Episode 020 「前提にあるもの」

 戸惑う智史の素っ頓狂な声は、帰ってきた早川の入室によって上書きされてしまった。



 切り替えの早かった笹原が呼びかけに答える。


「問題ないわよ。至って平和的な時間を過ごしてたところ」


 何事もなかったような澄ました顔をしていた。先程の笹原の発言について意図を尋ね損ねた智史は、ひとまず帰ってきた早川のほうを向く。


「まあ、特別何もなかったですね。先生の不安は杞憂でしたよ。……それで、後ろにいらっしゃるのはどういう流れですか?」


 早川の背中に続くように、若い女性教師の姿があった。智史の見間違いでなければ、彼女は数分前に相談に現れた岸谷その人である。生徒の目のない場所での対応を求めた当の本人が、生徒のいるこの部屋に戻ってきたということになる。


「ええと……こんにちは?」


 生徒二人の視線を感じた岸谷がぎこちない挨拶を口にする。


「さっきの岸谷先生はああ言ってたけど、わたしは逆に、この問題は生徒である二人に聞いてみたほうが参考になるんじゃないかと思って」

「まあ、そういう流れなんです。二人の意見を参考にしたくて。個人的なことで申し訳ないんだけど……」


 岸谷は低い物腰から智史と笹原の顔色を窺った。


「私は構わないですよ」

「俺も別に問題ないです」

「……ありがとう」


 安堵の表情を浮かべる岸谷。その横で早川が次を促していく。


「じゃあ座ってください、岸谷先生。場所は……」


 早川はそれとなくソファの確認をした。

 早川の視点から見ると、手前には智史が座っていて、挟んだテーブルの対角の位置に笹原が座っている。


「なら、私が移動するわ。岸谷先生はそちらに座ってください」

「ごめんなさい、手間をかけてしまって」

「これくらいなんてことないですよ」


 笹原は立ち上がって向かい側のソファ、つまりは智史の隣に腰を下ろす。

 その所作を、智史は呆けた顔で眺めていた。


「どうしたの? 馬鹿みたいな顔してるけど」

「な、なんでもない」


 笹原に特別な意識はないようだった。あくまで自然な考えに基づいて動いているらしい。生徒に意見を求めている岸谷からすれば、その二人の顔が対面に揃っていたほうが良いと判断したのだろう。


 過剰反応するわけにもいかないのだが、普段は隣にいない人物がいる、という感覚を智史は捨てきれなかった。

 今まで他の来客があっても、その関係で笹原が智史の隣に座ることは一度もなかった。智史の正面に早川が座り、その早川の隣に笹原が座る。その形が殆どだったのだ。

 場の流れで移動しただけ。多少の距離を詰めただけ。その行為自体に特別な意味はない。

 けれども、智史と笹原は今までよりも僅かに、少しだけ近かった。


 早川の眼差しが優しく、二人の変化を見守っていた。

 岸谷と早川がソファに腰を下ろすと、早速話が進む。


「ここにさっき来た時も個人的なことって言ったんだけど……あの、わたし、生徒に告白されたの。それを相談したくて」


 切り出された内容を受けて、智史と笹原は各々感嘆の声を上げた。


「だから、生徒の目を気にしていたんですね」

「ええ。無闇矢鱈やたらに話すことでもないから」

「それで相談っていうのは、まさか真剣に交際したいなんて話じゃないんですよね?」

「もちろん。わたしは彼氏いるもの」


 その部分だけは、岸谷がきっぱりと言い切った。

 この返答だけで智史は面倒な雰囲気を感じ取る。


「あ、はい。そうなんですか」

「彼とは大学の頃からの付き合いなの。他の人とか今は考えられないのよね。子供は確かに好きだし、そうだったから教師になった部分はあるけど、そういう対象としてはさすがに見れないでしょう?」

「ええと。まあ、そういうものですよね」


 怪しい雲行きに、笹原も戸惑いながら相槌を打つ。


「ああ、ごめんなさい、脱線しちゃって。もっと詳しく話すわね。……相手は三年生の男の子で、わたしが授業を受け持ってるクラスの子でもあるの。二年生の時から教えてて、成績も良くて真面目な子なんだけど、三年生はもう受験が控えてるでしょ? 早い子はもう対策とかを考え出していて、その子もそうだった……。その準備の一環なんでしょうね。わたしに告白してきたのは」


 指針を修正された話題に耳を傾けていた智史は、一つの言い回しについて問いかける。


「準備の一環っていうのはどういう意味ですか?」

「それはわたしの勘なんだけど、彼が言ってたの。『忙しくなる前に、想いを伝えたかっただけなんです』って。だから、彼にとってのけじめっていうか、踏ん切りをつけるためのもの……なんだと思う」

「…………」


 その話を、笹原は気難しそうな顔で聞いていた。


「実際のところ、わたしはちゃんと彼のことを振ってはいないの。受け入れられないことは最初から決まってたんだけど、それを言う前に逃げられちゃって」

「……言いたいことだけを言って、自分の気持ちばっかり押し付けて、答えも聞かずに退散するなんて。無責任な臆病者ですね、その彼は」


 笹原の表情は険しいものだった。

 苛烈なまでの物言いには重たい響きがある。あるいは、岸谷と同じような経験があるのかもしれない。


「凄いばっさりと言うのね、あなたは……。でもまあ、わたしも大体同意見かな。こういうのって、その、困るのよね」


 共感に至った女性二人がうんうんと頷く中、一人の男子だけはその感覚を共有することができなかった。


「好意を持たれているだけ、いいほうだと俺は思うんですけど。嫌われるよりはずっとマシじゃないですか」


 人に好かれること、特に同世代の異性から強く想われるという経験のない智史には、告白されることを迷惑な行為だと判断する材料がない。お金があって困る人はいないように、好意を抱かれることのどこに問題があるのか分からないのだ。


