Episode 023 「無意識に移ろう」

 外の街並みにオレンジが滲む。

 二人がいるカフェの中にも優しく光が差している。

 仲が良いと言えるほど簡単な間柄ではないのだが、なんだかんだで会話が途絶えることはなかった。早川が仲介に立っていなくても案外順調に回るものである。


「友達でもなんでもない相手と、こんなに長く接するのは不思議な感覚ね」

「……そうかもな」


 笹原が抱いた感慨を、智史も否定はしなかった。


「君はやっぱり、少し他の男子と違うわよね」

「なんだよ急に」

「男の子って……ほら、もっと馬鹿正直な生き物だと思ってたから」

「全員が全員、分かりやすい性格なわけないだろ」

「ほんと、反省しないとなあ。昼のこともそうだし」

「昼? 今日の昼休みのことか?」


 智史は岸谷の相談内容を思い出す。告白をしてきた男子生徒の想いをどう受け止めるべきか悩んでいた。解消の糸口へと導いたのは男子目線による発言である。


「ええ、その話。この前、男子だけを非難したのは間違いだったなって思ったの」


 下心に関する言及のことを指しているのだろう。

 珍しく自嘲するように、笹原が内情を告白する。


「自分で指摘しておいて、『好き』とか『告白』っていう単語を聞くとどうしても安直な恋愛感情ばかりを連想してしまう。それだけじゃ駄目だって、分かってるのに……」


 懊悩を深めてしまう笹原の姿勢を目の前にして、智史は客観的な立ち位置から臨む。


「学生なんてそんなもんじゃないのか? それに大人も大人で好き勝手やってる奴はいくらでもいるだろ。お前みたいに複雑に考えてるほうが稀だと思うけどな」

「直情的で単純な思考回路なんて真似したくもない。……だけど、世の中はそういう捉え方が普通なのかな」

「周りにいるような奴は、大抵そうなんじゃないか」


 恋愛らしい恋愛をしたことのない智史には、一般論を掲げることしかできなかった。


「君もそう? 異性に興味津々? ……とてもそうは見えないけど」


 会話に主導的な笹原は、逃さずに個人の意見を引き出そうとする。

 だが智史には主張らしい主張がない。


「どうだろうな。俺にはまだ、よく分からない」

「はぐらかしてるわけじゃなくて?」


 断ろうと思えば断ることもできた。

 それでも智史は心理の根底にある感覚を引き寄せる。


「……結局のところ突き詰めてしまえば、そういう感情だって当然あるんだと思う」


 誰にだって抗うことのできない欲望が根付いている。時期や程度の差こそあれ、人間はそれを自覚するのだ。そのこと自体に善も悪もない。ただ、充分な注意が必要になる。扱いを間違えれば、時には取り返しのつかない問題へと発展する。それはデリケートであるほどに、劇的で、鮮烈で、重たいものに変わる。

 そのことを智史は多分に知っている。


「だけど俺は、素直に欲求に従えるほど、純粋な男子をやれちゃいないよ」


 殻を破り一歩を踏み出すには、足りないものがある。

 笹原に言わせれば、不純な欲望に当たるのだろう。下心に流されることもまた、男子にとっては純粋で自然な行いなのかもしれない。

 それを踏まえた上で、智史は自らを純粋でないと評する。

 何を基準にして性根を綺麗であるとするのかは、個人の価値観に偏るものだ。

 他人の色眼鏡にはそれがどう映るのか。


「気に入らないばかりだって、最初はそう思ってたのになあ……」


 小さく。小さく届かないように、呟かれた気持ち。

 願われた通り、その感傷が相手の耳に届くことはなかった。

 しかし確実に、言葉にかたどられた気持ちは存在しているのだろう。


「君がその気になれば友達の一人や二人くらい、すぐにできそうなものなのに。まあ、私はお断りだけど」

「ほっとけ。それこそお前にも当て嵌ることじゃないか」

「……確かにそうなるわね。さっきのは取り下げるわ」


 引き際の判断を、智史は意外に感じていた。

 ある程度の距離を取りつつも、互いがいる場所にちょっかいを出す。隔たるものがあったとして。それでも関係性は生まれていて。変化を重ねていく。

 微々たるも徐々に。それぞれが伸ばせる手の範囲の中で。




 空の青が暗く深まり、沈む夕陽も色を薄めている。


「そろそろ、お会計しましょうか」


 二人は頃合いを見計らう。グラスの中で溶けた氷の水さえも飲み干してしまっていた。


「そうだな……。なら、代金だけ置いて先に行ってくれ」

「どういう意味?」


 誰かの言葉を思い出しながら、智史はその理由を述べる。


「極力一緒にいるところを見られたくはないんだろ?」

「ええ、まあ」

「だから必要な分を出してくれれば、支払いは俺がやっとくよ」

「……君にも気遣いができるんだ。これは予想外ね。今日一番に驚いたかも」


 面白がるように笹原は大げさな声を上げる。

 智史は至極真面目に後付けをした。


「保身のために決まってるだろ。お前と一緒に歩いてたってだけで目の敵にされたら、たまったもんじゃないからな」

「なんだか不倫してるみたいね、私たち」

「阿呆か。ドラマの見すぎだっつーの」

「ただの冗談よ。勘違いしないでくれる?」

「そっちが例えておいてよく言うぜ」


 互いにその気がないと分かっているからこそ言えるジョークである。


「じゃあ、お願いするわ」


 鞄から財布を取り出して、必要な金額がテーブルに乗せられた。

 笹原は立ち上がる。


「ああ。とっとと帰ってくれ。俺だって早く帰りたいんだ」

「自分から提案したくせに、何その言い草」

「何か間違ってたか?」

「……いいえ、むしろ正解。さっさと家に帰るわ。じゃあね」


 くすりと笑って、笹原は言葉通り後腐れなく去っていった。

 向かいの席が空いたこと途端、智史は時間を意識する。


 背もたれに深く腰掛けて、詳しく見ていなかった店内を見渡していく。喫茶店はおろかコーヒーの専門チェーン店すら利用したことがないので、笹原との入店が初めてということなる。

