Episode 018 「知らなかった感覚」
放課後、由美奈は寄り道をしていた。
最寄り駅へと続く道を逸れて、路地を少し進む。大通りの雑踏から離れるようにして、そのカフェは佇んでいる。
おすすめがチョークで書かれている看板に目を遣りながら、由美奈は扉を開けた。待ち合わせしていることを店員に伝え、案内された席に座る。抑え目の明かりに照らされながら注文を済ませ、一息。
スマートフォンを片手に待つこともできたが、由美奈はそれをしない。木の温かさを感じさせる内装はシックで落ち着いた雰囲気を漂わせている。観賞植物や辺りに飾られている雑貨、適度に届く環境音を楽しむことができれば時間は苦にならなかった。
届いたアイスコーヒーで喉を潤し、氷の音に耳を傾ける。
力が抜けていく。頭の中を空にする。
空気を入れ替えるように、余計なしがらみを意識の外へ。
けれど、肩から降りることのない荷が一つ。
昼休みの終わり際に交わした、和島とのやり取りが心に残る。
由美奈の発した言葉に嘘偽りはなかった。率直な本心を口にしたつもりだった。
男子はより顕著に思春期の影響を受け、言動にもそれが反映される。少なくとも由美奈はそう捉えている。当然女子にも当てはまることなのだが、隠すことを覚えた女子は表に出すことを避けようとする。異性を含む大人数の場では気を引き締める傾向がある。だから、これは頻度と先入観の問題なのかもしれない。
取り分け由美奈の場合は、異性の眼差しに晒される機会が多かった。
学年が上がっていくにつれて刷り込まれてしまった印象がある。
――男性とは、性について積極的な生き物なのだ。
由美奈の認識は変わらない。間違っているとも思っていない。事実、男子である和島さえも否定せずに同意した。二人の見解は一致している。
それなのに。
辛そうで、苦しそうで、どこか寂しそうだった男の子の顔が何度か浮かぶ。
結論は出ているはずなのに、欠けているものがある。
そのような気がしているのだが、由美奈には欠けているものの正体が分からない。
漠然とした感覚に答えを出そうとしても、一人では行き詰まるばかりだった。
「ごめんね。待たせちゃった?」
「そんなことないわ。ほら、座って」
約束をしていた早川が遅れて到着する。
二人が校外で待ち合わせをするのは今に始まったことではない。由美奈から誘うこともあれば早川が申し出ることもある。今日は後者のパターンだった。昼休みが終わる間際にカフェに寄ろうと言われたのである。その理由を察せないほど由美奈は鈍感ではない。
席に着き、メニューに目を通す早川は不満があるようだった。
「奢ってあげるから好きなの頼んでていいって言ったじゃない」
「そんなわけにはいかないって、いつも言ってるんだけど?」
「意地張らなくたっていいのに。甘いの好きなんでしょう」
「私は別に、普通だって。頼みたいなら綾乃が頼みなさいよ」
「じゃあ何か適当に注文しましょうか。わたしはこれがいいと思うんだけど……ちなみに由美奈はどれが美味しそうに見える?」
「え? まあ、そうね。私なら……」
そうやって早川は由美奈の意見を参考に注文を終える。結局、スイーツは二人分を頼むことになった。一連のやり取りは二人にとって恒例のようなものである。
「最初から素直になればいいのに」
「ほっといて」
歳相応の子供のように由美奈はそっぽを向いた。大人と子供という単純な図式になっているためか、既知の人間がいないからか、余分な力の抜けた二人は自然な会話を続けていく。
「兄弟って憧れてたのよね。妹がいたらこんな感じなのかなーとか想像したり」
「なんでそれを私の目を見ながら言うのかな」
「お姉ちゃんって呼んでもいいのよ?」
一人っ子である早川は、同じく一人っ子の由美奈に兄弟への羨望を語る。
「歳が一回り上の姉か……。複雑な家庭なんでしょうね」
「可愛くない妹だこと」
気心の知れた二人は軽快に、毒にも薬にもならないやり取りを楽しんでいた。
数分が経ち、店員がやってくる。早川のエスプレッソコーヒーとモンブラン、由美奈のチーズケーキがテーブルに並ぶ。
カップに口を付け、すぐにフォークへ手を伸ばす早川。それに対して由美奈は、グラスのストローを弄びながら食べるタイミングを窺っている。くだらないプライドが正直になることを躊躇わせていた。
「そういえば、ここでお話するのも久しぶりかしら。最後に来たのは一月だっけ……」
「綾乃と会わなかったら、このお店の魅力にも気づけないままだったでしょうね」
「わたしに勧められるまで甘いカフェオレくらいしか飲んだことないって言ってた子が、まあ随分と成長したみたいで。わたし嬉しいわ」
「……馬鹿なこと言ってると、いつの間にか自分の分がなくなってるかもよ?」
「あ、ちょっと、このモンブランはわたしのでしょ!」
早川の隙を突いて、由美奈は他人の品を勝手に頂戴した。
「まったく、じゃあ今食べた分だけ貰うからね」
「な! 待ってよ、私まだ食べてないのに!」
