多様な側面が見受けられる。

 一時限目の授業が終わり次の授業までの間、周囲のクラスメイトは連休中の予定や計画について話している。部活で休む暇もない部員の悲鳴や、「みんなで集まろうぜ!」と呼びかける男子の誘い文句。小規模な親睦会を企画する女子たちの輪と、対照的に落ち着いた話題に意義を見出す生徒の姿。ゆとりを持って観察すれば広く景色を眺めることができた。


 全体が浮かれた雰囲気に包まれている中で、智史は淡々とした平常運転を心がけていた。次の教科の用意はすでに整っている。

 前方のドア口から、女性教師のよく通る声が教室に行き渡った。


「ほら、そろそろ次の時間よ。準備はできてるかしらー?」


 英語科の若い先生が生徒の行動を促す。分かりやすいもので、男子生徒の何人かは女性教師の言う通り素直に従っていた。数学科を受け持っている中年の男性教師への対応とは露骨なまでに違っている。

 単純な言動を快くは思えないまでも、そういうスタンスは楽だろうなと智史は思った。複雑に考えず感性を刺激されるままに過ごせていれば、現在とは異なった未来が待っていたのかもしれない。だとして、継続してきた今の生き方を改めることは難しいのだが。


 二時限目を告げるチャイムが鳴り、雑然とした教室は落ち着きを取り戻そうとしていた。

 智史は姿勢を正面に向けて前を見る。

 ふと、先生と目が合った。

 既視感が直近の記憶を刺激する。それを裏付けるように、柔らかい笑顔とウインクが返ってくる。その仕草は一度見たことがあった。

 今さらのように智史は思い出した。自分のクラスを担当している英語の女性教師は、先日カウンセリングルームへ相談に訪れた岸谷だったのである。作業として黒板やノートに気を向けるばかりだったせいか、軟派な男子生徒の真似はするまいと意識していたせいなのか、顔をすっかり忘れていたのだ。


 不意打ちを受けた智史は咄嗟に俯いてしまう。

 歳上の女性への耐性を得るには経験が圧倒的に不足していた。

 授業が始まって、まず行われたのは答案の返却である。


「では、この間やった英単語の小テストを返しまーす。呼ばれた人から取りに来てねー」


 順番に名前が読み上げられ、受け取った生徒が一喜一憂しながら席に着く。

 智史の番が回ってきた。クラスメイトが揃っている空間で個人的な会話をするわけにもいかない。答案を手にしたらすぐ席に戻るつもりだった。

 思わずして、その場に立ち止まる。


「ほら、ボーッとしてないで。早く席に着いて?」

「はい。すいません……」


 岸谷に優しく注意された智史は、解答用紙の内容が覗かれないよう丸め込んで、自分の席に向かった。ここで目立ってしまっては意味がない。

 授業が教科書の内容へと移る最中、受け取ったそれをこっそりと確認する。

 採点済みの解答用紙には、正解の丸と誤答のチェック、点数が赤ペンで明記されている。他のクラスメイトに関しても同様のはずだ。

 それとは別に、薄めの水色のペンで綴られている文字がある。派手な赤では周りに気づかれてしまうと踏んだのだろう。そのように配慮してまで伝えたいこととは何か。

 智史は一文一文を、周りに気取られないように読み進めた。


『昨日のうちに相談した例の彼と会ったんだけど、わたしの杞憂だったみたい

 だから、ありがとう』


 自身の行いが裏目に出なかったことに安堵する。無駄にはならなかったと考えれば充分に喜ばしいことである。

 続く文章を智史は目で追う。


『あなたについての事情は、わたしも聞き及んでいます

 困ったことがあったら気軽に相談してよ

 力になるからね』


 そこまでが水色で記された全文、岸谷の感謝の気持ちだった。

 たった一度の助言だけで随分と大げさなものである。それに引き換え、智史は自分が教わっている教師の顔すら覚えていなかったというのに。

 この文を気軽な思いつきで記したのか、誠心誠意を込めて書き連ねたのかは判断ができない。

 確かなことは、智史の手許にその優しさが届いているという事実のみ。


「…………」


 新年度が始まってから席替えをしていないので、席順は五十音順のままである。和島という苗字の効果で最後列の窓際に位置していることは、今の智史にとってありがたいことだった。

 机に水滴を落としそうになり、素早く顔を上げた。

 すんと鼻を鳴らし、唇を噛み締めて、外の景色を仰ぐ。

 あるいは澄み切った空の青さえも、少し滲んで見えなかったのかもしれない。

 頑なに閉じようとする心に、気遣いながら触れてくれる人たちの存在がある。

 その事実をどう受け止めれば良いのか、智史は迷っていた。


 ――友達はいなくて、一人になってしまったから。

 独りでも大丈夫なのだと、言い聞かせてきたというのに――。


「こういうの、ほんと……ずるいなあ」


 未熟な決心が揺らぐ。

 自分の生き方は正しいのかと、他の選択肢があったのではないかと、そう内心で訴える。かつての疑問が、智史の中に甦ってくる。

 思いの形は一枚岩ではない。せめぎ合う思考は延々と精神を苦しめ続けている。

 けれども最後には、凝り固まった自制心が否定した。

 裏表のない善意が傷口に染みていくような感覚だけを残す。

 授業中にも関わらず余所見をしている男子生徒のことを、教師である岸谷は一度だけ見逃すことにした。

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