「そう? わたしは相手が意中の男性じゃないと快くは思えないんだけど……」


 岸谷が反対の意見を述べる。続く笹原も賛同のようだった。


「関心のない他人に好意を寄せられるのって、面倒なだけよ?」


 独りであることを許容してきた人間には余りにも眩しいそれを、二人の女性が冷淡にも切り捨てる。結論が覆る様子はなさそうである。

 完全に割り切るにはまだ幼い精神が、淡い期待を抱えていた。


「なら、嫌われてもいいって言うのかよ?」

「場合によってはそうね」

「下手に付きまとわれるくらいなら、わたしも単純に嫌われてしまったほうが楽だと思う」

「そうなのか。そっか……」


 多数を相手に智史は何も返せない。


「岸谷先生、論点はそこじゃなかったでしょう?」

「……そうでしたね。議題が議題なもので、つい」


 早川の軌道修正に助けられた智史。向かい側に目を向ければ気遣いの眼差しがあった。

 流れを切り替えるように岸谷が咳払いをする。


「ここまでを要約すると、教え子の男の子に想いだけを伝えられたわけなんだけど……わたしは、これからもいつも通りに過ごすだけでいいと思う?」


 初め智史と笹原は、質問の意図を正しく掴むことができなかった。

 岸谷の発言が続く。


「こんなふうに生徒から気持ちを伝えられたのは初めてだったから、どうしたらいいのか分からなくなっちゃったの。もう過ぎ去ったことだと考えても、本当にいいのかなって」

「でも、その男子の告白が区切りをつけるためのものだったなら、これ以上何も起こらないんじゃ?」

「確かにそうなんだけど、考えるほど心配になっちゃってね。誰に限らず、学生の時の告白って簡単にクラスメイトの間に知れ渡ってたりするじゃない? そういうのが原因で面倒事になったりしたら嫌でしょ? 杞憂だって分かってても、不安なものは不安なのよ……」

「あー、うん。そういうパターンって不思議となくならないんですよね」


 笹原と、智史も呆れ混じりの溜め息を吐く。自分の身に降りかかることがなくとも、そういった話を小耳に挟む機会は稀にあった。


「だけど岸谷先生、それが実際に起こったならまだしも、口振りからしてその様子はないんですよね? 今の段階だと何も言えないのでは」

「そうよね、やっぱり。考えすぎ、よね……」


 的を射ているはずの笹原の進言。それに応じる岸谷の歯切れは悪かった。最悪の事態を想定することは良いのだが、そのせいで余計なものまで抱える始末となっている。

 今求められるべきは否定的でない意見だろう。

 智史が、一つ一つを丁寧に確認する。


「岸谷先生から見てその男子は、早い時期から受験を念頭に入れるような真面目な生徒なんですよね?」

「……ええ、そうだけど」

「じゃあクラスの雰囲気は? 授業の時に騒がしいとか態度が悪いなんてことはありますか」

「一年以上彼らを見てきたけど、そういうことはあまりないわね。元気の有り余ってる子が数人いるくらいで」

「そこまで肯定的に評価できる生徒が相手でも、それでも怖いですか?」


 前提となるべきことを踏まえた上で、智史は問いを放った。

 ネガティブな発想が先行していた岸谷は、抜け落ちてしまったものがあったことを知る。


「その男子の想いが、一体どれくらいのものだったのかなんて分からないですけど、教師として生徒から好かれるのは、いいことじゃないんですか?」


 智史はあくまでも憶測を、希望的観測を連ねているに過ぎない。

 だとしても、岸谷にとっては意義のある言葉だった。


「そうね。確かに、その通り。……そうよ、それだけは見失っちゃいけなかったんだわ」


 噛み締めるように、胸に刻み込むように、岸谷は教師としての根幹を取り戻す。


「ありがとう。わたしはもう大丈夫。きみのお陰で肩の荷が下りたよ」

「そんな、俺は大したことしてませんって。単に確認をしてみただけで」

「それでもだよ。きみの名前は?」

「わ、和島智史ですけど……」

「智史くんね。今日は本当にありがとう。あなたも、付き合わせてしまってごめんなさいね」


 岸谷は両手を合わせて謝意を示す。続けて笹原にも礼を言う。


「いいですよ、それこそ私は何もしてないですから」

「もう、二人揃って謙虚なんだから……。早川さんが言った通り、いい子たちですね」

「ふふっ。そうでしょう?」


 大人の女性が柔らかに笑い合う。

 二人の子供はむずがゆそうに見当違いの方向へ視線を逃がした。


「では、わたしはそろそろ。午後の授業の準備があるので」


 本来の調子に戻った岸谷は立ち上がり、前向きに次のことを視野に入れる。

 廊下へと出ていく、その寸前に岸谷が振り返った。


「じゃあまたね、智史くん」


 まるで次があるように笑顔とウインクを残して、若い女性教師は去っていった。


「……ナチュラルに下の名前を呼ぶのは反則だろ」

「あら、照れてるの? 智史くん」

「先生まで便乗しないでください」

「そうよ綾乃、智史君が可哀想よ?」

「やめろやめろ。お前が言うと見下してるようにしか聞こえないから」


 笑い声と困り顔が、意識もせず自然に生まれていく。

 話題があって、茶化して、文句を言って、反応を返して。

 今までのように、それでいて少しだけ近い場所で、二人の高校生は言葉を交わした。

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