Episode 022 「ただの高校生」

 智史と笹原は揃ってアイスカフェラテを注文した。それはすでに届いている。

 けれど、頼んだ品はそれだけではない。


「この時間帯って丁度お腹が空いてくる頃よね」

「……そうだな」


 運ばれてきたのは、小振りのサラダラップだった。

 基本は新鮮な野菜などの具材を、ドレッシングやソースと一緒にトルティーヤという薄い生地で包んだ料理である。笹原が選んだそれは、薄くスライスされたチキンとタルタルソースを加えたものだった。智史は似ている料理からタコスを連想するが、詳細な味を思い浮かべることはできない。


 木製の皿の上に、サラダラップが二切れ。小さめではあるが軽食としては充分な量だろう。

 笹原はその一つ掴んで、具を落とさないように一口かじる。

 味に対する反応は素直なようで、思わずといった笑みが零れていた。


「飲み物もそうだけど、ここはご飯もおいしいの」

「……左様ですか」

「まだ全部は試してないけど、いつかは制覇してみたいわね」

「…………へえ」


 一度も見せたことのない表情が惜しげもなく披露される。

 意識さえしていなかった空腹感を刺激され、食欲に心が揺れ動く。

 智史はテーブルに肘を突き、手の平を顎に添えながら退屈を装った。皿に乗っている残りのサラダラップに関心を示してないような素振りを心がける。

 ただ、あまり効果はなかったようだ。

 笹原がにたりと笑う。


「もしかして食べてみたい? 君がどうしてもって言うなら残りを恵んであげるわよ?」

「そんな施しは要らん」


 咄嗟の条件反射で智史は申し出を断ってしまう。

 けれども、口にしたことのない味への興味は尽きないのである。


「……割り勘だ。きっちりと半分で割り勘にするぞ」

「それが妥当ね。さあ、どうぞ」


 不敵に笑いながら笹原は皿を手で押して寄越す。

 歯痒い思いを噛み締めながら、智史はサラダラップに齧り付いた。

 単純なもので、おいしい食事は不満をあっさりと吹き飛ばしてしまった。




「で、どうして俺をここに呼んだんだ?」


 食事と雑談をそこそこに、智史は本来の目的について切り出した。

 放課後に付き合えと言ってきた張本人に問いかける。


「君にいくつか聞きたいことがあるの」

「それくらい、昼休みじゃ駄目だったのか?」

「あの空間で聞いたとしても、多分はぐらかされると思って」

「はあ」


 実感が湧いていない智史に対して、笹原は単刀直入な言い方をした。


「昼休みに訪ねてきた岸谷先生の悩みを受けて、君は『教師が生徒に好かれるのはいいこと』だって言ったわよね」

「ああ。言ったな」

「なら君は、綾乃のことをどう思ってるの?」


 時間が途切れてしまったかのように一瞬だけ空気が止まる。

 予想もしなかった問いを受け、智史は間に合わせの文言を返す。


「……なんだよ、薮から棒に。それを聞いたところで、何がどうなるわけでもないだろ」

「答えられない? もしかして、他人に話せないような劣情でも抱いてるの?」

「そんなわけ――」

「じゃあ答えて。綾乃のことをどう思ってる?」


 有無も言わせず笹原は繰り返し尋ねる。

 透き通った瞳が真っ直ぐに智史を見つめている。不純なものを暴くような、執拗に試すような眼差しが智史を捉えて離さない。

 上辺だけの言葉では通用しないのだろう。

 納得をさせるには中身を、本心を吐き出す必要がある。


「……俺はただ、先生のことを信用してるだけだ」


 質問に対する的確な表現とは言えないのかもしれない。

 それでも智史は、奥底にあったものをそのままの形で引き上げた。


「信用ね……。それは、多少なりの恋愛感情を含んでいるの?」

「――違う。そんな浮ついたものじゃない」


 即座の否定には、切々とした響きがあった。

 智史も歳相応の、思春期の男子である。異性への興味を捨て去ることはできない。けれど特定の女性一人を本気で好いた経験はなかった。誰にでも可能性を見出すような気の多い性分でもなかった。経験がないからこそ、智史は誤解も勘違いもしない。恩人である早川への気持ちを、単純な恋慕であると思い込んで、履き違えることもしない。

