Episode 027 「気を許せないとして」

 各々が昼食を終え、智史は空となった弁当箱を鞄に収めていた。


「そうだった。忘れる前に、今済ませておかないと」


 優先して解消すべき懸案事項があったことを思い出す。

 借りたままにしておくには、智史の気分が悪かった。

 授業が終わるまでは鞄の中に移している財布を取り出して、返すべき必要な金額を摘まみ上げる。笹原の正面、テーブルの上に分かりやすいよう、小銭を一枚ずつ並べていく。


「これは?」


 笹原がわざとらしく首を傾げる。

 智史には、自分が実行したことを忘れたと言わせるつもりは毛頭ない。


「割り勘だって言っただろ。きっちり半額だ。なんなら昨日、あの店で受け取ったレシートも見せようか?」

「……そこまでする必要はないわ」


 返された言い回しは事実、自覚的な行動であることを示していた。

 席を立っていた早川が飲み干した紅茶の補充を終えて戻ってくる。


「何してるの? どういう状況?」

「さあ……。何がしたいんでしょうね」


 早川が抱いた疑問の答えは、智史の考えに及ばない場所にある。

 その真意を問いただす。


「昨日のお前は確か、こういったことは否定してたよな。それだっていうのに、どうしてこんな真似をしたんだよ?」


 テーブルに連なる硬貨を見下ろしながら、当事者は悪びれもせずに言葉を並べた。


「友達に恵まれていないらしいから、優しさに飢えてるのかと思ってね。気を利かせてみたんだけど、もしかして余計だったかしら?」


 皮肉のつもりなのか、笹原の言い分は捨て犬に接するような目線のものだった。

 本気と冗談の区別は判然としない。

 気まぐれからの行動だと、それだけのこととして片付けてしまえば、すべては楽に終わったのだろう。

 仮に、そうだったとして。

 笹原が掲げた理由を、智史は認めることができなかった。


「本心でそれを言ってるなら、筋違いもいいところだ。それは優しさなんかじゃない。憐れみって言うんだ。願い下げなんだよ、そんなものは」


 優しさであると自称する行いを、拒むように糾弾する。

 語気は荒々しく、余分な力が入っている。

 本当の『優しい行い』というものは、それではないのだと断罪するように。

 智史が知る『優しい人間』は、そのような不用意を働かないと主張するように。


「あらそう。気に障ったのなら、今後は控えることにするわ」


 対峙する笹原は余裕のある受け答えをした。

 智史の脳裏で、初めの頃に抱いた第一印象が強く想起される。


 ――心の底から、気に食わない。


「……お前が俺に優しくする理由なんて、無いだろうが」


 自ら忠告をしておいて、その言葉の虚しさを噛み締めている自分が心の中に存在した。独りでも構わないと意気込んでいながら、この体たらくである。

 同じ時間を共有することになれば、他者との繋がりに愛着を覚えることも、致し方ないことなのかもしれない。

 けれども、智史はその思いを無視する。


 笹原が、何も応えない。

 早川は固唾を飲みながら、二人の行く末を見極めようとしている。

 一方的な独白は続いた。

 これまでのように。これからもそうするために。

 自分と他人の間に線を引く。


「先生が俺たちを引き合わせたから、仕方なく……だろ? それ以外に、特別な意味なんてあるのかよ?」


 それを口にしてしまえば、決定的な何かが終わってしまう直感があった。

 だからこそ、智史は終わらせようとして言葉に変えた。特別なものは一つもないと、言い聞かせようとした。

 関わることに臆病な内心を隠すために、理屈を重ねて用いる。

 完全な断絶には至らないまでも、そこから先に生まれる可能性すべてを拒絶する。

 芽生えていたのかもしれない、至極真っ当な感情さえ排斥する。

 相手の懐に踏み込むことも、自身の懐に踏み込ませることも、容認できない。

 智史はそれを許せない。


「そうよね。私たちは……友達でも、なんでもないんだから」


 笹原も、そう答えることしかできなかった。

 半ば智史が言わせたようなものなのだ。

 言葉に表すことで曖昧な気持ちを否定する。

 二人の間には何もないのだと、無理矢理に口裏を合わせてしまう。


 執拗なまでに漠然とした気持ちを押しのけようとする様は、むしろ逆に――特別な理由の存在を認めているようでもあった。積極的な否定は、あるいは消極的な肯定にも似ている。目を逸らそうとする智史と笹原に、その自覚はないけれど。