 一度席に着いてしまえば簡単なものだった。思い込んでいたほどのとっつきにくい環境ではなく、逆に居心地が良いとさえ感じることができる。

 往々にして、物事は試してみるまで分からないことだらけなのだ。

 笹原と二人きりというシチュエーションも、そこまでの苦ではなかった。今にして振り返れば、早川を交えた三人でいる時よりも智史の口数は多かったのである。

 友達という関係には当たらず、かといって無視ができるわけでもない相手。そういった存在のことをどのように定義し表現するべきなのか。それは個人の裁量に委ねられている。


 智史が持つ語彙の中で、悪友という単語が頭を過る。

 すぐに首を振った。

 近しいニュアンスを含んではいる。しかし、素直に受け入れることはできなかった。

 笹原や、早川が相手であってもそうであるように、智史は人間関係に一線を引いている。

 あと数日で四月も終わりを迎えるというのに、クラスメイトと交わした会話は事務的なものばかり。教室内の生徒たちに共通している認識は、消極的で物静かな人物だということに終始した。それ以上の情報も、私用で向き合おうとする生徒の姿もない。

 早くも双方が、関わる前から歩み寄ることを諦めてしまった。


 何を考えているのか分からない相手を見て、積極的に近づこうとする物好きは少数である。

 ただしその考え方は、一方的なものではなかった。

 智史も同じなのだ。

 智史も同じく、同世代の人間が何を考えて行動しているのか分からずにいる。

 感受性豊かな思春期の少年少女は周囲の影響を受けやすい。その場の流れで意見は変わり、自身の価値観より多数の賛同のほうが優位になる。そういった事態が増えてしまう。本人の意思がそのまま言動に反映されるとは限らない。精神が成熟していくほどに、表と裏を使い分けが複雑になっていく。

 勘違いをして、理解が及ばず、予想さえ難しい。


 一連の要素は智史にとっての恐怖だった。

 これが、同年代の級友と積極的に関われない理由の一つ。

 だから閉ざした。

 覆った殻で自身の心を守ろうとした。

 大多数の輪の中にいなければ不安を覚える人間がいるように。

 自他を切り離しておなければ自分を確立できない人間がいる。

 そうした基準の差から個性は生まれ、各々が違和を感じ取り、取捨選択を繰り返す。結果として多数と少数、連帯を優先する者と、孤立を許容する者が現れる。

 智史は独りでいるほうが気楽だった。そんな学校生活が続いても良いと、上手に諦めようとしていた。現状を受け入れられるつもりでいた。

 高校二年生に進級する以前まで、そういう腹積もりだったのだ。


 ――今現在は、どうだろうか。


 見守ってくれるお節介なカウンセラーがいて、主張をぶつけ合える生意気な女子生徒がいる。自分には過ぎた贅沢な環境だ、というのが素直な捉え方だった。そう思ってしまうのは智史の感性が屈折しているからだろうか。

 ポケットに振動を感じて、スマートフォンを取り出した。

 新着のメッセージに目を通す。


早川『お疲れ様

   勝手に連絡先教えてごめんね』


 タイミングからして笹原と早川の間で通信があったのだろう。校外で待ち合わせたことは知られている。労いと謝罪の言葉が続いた。気にする必要はないという旨を返信に打ち込む。反応はすぐに来なかったので、智史はメッセージアプリを閉じた。

 そして、画面の隅に表示された時刻を一目見た。考え事に耽っていただけで十分ほどが経過している。

 笹原が店の外へ出てから必要な間隔は確保できた。

 智史は清算に向かおうとして、事前に置いてあった代金に手を伸ばす。

 そして、一つの事実に気づく。


「……あいつ、なんの真似だ?」


 テーブルの端に裏返してある伝票を手繰り寄せて、しかと内容を見比べていく。

 この席で注文したのは、二人分のアイスカフェラテ、笹原が頼んだサラダラップの三品である。サラダラップを譲り受けた智史は料金の分割を提案した。同意は得られたはずだった。

 テーブルの上にあるのはカフェラテ一杯分と、サラダラップのである。二人で分け合ったのだから、本来であれば半額で事足りるというのに。この計算では笹原が智史の分を奢ったということになってしまう。


「気を利かせたつもりなのか、遠回しな嫌がらせなのか……」


 智史は何も加減のない文句の応酬を好んでいるわけではない。かといって余計な施しを受けて、好意的に解釈できるわけもなかった。

 気を遣われるほうがやりにくいというものだ。これまでに繰り返されてきた互いの言動を加味すれば、嫌がらせであると判断するのが妥当なのだろう。


 笹原が何を考えているのか、智史には理解ができない。それでいて、理解できないで済ませられない程度には、相手のことを知ってしまっていた。

 腹が立つ思いだった。

 とても、とても腹を立てている――そのはずなのに。

 不快感を募らせる一方で、なぜかネガティブな嫌悪感ばかりではなかった。

 二人の間で、何かが変わろうとしている。


「明日は絶対文句言ってやる」


 残された代金を握り締め、智史は翌日の再会について考えた。

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