 他の人間に向ける感情とは重さも質も異なっている。その自覚を確かに持っている。


「助けてもらったんだ。先生がいてくれて、俺は救われた。だから……」


 あるいは親よりも心に近いかもしれない。そんな早川の存在を、だからこそ枠を越えた相手として認識しているのかもしれない。

 親しい女性として恋焦がれるには特別が過ぎている。

 震える声音を耳にして、笹原は何かを確信したようだった。


「救われた、と……。君も、そう言うのね……」

「え?」


 呟きの意味を、智史は把握しきれなかった。

 唐突に話題が変わる。


「私が綾乃と関わるようになったのは今から大体半年前、丁度文化祭の時期だった。打ち解けてからはカウンセリングルームでよく雑談をするようになって、年が明けてもそれは変わらなかったの」


 笹原は自らの過去を語り始めた。

 身の上話を聞かされても反応に困るだけだと智史は思っていた。

 一つ息を吐いて、笹原は目を細める。


「変化があったのは前年度の、二月の中頃のことよ。綾乃に優先事項ができた。一年生のとあるクラスで、とある生徒が問題を起こしたの。教室にいられなくなったその生徒は、春休みまでの学校生活をカウンセリングルームで過ごすことになった。綾乃は随分とその生徒のことを心配していたわ」


 智史は、ただただ黙していた。

 笹原がわざとらしく問いかける。


「君は、何か知ってる?」


 なんの根拠もなく、この場で数ヶ月前の出来事を掘り起こすわけがなかった。ある程度の確証がなければ、それぞれを結び付けられるわけもない。

 苦々しい表情を崩せないまま、智史は口を開く。


「まさか、先生が話したのか?」

「……やっぱり君なのね」


 対照的に笹原は淡々としている。

 デリケートな部分であり、忘れるよう努めていた過去に触れられた智史は、苛立ちを隠せなかった。


「お前、なんのつもりだよ?」

「安心して。私は詳しいことなんて一つも知らないから。色んな状況やタイミングから考えてみて、私が自分勝手に予想しただけ。そもそもの話、綾乃は人のプライバシーを侵害するような無責任な人じゃない。それは君だって分かってるでしょう」