 強情な理性が無関心を装い、定めた型からはみ出すことができない。

 閉じられた心を開くには及ばない。

 自力で殻を破ることが困難だとすれば、それ以外の方法に頼るしか術はないのだろう。

 もしも可能性があるとするなら、それは――。


「……ふふっ」


 場の空気には不釣合いな、笑い声が聞こえた。


「何がおかしいのよ、綾乃」


 笹原がいぶかしげな視線を送る。


「やっぱりそうよね。びっくりするぐらい、二人って簡単には進まないわよね」

「進むも何も、最初からこんな感じでしたよ。俺たちは」


 智史が後ろ向きな意見を示す。

 対して二人を引き合わせた張本人は、柔らかに呟いた。


「相も変わらず不器用なんだから。そういうところ、本当にそっくり。

 ――馬鹿だなあ……まったく」


 全部のことを知っているかのように、早川が溜め息を吐く。

 その気になれば、できることは数多くあるのだろう。行動を観察して、言葉を分析して、本当に思っていることをつまびらかにしてしまえば、停滞しがちな関係性を容易に活性化できるのだろう。それなのに。

 指摘も助言も選び取らず、ただ感想だけを表に出した。

 間違っていないのだと。

 二人のしたいようにしているなら、それだけで構わないのだと。

 認め慈しむように、カウンセラーは微笑んでいる。


 智史と笹原は呆気に取られ、色々なことが頭から吹き飛んでしまった。

 それぞれが悩み抱えていた葛藤は他人からすれば取るに足らないもので、それが大きく見えてしまっているだけなのだ。飾らない本来の自分を受け止められたなら、より明るい未来を切り開くことができるはずなのだ。二人からすれば、早川がそう訴えているように思えてならなかった。その心遣いをなかったことにするのは難しいことだった。

 智史が笹原のほうを向く。その時、笹原もまた智史のほうを向いた。

 互いに顔を見合わせ、声を出せず言葉も紡げないまま、視線を逸らす。

 表面的な建前ばかりを追いかけてきた二人は、今ある感情をどのように言語化すれば良いのか、その方法が分からない。迷いが生じ、迷っている自分がいることに戸惑う。それは両者にとって知らない内面との出会いでもあった。


 余裕を失い、動き出せずにいる二人の姿を、早川は急かさず見守っている。

 五時限目を告げる予鈴が響いた。


「時間ね。早く戻らないと、授業に遅れちゃうわよ?」


 カウンセラーは終始、二人の在り方を咎めようともしない。

 そのすべてを受け止めようと努めているのだ。


「あ、そうだ。次、移動教室なんだった……」


 やっと動きを取り戻した笹原が、鞄を手にして廊下へ向かう。

 ドアの取っ手に触れようとしたところで、その背中は立ち止まった。

 後ろ髪を引かれるようにして振り返る。

 笹原は言い淀み、迷った挙句、小さな声で口にした。


「次に会うのは……一週間後ね」

「そう、なるな。ゴールデンウィークを挟むわけだし……」

「……っ。それじゃあ」


 継ぎぎだらけの会話を切り上げて、笹原は一目散に部屋から出ていった。

 発言に本来以上の意味はないのかもしれない。

 そうだとしても。

 智史の心に、何かが残る。


 付かず離れず、繊細な自意識は曖昧で。

 噛み合わなければ、些細なきっかけで崩れてしまう。

 そんな二人の高校生は、反発を繰り返しながら、次回もまた同じ場所に集うのだ。

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