「勿体ぶってるほうが悪いんですー」
わちゃわちゃと言い合う二人は、それこそ姉妹のようだった。
気軽で楽しい時間は経つのが早い。
少し傾いた夕陽が店内に柔らかく差し込んでいる。
スイーツを綺麗に平らげた二人。残っているのは自分で注文した飲み物と、雑談をするくらいのことだろう。
早川の切り出し方は唐突だった。
「――昼のことで、聞きたいことがあったりする?」
由美奈は唾を飲み込んだ。
予想できなかったことではない。心の中で身構えはしていた。
アイスコーヒーに手を伸ばしてから、落ち着き払った声で応戦する。
「……聞いて欲しいのは、綾乃のほうなんじゃないの?」
「じゃあ、わたしの話に付き合ってくれるかしら?」
そう運ぶのかと由美奈は内心に思う。
「嫌よ。別に聞きたいことなんて、ないし……」
「そう? じゃあいつも通りお喋りして、適当な時間になったら帰りましょうか」
「え、いいの?」
潔い引き際に、思わず問いかけてしまった。
瞬間、早川が笑みを作る。由美奈は自分が失敗したことを悟った。
「気になってはいるんだ?」
「……そんなんじゃないわ」
「由美奈は他人に厳しいけど、それだけじゃない。根は優しい子だもんね」
「私は思うことを言っただけ。隠すことなんてできなかった。それを優しさとは呼ばないんじゃないの?」
「わたしはその場にいなかったから、二人がどんな会話をしたのか分からないけど、由美奈は逃げずに自分の意見を貫いたんでしょう? 取り繕うこともできたはずなのに」
由美奈は肯定しない。けれど否定の言葉も出ない。
早川はそういった譲れない姿勢について、前向きに判断を下す。
「今日みたいにぶつかり合うこと自体を、わたしは責めたりしない。それだけ相手と正面から向き合えてるってことだと思うから」
「そう……なのかな」
「普段なら適当にあしらって終わりだったでしょうね。だけど和島くんに対しては誤魔化さずに自分の本心から訴えた。嘘を吐くのは失礼だと思えたなら、それもきっと、一つの優しさの形だとわたしは考えてる」
「今日みたいな結果になっても?」
優しさが人を傷つけることもあるという。しかしそれは、相手を思う気持ちが前提になければ成立しないのではないか。由美奈の疑問はそこにあった。
「それを有意義と捉えるのか、無意味だと切り捨てるのか。それは由美奈次第よ」
「自分、次第……」
「わたしはカウンセラーだし成人してるから除くとして。同世代を相手にきちんと本音を伝えることが、今までにできていたの?」
由美奈は一度、アイスコーヒーに手をつけた。
席に深く座り直す。立ち止まって真剣に考える。
同性に関しては、大抵の場合、女子は自分と相手に生まれる差を前提としていた。あなたとわたしとじゃ全然違うから、と言って自他を明確に分ける。美人というフィルターが挟まれ、共感できる部分を望めないと、距離感は一気に遠ざかってしまう。
異性に関しては、そもそも同年代の男子を相手に、性について議論しようと考えたことすらなかったかもしれない。
同じ人間として色眼鏡を通さず、対等な立場から物を言い合うことができる存在。早川がいればそれで構わないと、由美奈は無意識に諦めていた。
「仮にそれができていたとしても、それは今日で終わっちゃったんでしょうね」
「もしかして、和島くんのことを言ってる?」
「あれだけ明確に対立しちゃったから、顔を出しにくくなるんじゃないかなって」
「ふふ。ほら、やっぱり優しいじゃない」
「そんなんじゃないって言ってるんだけど。勝手にプラスのほうへ解釈しないでよ」
「ごめんごめん。ついね」
もし姉がいたのなら厄介だろうなと由美奈は思い描く。
掴みどころの難しい歳上の女性は、曖昧なままに呟いた。
「どうだろうね。和島くんは変なところで強情だからなあ……」
「随分と評価してるんだね、彼のこと」
「出会ってから二ヶ月くらいしか経ってないけど、なかなか見所のある男の子なのよ?」
「ねえ、それってもしかして、二月の――」
その発言に対して、由美奈には思い当たる節があった。
けれど、気持ちを押し留める。
「いや、いいわ。直接本人に聞くから」
口走った僅かな単語だけで、早川は察したようだった。
「次は度が過ぎちゃ駄目だからね」
「しないわよ。約束する」
「本当だからね? 約束したからね?」
「ええ」
由美奈は至極真面目に応えた。それを受けて、早川は満足げに頷く。
初めの頃であれば、このような対応にはならなかったかもしれない。適当な折り合いをつけて、忘れてしまったかもしれない。
友達とは呼べず、友好的であるとも言えず、口喧嘩を繰り返して、真っ向から衝突する。
けれど、無視をするわけではない。
二人の少年少女にとって、それは何を意味するのか。
正体の定まらない感覚は消えず、由美奈の胸中に灯り続けた。
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