 言わずもがな、二人はそのことを充分に理解している。


「なら、どうして」

「予想の答え合わせをしたかったってのもあるけど、……確認したかったのよ。どうして綾乃が、君を特別視してるのかを」


 笹原からすれば、智史に対する早川の接し方は他と違っているらしい。

 しかし、それはあくまで笹原の尺度によるものだ。


「そういうのじゃないだろ、きっと。先生は誰に対しても優しいから、そこに優劣なんてない。大きな差なんてないはずだ。俺はどこにでもいるような普通の高校生なんだから」

「でもそれはカウンセラーとしての話でしょ? 一個人としての綾乃は違う。いくら優しくたって、誰のことも無条件で肯定できるはずがない」

「だとしても俺は、特別扱いされるような人間じゃないよ」


 自分自身が下す自己評価は、簡単には覆らない。

 それは誰が是非を問うものでもないのだろう。個人の中で完結してしまえば、それまでのことでしかない。他人がどう判断したところで当人の認識を変えることは難しい。


「まあ、事実はそうなんでしょうね。綾乃には君がどう映ってるか知らないけど、端から見ればなんの変哲もない普通の男子高校生だもの」

「そうだよ。……それを言うなら、俺よりもお前のほうが、よっぽど特別じゃないか」


 智史はこれといった意識もせずに、笹原のことを漠然と評した。

 外見的優位を兼ね備える人間に対して、そう思うことが当たり前のように。

 だから、反感は生まれてしまう。


「――何が違うの?」


 いたく咎めるようにして、笹原が疑問を呈する。

 智史は一段と低い声がするほうへ視線を上げた。


「私だって周りの人たちと変わらない。みんなと同じなのに」

「いや、全然違うだろ。俺とお前とじゃ特に」

「何がどう違うって言うのよ?」

「価値観とか考え方とか、色々違ってる。それに容姿や周りの対応だって……」

「だったら君は私を特別視してるの? 私のことが、そんなに大それた人間に見えるの?」


 笹原は確認をするように求めた。

 その瞳は、初めから答えを知っていた。

 平行線を辿っていた二人が、ようやく同じ観点を共有する。


「……俺にとって、お前は見た目が綺麗なだけの、同じ学校に通う生徒の一人でしかない」


 初めからそうだったのだ。美人に対する先入観は持っていても、色眼鏡を通して勝手な理想を押し付けたことは一切なかった。

 智史からすれば、事実その程度の認識なのである。

 見目うるわしい異性が近くにいれば、自然と目を向けてしまうこともあるだろう。

 けれど、そこまでなのだ。その先には何もない。

 智史と笹原は相性が良いわけでも、価値観が合うわけでもない。

 異性という隔たりだけがあり、女性として焦がれるには遠かった。

 たとえ個人的な好みについて語ったとしても、整った容姿にうつつを抜かすのであれば他にも綺麗な女性は大勢いるだろう。もし笹原の性格が別物であったとしても、思うことは同じだっただろう。綺麗な芸術品を目にして、ただ綺麗だなと感じるに留まるように。


 そもそも、智史は恋愛することを想定してはいないのだ。

 最低限のものさえあれば満足できていた。必要な分が必要なだけ揃っていれば、それだけで充分だった。失えないものを、ひっそりと抱えることさえできていれば良かった。

 高望みをして、多くを夢見たところで、現実は描いた形に変わることはない。

 求めたとしても、きっと手にすることはできない。

 いつの日からか、智史はそうと決めつけている。


「まあ、そんなふうだろうなって思ってたよ」


 ならば――笹原が注視する特別とは、何を指しているのだろう。

 一瞬だけ垣間見ることができた、穏やかな笑みは何を示しているのだろう。


「だったら分かるでしょう? 私を特別扱いするのはいつだって周りの人たちなの。私の言動を大袈裟に捉えて、さも重要人物のように接してくる。同じ世代の、同じ人間なのに……」


 切実に語る笹原は、その見解に至る経緯の奥で、絶えず何かを求めている。

 愚直なまでに。諦めてしまった智史とは正反対に。


「私だって普通なの。みんなと一緒で何も変わらないの。だから、自分のことを過大評価なんてしない。自己中心的な勘違いだけは、しない」


 他人に聞かせる意見というより、決意表明のようだった。

 有利に活かせる要素を備えていても、笹原はそれに頼らないのだと言う。扱いを間違えなければ、楽な道はいくらでもあったはずなのに。

 何がそこまでさせるのか。多くを知らない智史には推し量ることもできない。


 だとして。

 共感はできずとも、一連の言葉が心からのものであることだけは解る。

 先程、智史が心を曝け出したように。

 笹原もまた、核心に近いものを口に出した。

 加減が必要な相手ではないからこそ、今の二人の関係は成り立っている。


「……今日は随分と饒舌なんだな」

「そうかもね。こんなこと、最近まで話す機会なかったから」

「面倒な性格してるからだろ?」

「君に言われたくないんだけど」


 隠すことなく無防備に、笹原は笑った。

 釣られるようにして智史も、小さな笑みを零していた。


「今さっき言ったことが私の考えなわけだけど、君の意見はまだあるのかしら?」


 一方的な発言では終わらない。

 笹原が、主張する機会を確保する。

 智史も、自らを曲げずに明言した。


「いくらそうだって訴えられても、違うものは違うとしか思えない。現に、俺とお前は同じなんかじゃないんだから」

「頑なだなあ……綾乃が気に入るわけだ」


 得心するように笹原は呟いた。


「君はきっと、それでいいんだと思う。下手に流されて同調されるよりは、よっぽどいい」

「実際は周りの流れに乗れなくて、空気に馴染めなかっただけなんだけどな」

「ふふっ。そうなんでしょうね。君の減らず口って本当にむかつくんだもの。そんな穿うがった物腰のままじゃ、誰も相手にしてくれないわよ?」

「さすがだな。見てくれがいいだけの女は言うことが違う」

「お願い。今度一発引っぱたかせてよ。いいでしょ? ね?」

「馬鹿じゃねえの」

「撤回させて。平手は甘かったわ。グーよね、グー。絶対にぶん殴る」

「おい、本性が見え隠れしてるぞ。大丈夫か」

「もちろん正気よ。大真面目に手を出す口実を考えてたところ」

「まるで駄目じゃねえか」


 売り言葉に買い言葉である。

 そんなやり取りがいつになっても顕在している。

 煽り煽られながらも、二人はどことなく楽しそうだった。

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